3.カエルの歌
次の日の夜、10時15分頃、ピョンは玄関で渚が来るのを待っていた。しかしなかなか自室から出てこない。一体何をしているのだろうと思っていると、やっと身支度を終えた渚が出てきたが、その姿を見てピョンはびっくりした。首には十字架のネックレスと防犯ブザー。両肩にはニンニクをくくりつけたロープを巻き付け、手には金属バットを持っている。
「な、なんや、その格好。ドラキュラ退治にでも行くんか?」
「だって古い建物だし、何が出てくるか分からないもん」
「あほっ、そんなもん、いらんわ。懐中電灯だけで十分や」
かなり抵抗したが、ピョンに言い含められて普通の服装に着替えた渚は、ブラックキャブと呼ばれるロンドンタクシーに乗ってミシェル・ウェールズまでやってきた。門を守るガードマンにはシスター・エネスが話を通していたらしく、夜回りに来たと言うとすぐに入らせてくれた。
本館の扉を預かってきた鍵で開けると、渚はきしむドアを開け中へ入った。思った通り中は真っ暗でいつも見慣れている場所なのに、別の建物のように思える。もし今一階の廊下の端にある大きな柱時計が鳴り響いて時刻を告げたら、渚は間違いなく「ヒィィッ!」と叫び声を上げていただろう。彼女は恐る恐る足を踏み入れ、一階の奥にあるシスター・ルームに向かった。
小さな懐中電灯の光を頼りに暗い廊下を歩いていると確かに靴音だけが冷たく響いて、渚は寒さと恐怖で気が遠くなりそうだった。
「ピ・・ピ、ピョンちゃん・・・」
「なんや」
「何かしゃべってよぉぉ」
もう渚は半泣き状態だ。ちょっと脅し過ぎたらしい。ピョンは小さくため息をつくと、ポケットから顔を出した。
「しゃあないなぁ。ほんなら歌でも歌ったるわ」
そう言って彼はいつものダミ声で歌い始めた。
ー 緑の野に渡る風は青く澄み
空に流れる雲は懐かしき人々の姿に似て
我が心の琴弦を鳴らす
オリーブの葉さざめき オレンジの花香る
収穫を祝う人々の声
香しき葡萄酒の輝きにも似て 我が心に響く
おお 遙かなるアルセナーダ 我が故郷
旅の途中で力尽き 骸となりても
身体は土となり 風に乗って彼の地に還らん
懐かしき我が祖国 アルセナーダ
野に渡る風よ
我が心を通り抜け伝えてくれ
遠く離れた我が国に
私は忘れたりしない
だからお前も忘れないで・・・と ー
ピョンの声はダミ声だが、曲はとても美しい曲だった。
「きれいな言葉だね。どこの国の言葉?」
「今はもう亡き文明の忘れ形見や」
「アルセナーダって聞こえたけど、ピョンちゃんの国の事?」
「さすが語学研究をしとっただけはあるな」
渚は以前ピョンが少しだけ自分の国について話してくれた事を思い出した。火山の爆発に誘発された地震で滅びた伝説の国。今でもピョンはその国の話をする時、遠い目をして懐かしんでいるように思う。きっととても美しくてピョンにとって大切な思い出の眠る国なのだろう。
「ねえ、もしかしてピョンちゃんの一族ってみんな話せたの?」
「え?ま、まーな。ワイほどの天才ガエルはおらへんかったけど」
「やっぱりそうだったんだ。ピョンちゃんだけしゃべれるなんて、放射能汚染か環境ホルモンのバランス異常かと思ってたけど・・・」
どうやら渚はピョンの事をゴジラのように思っていたらしい。ゴジラは水爆実験が原因らしいが、まさか魔女の呪いとも言えず、ピョンは不服そうに口をとがらせた。
