2.夜回りの許可
食事を作る元気もなかった渚は、少し寄り道してバケットサンドやスープを買って帰った。ピョンにはヘルシーなベジタブルジュースだ。とにかく早く愚痴を聞いてほしかった渚は、スープを一口飲んですぐに話し始め、こう締めくくった。
「それでね、シスター・エネスはサラの本を返してくれなかったの・・・」
先ほどの出来事を思い出すと、悔しい気持ちや情けない思いで、又涙が出てくる。鼻をグズグズいわせながらバケットを頬張っている渚を見て、泣きながら食べるなんて器用な奴だなとピョンは思った。
「きっとシスター・エネスは日本が嫌いなんだわ。だから私の事も嫌いなのよ」
渚は怒りに燃えながら、マッシュポテトのかたまりを口に放り込んだ。
「ああ、多分こうやな。シスター・エネスいうおばはんは、昔、日本人の男にこっぴどう振られよったんや。『お前みたいなブスは嫌いや!』ゆうてな。そやから日本と言うだけで全てを目の敵にしてんのや」
「そんなこと、無いと思うけど・・・」
「いいや、絶対そうや。女の恨みは怖いんやで。ブスなんて言った日にゃあ、一生恨まれる。おまけに2回もブスなんて言ったら、永遠に解けへん呪いをかけられんねんでぇぇぇ」(ちなみにワイは3回も言うてもたけどな・・・)
ピョンがまるで怪物のように顔を歪めるので、渚はやっと笑った。
「あははは。ピョンちゃんったら、まるで経験者みたいだね」
本当に永遠に解けない呪いをかけられた彼は、黙って脂汗を流した。
ミシェル・ウェールズでは深夜シスター達による“夜回り”という警備が行われる。授業を行う教室のある本館、生徒達の学生寮のある2号館と3号館、シスターの寮や校長室のある1号館、そして大聖堂を見回るのだ。
今までミシェル・ウェールズの外で暮らしている渚にその役目は回ってこなかったが、彼女にもミシェル・ウェールズの教師としての義務を果たすようにと校長から指示があったと、シスター・エネスから放課後呼び止められて話があった。
この間サラの本の件で、散々シスター・エネスに逆らったのだ。ある程度の報復がある事は覚悟していたので、渚はすぐに快く引き受けた。授業に向かう渚の背中を顎を上げて見つめているシスター・エネスの後ろから、側に居て話を聞いていた副主任のシスター・モーリスがおずおずと声を掛けた。
「あの、宜しいのですか?夜回りは二人一組でいつも・・・」
「ミス・コーンウェルなら1人でも大丈夫でしょう。それともシスター・モーリス。あなた、あの問題児と組んで、何か事件に巻き込まれたいとでも?」
「と、とんでもありませんわ、シスター・エネス!」
シスター・モーリスは慌てて首を横に振った。
快く返事をしたものの、渚には一つ問題があった。この間も学校帰りに図書館で勉強をすると言ったら、ピョンに大反対されたのだ。
「あかんで!おなごは暗くなる迄に帰って来るもんや。結婚前のおなごがフラフラ夜遊びするなんて、もっての外やで!」
「ピョンちゃん、そんなの古いよ。今時お爺ちゃんでもそんなこと言わないよ。それに夜遊びじゃなくって図書館で勉強するだけだし」
「あほ、こんなんに古いも今時もあるかい。勉強やったら家帰っても出来るやろ。本借りて来るんや」
家に帰るとついピョンとしゃべってしまい、勉強にならないから図書館に行きたかったのに、そんな言い訳はピョンには通用しないようだ。
最近のピョンは本当に渚の保護者だ。父親のリチャードも母の詩織も渚にうるさく言う事はほとんど無かった。彼らは海外の学会や講演に出席したり、患者の治療の為に長期で家を空ける事が多かったからだ。こんなふうにいつも一緒に居て心配してくれるのは、渚にとってピョンが初めての存在だった。だから彼の言う事には逆らえないのだ。
「なあにぃ?夜回り?」
家に戻ってシスター・エネスの言葉を伝えると、案の定ピョンは怪訝そうに顔を歪めた。
「う、うん、そうなの。これも仕事の一部なのよ。変な人が入り込んだりしてないか、ミシェル・ウェールズ中を見回るの。これって生徒を守る、すごーく大事なお仕事なんだよ」
「そんなん、ガードマンの仕事ちゃうんか」
「ガードマンさんは何かあった時は駆けつけてくれるけど、いつもは外の警備だけなの。だから中は私たちが交代で見回らなきゃならないの」
端から見れば、カエルに向かって一生懸命にお願いしている人間の姿は滑稽であったが、とにかく渚はピョンの許しが欲しかった。
「ふーん。それをシスター・エネスから言い渡されたんやな」
「う、うん・・・」
「そうか。ほな断られへんわな。行ってき」
「え?ほんと?いいの?」
「しゃあないやろ。断ったら又あのおばはんにネチネチいじめられんの、渚やからな」
「ピョンちゃん、ありが・・・」
嬉しそうにピョンを抱き締めようとしたが、彼は渚の手の平の上で指をピンと一本立てて、それを食い止めた。
「但し、一つだけ条件がある」
「な、何・・・?」
「その夜回り、ワイも行くからな」
「ええ?駄目だよ、そんなの」
渚は驚いてピョンをさっきまで居たテーブルの上に戻した。
「ほう、ええんか?ミシェル・ウェールズゆうたら前も言うたけど、400年の歴史があるんやで。そういうとこには必ずおるんや。アレがな・・・」
「な、な、何?アレって・・・」
「決まっとるやろ、地縛霊や!」
ピョンの大声に、渚は思わずビクッとして両手を握りしめた。
「嘘よ。そんなの・・・」
「嘘やない。400年も歴史があってみい。中には階段から滑り落ちて事故死した奴やら、いじめられて自殺した奴も一杯おるぞ。そんな奴らが夜中になったらウヨウヨ出て来るんや、『よくもいじめたなぁ、呪ってやるぅぅぅ』」
「キャァァァッ」
渚は思わず耳を塞いで叫んだ後、震えながら首を振った。
「そ・・・そんな噂、聞いた事ないもん」
「そりゃそうやろ。ミシェル・ウェールズの恥になる事やからな。つまりタブーや。口が堅いシスターは言えへんやろうなぁ。まあ、ええけど。たった一人であの建物を歩いとるやろ。靴音だけがコツーン、コツーンと響いてなぁ・・・」
この時渚は、背中に氷を押しつけられたようにゾクゾクした。
「そのうち手に持ってるロウソクの炎が、風もないのにフッと消えるんや」
今時ロウソクなんて持ってないと突っ込む事も出来ない渚だった。
「と、その時・・・!!」
「いやぁー、いやぁー、いやぁーっ!」
ピョンの恐ろしげな声に、渚は耳を塞いで必死に首を振った。
「あれ、渚、どないしたん?まだその時までしか言ってないで」
「ピ、ピョンちゃん・・・」
「ん?なんや?」
「一緒に行って。お願い」
ピョンは渚に見えないよう後ろを向き、とんでもなく悪い顔でニヤァッと笑った。