2.初めての経験
水曜日、渚は朝から何となく落ち着かなかった。幸いアレクは水曜日に授業がなく休みだったので、顔を合わせる事もなかったが、もし会っていたらどんな顔をしていいかきっと迷っただろう。昼前に家に戻ると、ピョンがすでに準備をして(さしあたってカエルの準備は水浴びをするくらいだが)玄関前で待っていた。
「遅いで。待ち合わせは12時30分やろ。早よ着替えて行くで!」
「う、うん・・・」
なんだかピョンがデートするみたいだ。妙に力の入っているピョンを鞄に入れて、渚は待ち合わせをしているランベスブリッジまで走った。渚の姿を見つけたアレクが、キラキラと輝くテムズ川の水面の光を背に手を振っている。
「す、すみません。遅れてしまって・・・」
「走ってくる事はなかったのに。もう少し遅い時間に待ち合わせをすれば良かったね」
息を切らしている渚の肩に手を回そうとしたが、ヒヤッとした妙な感触に驚いてアレクは手を離した。渚の肩の上に黄緑色の大きなカエル(しかもすごく人相の悪い)が乗っている。
驚いているアレクを見て、渚はいつの間にかピョンが自分の肩に乗っていたのに気が付いた。
「あれ?ピョンちゃん?」
「ピョンちゃん?このカエル、君の?」
「あ、はい。すみません。どうしても付いて来るって聞かなくて」
ー 聞かなくてって、カエルが付いて来るって言ったのか・・・? ー
不思議に思ったが、とりあえずアレクは渚を連れて観光客にも人気のあるコヴェント・ガーデンにやって来た。ここはロンドンで唯一ストリート・パフォーマンスが許されている場所だ。おしゃれなカフェやかわいい雑貨屋、土産物店など見る所が一杯あり、いつも人々で賑わっている。ストリングスの演奏やジャグリングをしているパフォーマーがたくさん居る広場では大きな白いパラソルが並び、その下でたくさんの人々がおしゃべりをしながらジュースを飲んだり、アイスクリームを食べたりしていた。
アレクは渚の希望通りのオープンテラスの付いたレストランに彼等を連れて来ると、渚の為に椅子を引いた。そして渚の隣に座ろうとしたが、すでに席の前のテーブルの上にカエルが座っていた。思わずムッとしたが、仕方なく反対側に回って席に着いた。
「ここのペスカトーレは結構いけるよ。ロンドンに来て一番に食べたんだ」
「ロンドンでイタリア料理ですか?」
「だってノルウェーを発つ時みんなが言うんだ。イギリスの食事はまずい。イタリア料理ならどの国に行ってもうまいからそれにしろって」
「あ、それ、日本でも言われました。でも近頃はずいぶんましになったんですよ」
しばらく待つと、注文したパスタやサラダが運ばれてきた。渚は一口食べると、嬉しそうにアレクを見上げた。
「わあ、本当においしいですね。特にこのタコが・・・。あっ、タコっていえば私、お寿司のタコも大好きなんです」
「WAO!スシ!僕も一度食べてみたいんだ。ロンドンに店はない?」
「そうですね。気軽に行ける店ならソーホーにありますよ」
「ソーホーかぁ。僕ロンドンはまだ不慣れだからよく分からないんだ。良かったらナギサ、連れて行ってくれないかい?」
「それは・・・」
渚が答えようとした時、クッチャクッチャという妙な音が机の上から響いてきた。ピョンが渚がより分けた皿のペスカトーレを、思い切り音を立てながら食べていたのだ。
「グエーッ、グエッ、グエッ、グエーッ!」(ホンマや。これ、めっちゃうまいでー)
嬉しそうに鳴き声を上げたピョンをにっこり笑ってみると、渚はナプキンでピョンの口を優しく拭いた。
「ピョンちゃんったら、お口が真っ赤だよ」
そんな渚とピョンの様子を、何となく面白くない顔でアレクは見た。このカエル、なんだか妙だ。どう考えても僕とナギサの事を邪魔しようとしているようにか見えない。まさか人間の言葉や行動が理解できるのか?そんなはずはないと思うが・・・。
食事のあと紅茶を飲んでいる途中で渚は席を外した。化粧直しに向かったのだろう。こんな奴の為にオシャレをしないでもいいのにと、彼女の後ろ姿を見ながらピョンは思った。
「君、ピョンくん。そうやってご主人様を守っているんだ・・・」
アレクの言葉に、ピョンは頭の上に付いた目をぎょろっと彼に向けた。
「そうだよねぇ。ナギサは可愛いから心配だよね」
ふと目をそらしたピョンにお構いなくアレクは続けた。
「誤魔化す事はないだろう? ナギサは本当に素晴らしい人だね。高校をスキップするほどの才女なのに、ちっとも傲った所がない。僕はね。3ヶ月したらアメリカに渡るんだ。ここへは国で世話になった人の頼みだから来たけど、本当はニューヨークでもう次の仕事が決まっているんだよ。僕は公認会計士の資格を持っていてね。ある企業の顧問に呼ばれているんだ」
ー ようしゃべる男や。それも自慢げに・・・ ー
アレクの話に、ピョンは益々憎々しげに顔を歪めた。
「ナギサは後1年と少しここでの仕事が残っているって言ってたけど、ミシェル・ウェールズのような時代遅れな所に居ても、彼女の才能は生かせないと思わないかい?僕は3ヶ月後、ナギサをニューヨークへ一緒に連れて行こうと思っている」