「そうかぁ。じゃあ、アルセナーダってカエルの王国だったんだね。でもってピョンちゃんはその国の王様か王子様で」
「ん・・・まあ、一応後者かな」
「やっぱり!ピョンちゃんってすごい博識だもの。それじゃあ、一度くらい帰りたいでしょう?たとえ誰も居なくてもそこはピョンちゃんの国だもの」
「さあ、どうかな・・・」
ピョンにとって故郷の記憶はただ辛いだけの思い出であった。いずれは自分が皇帝となって治めるはずだった国。家族も友人もたくさんの民も、全ての人々が死んでいくのに、何も出来なかった自分。思い出す度に、己の罪を思い知らされるようで、長い間考えないようにしていた。今では深い樹海の中に埋もれてしまった伝説の国・・・。
「私ね、そんな古い文明を探し出して、そこに生きた人々が残した言葉を知りたいの。大学で研究していたのも、そういう忘れられた古い言語なのよ」
それを聞いたピョンは急に地面に飛び降りた。
「そんなん探してどうするんや?ワイの国なんて、たったの1日で全てが滅びてもうたんやで?炎に包まれ逃げ場を失い、死の恐怖に怯えながらみんな死んでいった。そんな人々の悲しみや恐怖がその土地に染みついているんや。そんな国を探し出して死者の眠りを妨げるんか?」
助けを呼ぶ声、死の恐怖におびえる人々、何も出来ず見ているだけの自分。後悔と懺悔の記憶が、何度も何度も繰り返し夢となって責め立てるのだ。
「ワイは嫌や。あんな辛い思い出は、もう忘れたいんや!」
興奮して叫んだピョンを同情深く見つめると、渚は彼を両手ですくい上げ、自分の顔の前に持ってきた。
「死ぬ時は、誰だって怖いよ。辛くて悲しくて・・・」
きっと両親もそうだっただろう。空高く飛ぶ飛行機の中で、もはや助からないと悟った時の恐怖。その時の彼らの事を思うと、今でも胸が締め付けられる。
「それでも、幸せに生きた時はきっとあったでしょう?どんな文明でも必ず見つかる碑文(石碑に彫りつけた文章)にはその時代のその国の人々の日々の暮らしが記されているの。結婚式や収穫の祭りの様子。それから戦争の記録。
彼らはどうしてそんな物を残したのかしら。後世の人々に伝えたかったんじゃないかしら。自分達の生きた証を。ここでこんな風に生活してたんだよって、私たちに知って欲しかったんだと思う。私がパパとママの事をずっと覚えているように、自分たちの事を覚えていてほしかったんだと思う。
だから私は、いつか世界中を回って、そんな人々の足跡を見つけるの。絶対消えないように石や金属に掘ってまで残した彼らの言葉を、解き明かしたいのよ」
自分のまっすぐな思いをまっすぐな瞳で語る渚の言葉に、ピョンは心を動かされた。弱虫ですぐ泣くくせに、ちゃんと自分の道を見つめて彼女は歩いているのだ。
「ワイの国は火山の爆発と地震で滅んだ国やから、そんな石碑も残ってへんかも知れへんけど、でももしお前が行ってみたいんやったら、連れてったるで。今は樹海に埋もれてもうてるから、ちょっと覚悟はいるけどな」
「うん!いつか一緒に行こうね、ピョンちゃ・・・」
嬉しそうに答えようとした渚は、急に青い顔をして言葉を止めた。どうしたのだろうと彼女がじっと見つめている廊下の交差点を見ると、いくつかの白い影がすうっと通り過ぎるのが見えた。
「で、で、出た・・・」
ガクガクと震えだした渚は、恐怖のあまり床に座り込んだ。
「静かにせい。大丈夫や。後を追うで、渚」
“ええー!?”
