1.新たな出会い
授業を終えた土曜日の午後、渚はナショナル・ギャラリーの近所にあるバス停に出かけた。今日は久しぶりにウィディアと会う約束をしているのだ。バス停でしばらく待っていると、バスから降りる人々の群れの中に、懐かしい顔が見えた。
「ウィディア!」
「ナギサ!」
『きゃあ、久しぶりー!!』
彼女達は抱き合った後、すぐにダブルデッカーと呼ばれる2階建てのバスに乗って渚の住むマンションへ向かった。濃い赤の車体が歴史ある建物に映える美しいバスだ。バスの中でも、もちろん女の子達の会話は尽きる事はない。
「どう、ウィディア。彼氏は出来た?」
「ダメダメ。私に釣り合うようなイケてる男はなかなか居ないのよ」
「言っちゃってぇ」
ひとしきり笑い合った後、渚は急に唇をかみしめて俯いた。
「ウィディアがロンドンに戻って来てくれて良かった。あの日、長距離バスに乗って行ったから、もう会えないかも知れないと思って・・・」
渚の肩に手をかけるとウィディアは微笑んで、少し涙ぐんでいる彼女の顔をのぞき込んだ。
「あたしね、どこに行くか全然決めてなかったの。行く当てなんか無かったし。でもミシェル・ウェールズを出る時、校長先生が結構お金をくれてさ。それで以前から一度行ってみたかったコッツウォルズの方に行ってみたのよ」
「校長先生がお金を・・・?」
「うん。それにもし教職に就くなら、紹介状も書いてあげるって言ってくれたわ」
冷たそうに見えたシスター・ボールドウィンだが、きっと身寄りのないウィディアを心配していたのだろう。本当は優しい人なのかも知れない。それから又ウィディアのコッツウォルズ旅行の話が始まり、今勤めている店の話が中盤にさしかかる頃、渚が住んでいるマンションに到着した。部屋の中に通されたウィディアは一通り部屋の中を見回した後、「へえ、なかなかいい家に住んでるじゃない」と言った。
「そう?」
「リビングも広いし、充分一家族住めるわね。なのにまだカエルと2人暮らしなの?」
「うん。ウィディア、ちょっと待っててね。すぐランチの用意をするから」
そう言って渚がキッチンの方に行くと、ウィディアはリビングテーブルの下に置かれたベッドにちょこんと座っているカエルを横目で見下ろした。ピョンのベッドは彼がこの家に来た時、小さなカゴにただクッションを詰めただけだったが、今はグレードアップして小型犬用の大きなベッドに変わっている。木製の美しいフレーム飾りの付いた、ちゃんと枕用のクッションや布団までそろった高級品だ。
「ふうん。ずいぶん愛されちゃって。ナギサみたいな可愛い子と暮らせて、あんた、幸せねぇ」
目を細めているウィディアを見上げて、ピョンはドキドキを押し隠すように顔をそらした。
“あかん、あかん、気ぃつけな。この手の女は感が鋭いんや”
言葉を話せると分かれば、何をされるか想像するだけでも恐ろしい。そんなピョンの心情には当然気づきもしないが、彼女はにやりと笑ってピョンに顔を近づけた。
「まあ、それもナギサに彼氏が出来るまでだろうけどね。もし彼氏がカエルなんか大嫌いだ!なんて言ったら、あんた、捨てられちゃうわよ」
“こいつ・・・!シスター辞めてから性格悪なったんちゃうか?いや、これが元々の性格か・・・”
しばらくすると渚が大きなトレイにイギリスでは定番のフィッシュ&チップスやサラダ、得意の日本料理などをのせて戻ってきた。たくさんの料理をテーブルに並べた後、ピョン用にサンドイッチとフライドポテト、サラダのセットを置いたのを見て、ウィディアが呟くように言った。
「本当に愛されてるわねぇ。まっ、今だけだろうけど・・・」
“はぁぁ・・っ、ほんまに性格悪い奴っちゃなぁ・・・”
ピョンは素知らぬ顔をしつつ、心で泣いていた。
楽しい食事と会話を楽しんだ後、ウィディアは帰る事になった。渚はウィディアに泊まっていって欲しかったが、明日の日曜日は今アルバイトをしているレストランがとても忙しいらしく、休めないので仕方なかったのだ。帰りはピョンも連れてバス停までウィディアを見送りに行った。