ー な、何やと・・・? ー
ピョンはびっくりしてアレクを振り返った。
「ねぇ、ピョン君。君は彼女にとても愛されているみたいだけど、この僕に勝てるかな?出来れば邪魔などせずに協力して欲しいんだがね。それは君の為にもなると思うよ」
ー こいつぅぅぅ・・・ ー
ピョンは完全に頭にきた。一番腹が立つのは、渚の気持ちも聞かずに勝手に決めている事だ。誰が協力などしてやるか!そう叫んでやろうと思ったが、その最初の一言を繰り出そうとした時、渚が戻ってきた。彼女が席に着くと、今までの話など無かったようにアレクは渚を見て微笑んだ。
「ところで、ナギサ。射撃はやった事がある?」
「射撃・・・ですか?いえ、一度も・・・」
「実はハートフィールドの辺りでやっているのを聞いたんだけど、何となく1人では行きづらくてね。ロンドンには、ほとんど知り合いも居ないから誘う人も居ないんだ。良かったら一緒に行ってくれないかな?」
ー 嘘や、こいつ。絶対下見はしてるはずや! ー
ピョンは叫びたいのを我慢するのが精一杯だった。
「あ、でも・・・」
渚は迷いながらピョンを見た。
ー そうや。止めとくんや、渚。こいつは危ない ー
もちろんピョンは渚に目でストップをかけた。
「ねえ、いいだろう?今日は保護者も居る事だし・・・」
そう言ってアレクはピョンをちらっと見た。当然ピョンの事を渚の保護者とは思って居なかったが、そう言えば渚も警戒心を緩めるだろうと考えての事だ。
「もちろん暗くなる前には、ちゃんと送って行くよ?」
そうね。ピョンちゃんが居るんだもの。そう考えた渚は笑顔で頷いた。その笑顔にピョンは思い切り頭を殴られたようショックを受けた。
ー な、何でやねん。渚ーッ! ー
射撃場は音の問題もあるため、民家などのない広い平野にぽつんと存在していた。高い灰色の壁の建物が、少し威圧感を感じる場所だ。入り口で身分証を提示してOKが出ると入場できる。中からはすでに激しい銃声が響いていて、渚は少し怖くなった。普通、素人が射撃を行う場合は必ずインストラクターが付き添うものだが、アレクはその免許も持っているので、慣れた様子で自分の分と渚の銃を借りた。
少し怯えている渚に、アレクは片目を閉じて笑いかけた。
「初めて来たら、まず音にびっくりするだろう?」
「え、ええ・・・」
「あっち側は場外でライフルを使う射撃をしているけど、僕達は拳銃を使う室内射撃場にしよう。」
「あ、あの、私も撃つんですか?」
「せっかく来たんだ。大丈夫。最初は結構衝撃があるけど、すぐ慣れる。一発撃ったらスッキリするよ。ストレス発散だ」
「ス、ストレス発散ですか?」
「そうそう」
射撃エリアに入るには保護めがねとイヤホン型の耳栓を付けないと入場は出来ないので、アレクはそれらの装備を付ける前に言った。
「ピョン君は耳栓を使えないから、ここに居た方がいいな」
「グエ?」(え?)
「あっ、そうですね」
「グエッ、グエグエグエ?」(な、渚?)
アレクに言われるまま、渚はピョンを手で包み込んで奥の壁際にあるテーブルまで連れて行った。
「グエッグエグエグエグエグエグエグエッグエーッ!」(放せ、渚。二人っきりになんかなったら絶対あかんでーっ!)
「ピョンちゃん。中は防具がないと入れないのよ。ここでおとなしくしていてね」
彼女は呆然としているピョンに微笑みかけると、アレクの待つ射撃エリアの入り口の方に行ってしまった。
「防具を着けると何も聞こえないから、ここで少し予習をしておこう」
先生らしく言うと、アレクは渚の後ろから両腕で彼女を抱きしめるようにして、銃を構えるような仕草をした。そして渚の耳元で囁いた。
「いいかい?肩の力を抜いて・・・そう。ゆっくりと引き金を引く・・・」
“ゆっくりと、引き金を引く・・・”
渚の人差し指に力が入る。
「いいよ、ナギサ。これで必ず的に当たる。さあ、入ろう」
そんな2人の様子をピョンが黙って見ているはずはない。
「ゲーコ、ゲコゲコ、グェッ、グエグエグエグエーッ!!」(ベタベタ渚に触るんやない!手ぇ放さんかい!このスケベやろー!!)
必死に叫ぶ声も届かず、彼らは射撃場の中に入って行ってしまった。ピョンはと言えば、あまりに叫び過ぎて肩で息をしながら、只悔しげに射撃場の閉まった扉を見つめる事しか出来なかった。
中は一人ずつの仕切りが付いた射撃場になっていた。。ここはクレー射撃などのライフル銃の屋外射撃場とは違って、屋内施設になっている。一人ずつ台の前で銃を構えて25メートル先の的を狙うのだ。さっきと同じように渚の後ろから彼女の姿勢を整えると、アレクは銃を撃つように渚に指示を出した。予習通りに渚は息を吸い込んで、ゆっくりと引き金を引いた。激しい音と衝撃音と共に銃弾が発射され、的の端から5センチほど内側を貫いた。
「当たった!」
渚が嬉しそうにアレクを振り返ると、彼も片目を閉じて笑いかけた。