声にならない声で渚は叫んだ。恐怖のために動けない渚を尻目にピョンはどんどん飛んで進んでいった。こんな所に一人で置いて行かれるなんて絶対嫌だ。渚は消えるような声で「待って、ピョンちゃん」と呟くと、何とか立ち上がって彼の後を追った。
廊下の角からさっき白い影が通り過ぎていった先を覗くと、月明かりで白い影の正体が分かった。サラといつも一緒に居る4人の子供達だ。先頭をリーダー格のヴィンセント。その後ろに好奇心旺盛なウディ、少しのろまのマートン。おませでサラの親友のジュリア。そして一番後ろに不安そうな表情のサラが居た。
「あの子達・・・!」
小さく呟いた渚にピョンは「知り合いか?」と聞いた。
「私が日本語を教えている生徒よ。ほら。あの一番後ろの小さな女の子、あの子がサラよ」
子供達はシスター・ルームの電気が消えていて誰も居ない事を確認すると、ドアを開けて入っていった。なぜ彼等がこんな時間にシスター・ルームを訪れたのか、渚にはすぐに分かった。この間シスター・エネスに奪われたサラの本を奪い返しに来たのだ。
彼等は5人ひとかたまりになってシスター・エネスの机に向かうと、すぐにヴィンセントが一冊の分厚い本を見つけ、それに手を伸ばした。だがその本に触れる前に、誰かが彼の手首を持って彼の手は空中で止まった。
「ヴィンセント、駄目よ」
5人の子供達は驚いて、自分達の間に割って入った渚を見上げた。それでもヴィンセントは彼らのリーダー格らしく、キリッとした口調で言った。
「これはサラの本なんだ。どうして取り返しちゃいけないんです?」
「でも黙って盗るのはいけない事よ。たとえそれが自分の物でも。ちゃんとシスター・エネスに話を通さなければね」
「どんなに頼んだって、あの人が返してくれるはずはないんだ。ナギサ先生だって分かっているんでしょう?」
ウディの反論にジュリアとマートンも頷いている。
「ええ、分かっているわ。でもこんな事をしたら、やったのはすぐにあなた達だって分かってしまう。そうしたら罰を受けるのはサラなのよ」
渚の言葉にやっと彼等も自分達のしている事が、本当にサラの為になるわけではないのだと分かったようだ。サラは何も言えず、彼等の後ろで俯いたまま押し黙っている。きっとサラは自分の為に友達がこんな危ないまねをする事を止めたかっただろう。だがヴィンセントを中心に他の子供達が賛成したので、仕方なく付いてきたのだ。
「でも先生。これはサラが叔父さんに頼んでやっと手に入れた大切な宝物なんです。だけどあの人にとってはただのバイ菌のような物なのでしょう?本当にちゃんと預かってくれるんでしょうか」
「それは・・・」
渚が答えようとした時だった。
「誰!?そこで何をしているの?}
突然シスター・モーリスが入って来て、彼らに懐中電灯を向けた。シスター・エネスに止められたが、やはり渚一人に任せておくのは心配になって様子を見に来たのだ。皆がびっくりして押し黙った瞬間、ピョンが渚のポケットから飛び出し、シスター・モーリスの顔に張り付き、耳も塞いだ。
「はよ逃げろ!渚!」
「ピョンちゃん、でも・・・」
「ええから子供ら連れて逃げるんや。ワイは大丈夫やから」
「うん!」
渚はサラとジュリアの手を掴むと後の3人の男の子達に向かって「行くわよ!」と言って走り出した。彼等の姿が見えなくなると、ピョンはシスター・モーリスから素早く離れ姿を消した。鼻を塞がれ息が出来なかったせいか、シスター・モーリスは荒い息を繰り返した後、おびえながら辺りを見回した。
「何だったのかしら、今のは・・・。なんだかゴムのような物が顔に・・・」
そう呟いた時、突然後ろで何かが倒れる音がして彼女は「ヒッ!」と叫び声を上げた。その後近くの机の上の書類がバサバサと床に落ちた。
「ヒィアァァァッ!」
狂ったように叫ぶとシスター・モーリスは一目散に逃げ出した。