「じゃあね、ナギサ。又来るね!」
「待ってるわ、ウィディア!」
楽しそうに手を振り合う2人を見ながら、渚の居ないとき散々ウィディアに嫌味を言われたピョンは“二度と来るな!”と心の底から思った。
月曜日の朝、礼拝が終わってシスター・ルームに戻ると、シスター達があちこちに固まって噂話をしていた。何の噂か知らないが、渚はそれに加わろうとは思わないので、マリアンヌに挨拶をして席に着いた。
いつものように授業の準備をして席を立とうとした時、シスター・エネスに伴われて一人の男性がシスター・ルームに入って来た。背の高さもさることながら、流れるような金色の髪と長いまつげの下の碧眼は透き通るように美しく、白い肌の整った容姿は一瞬でシスター達の視線を集めた。
「今日からギリシャ語の授業を担当していただく事になった、アレクセイ・フラグスタートさんです。3ヶ月ほどの期間講師ですが、皆さん神に仕える者として礼節を持って接するように」
ため息交じりに彼の事を“ジーザス(キリスト)”のようだと呟く声が聞こえた。シスター・エネスはシスター達のひそひそ話を止めるようにゴホンと咳払いをし後ろに下がった後、彼が前に出た。
「アレクセイ・フラグスタートです。アレクセイというのは呼びにくいでしょうから、アレクと呼んで下さい。ノルウェーから出てきたばかりで、まだ勝手がよく分からない所もありますが、宜しくお願いします」
渚が2限目の授業を終えてカフェで休憩していると、同じように授業を終えたアレクが現れ、渚の姿を見つけると彼女のテーブルまで歩いてきた。
「ナギサ・・・コーンウェル先生ですね。日本語の教師だとか。前に座っても・・・?」
「あ、はい。どうぞ」
渚は笑顔で手を差し出した。
「あなたも期間講師なんですね」
「ええ。まだ半年くらいなんですけど」
それを聞いて親近感がわいたのか、彼は少し声を潜めて言った。
「日本からいらしたとか。外から来るとここは・・・何というか、その・・・」
「うふふ。読まれました?戒律の書」
渚も少し声を潜めて、いたずらっ子のように笑った。
「ええ。もうびっくりしました。まるでこのミシェル・ウェールズの中だけ中世に戻ったみたいだ」
「私も最初そう思いました」
楽しそうに話し込んでいる渚とアレクの姿をカフェの外から見かけたシスター・マディーンが、側に居たシスター・イライアの肩を叩いて指さした。
「ちょっと。あれ見て」
その後ろから別のシスターもやって来て、渚達を見ると眉をひそめた。
何日かするとすっかりアレクは生徒達にも馴染み、どこに行く時もたくさんの女の子達に囲まれていた。廊下で私語は禁止なので外に出ると、女の子達はアレクと話をしたり、時にはボール遊びをせがんだ。いつもは外に出て遊んだりしない生徒達が、彼と元気に走り回っている姿を通りがかった時に見た渚は微笑んだ。
「やっぱり子供はこうでなくっちゃね」
再び歩いて行こうとした渚を、ボールを投げたアレクはめざとく見つけると、手を振り上げた。
「ナギサ!」
驚いたように顔を上げた渚は、アレクがずっと手を振っているので、少し赤くなって手を振り返した。ピョンにはいつも呼び捨てにされているが、ここではみんなナギサ先生と呼ぶので、急に呼び捨てにされるとなんだか照れるものだ。7年生の女生徒がちょっとひがむように上目遣いでアレクを見上げた。
「アレク先生。ナギサ先生こと、好きなの?」
「そうよ、好きなんでしょう?」
他の女の子達も詰め寄ってきた。
「は?何を言っているんだ?君達は」
「だってナギサ先生のこと呼び捨てにしちゃって。すごく親しそう」
「ああ・・・。そうだね。ちゃんとナギサ先生って呼ばないといけないな」
放課後、荷物をまとめて本館を出た渚をアレクが呼び止めた。
「ナギサ先生。今から帰られるんですか?良かったら、そこまで一緒に」
「ええ」
並んで歩き始めた渚とアレクを通りがかった2人のシスターが見つけたが、彼らを見るなり2人ともムッとして顔を見合わせた。
巨大なロートアイアンの中央門は普段は開く事はなく、ミシェル・ウェールズを出入りする時はいつも門の右手にある小さな通用門を通る事になっている。そこを出るとアレクは肩の荷が降りたようにため息をついた。
「ああ、あの門を出ると、なんだかほっとします」
「うふっ。そうですね」
渚も最初の頃はそう思っていたので、アレクの気持ちはよく分かった。
「でも可哀想なのは子供達です。家に帰れるのは夏休みとクリスマス休暇の間だけ。10年間もあの鉄の箱の中で生活していかなきゃならないんですからね」
「私も・・・最初はそう思ってました。でも半年間子供達を見てきて、あの子達の心はまだまだ柔軟で色々なものを受け止める事が出来る。純粋に友達の為に自分を犠牲にする事も出来るんだって分かったんです」
渚は頭の中でサラや彼女の友達がピョンの事を誰にも言わなかった事や、ウィディアの生徒達の事を思い出していた。
「私、ここに来て良かった。まだまだ色々戦わなきゃならない事も一杯だけど、あの子達に出会えて教える事が出来て、本当に良かったって思うんです。だって私の方が子供達の教えられる事、一杯あるんですもの」
そう言ってにっこり笑った渚を、アレクも微笑んで見つめた。
「ナギサ。あなたと居ると、どんな暗い所に居ても光を失わずに居られそうな気がする」
その呟きがはっきり聞こえなかったので、渚は不思議そうな顔で背の高い彼を見上げた。
「ナギサ。良かったら今度の日曜、食事にでも行きませんか?」
「日曜・・・ですか?」
渚は今朝ピョンと交わした会話を思い出した。次の日曜日はピョンとお弁当を持って水族館に行く約束をしているのだ。彼は水族館に行った事がなくて、とても楽しみにしていた。
「すみません。日曜日は友達と約束が・・・」
「そうですか・・・。そうだ。確か水曜の講義は午前中まででしたね。その後はいかがですか?ランチでも・・・」
「あ、ええ。あまり遅くならないんだったら・・・」
遅くなると同居人のカエルがうるさいのだ。
「良かった。じゃ、来週の水曜日に・・・」
そう言って去って行くアレクの背中を見送って、渚はふとため息をついた。
ー これって、デートになるのかなぁ・・・ ー
そう考えた途端、急に頬が赤くなった。実は男の人とデートするのは初めてだったのだ。そう考えるとなんだかドキドキしてきて、渚はそのままの状態で家に帰ってきた。
「ただいま、ピョンちゃん!」
「おう、お帰り。なんか今日はえらいご機嫌やなぁ」
「うふ。あのね。来週の水曜日、デートするんだよ」
「へぇ、デートか。ぬわに?で、でぇとぉ?だ、だ、誰とや!」
ピョンは驚きすぎて、食べていたポテトチップスの粉をあたりに巻き散らかした。
「同じミシェル・ウェールズの先生。ほら、この間ギリシャ語の先生が来たって言ったでしょう?」
「そ、そのギリシャ人と、どこへ行くんや!」
「ギリシャ人じゃなくてノルウェー人だよ。どこって、ランチを食べに行くだけよ」
渚は夕飯の支度をしながら楽しそうに答えた。
「ランチ・・・食いに行くだけって・・・」
ピョンは目を細めると、ぐるっと後ろを向いて考えた。
ー どこの馬の骨かわからんノルウェー人なんて、手が早いに決まってる。渚はぽえーっとしてるから、うまいこと言われてどこに連れて行かれるか分からへんで・・・ ー
「渚!」
「な、何?ピョンちゃん」
いきなりピョンが叫んだので、渚はびっくりして包丁を手放した。
「そのランチ。ワイも食いに行く」
「え?でも・・・」
「なんや?ワイが行ったらマズい事でもあるんか?ああ、そうか。渚は自分がカエルと暮らしてるなんて知られたくないんやな。ふーん、そうか。所詮ワイは邪魔者なんやな?」
「そ、そんな事ないよ。じゃあ、どこかオープンテラスのある所がいいね」
カエルはにやりと笑いながら答えた。
「そうやな。ええ天気やとええなぁ・・・」




