4.さよなら ミシェル・ウェールズ
一方マリアンヌも渚に取った態度の事で悩んでいた。それに渚に悪気がなかったのも分かっていた。だがここに残るか帰国するか悩んでいたのに、全く相談してもらえなかった事や、渚の夢も何一つ聞かされていなかった事がどうしてもマリアンヌの心に暗い影を落としてしまう。
“ 渚にとって私は只の同僚でしかなかったのかしら。ウィディアと同じように大切な親友だと思って居たのは私だけだったの? ”
そんな思いからあんな態度を取ってしまったが、マリアンヌも子供ではない。自室に戻ってしばらく経つと落ち着いてきて、自分の短慮な行動で親友を傷付けてしまったのではと思い至った。
“ そうよ。私はシスター・ボールドウィンのような立派なシスターになるって決めたじゃない。なのにつまらない意地を張って親友の夢を応援してあげられないなんて、きっと神様に何て心が狭いんだって怒られてしまうわ ”
やっとそう思えるようになったが、冬期休暇前のマリアンヌはとても忙しかった。クリスマスには子供達が皆家に帰ってしまうので、ミシェル・ウェールズでは冬期休暇前にクリスマス礼拝が行われる。そこで全学年から集めた50人余りの子供達で構成された聖歌隊が歌を披露するのだが、マリアンヌはその聖歌隊の指導と指揮を任されているのだ。
聖歌隊の練習は授業が終わってから行われるので、マリアンヌの一日は授業や練習で忙殺されていて、渚とはずっとすれ違いの毎日だ。こんな時、携帯電話があったらすぐに渚に連絡を取って、いや、まずメールででも謝罪の言葉を送れただろう。だが頑固なマリアンヌはやれ手続きが面倒だの、ミシェル・ウェールズからほとんど出る事がないのを言い訳に携帯電話が解禁になった今も持ってはいなかった。やはり渚に勧められた時に買っておけば良かったのだと今更ながら反省した。
「今日こそ外出許可を取って “ 悪魔の機械 ”(マリアンヌは未だにそう思っている)を手に入れなきゃ!」
ついにマリアンヌは携帯を持つ事を決意した。
それから3日、互いに忙しくすれ違いの毎日を送っていた2人だったが、とうとう今日、授業に向かう途中の廊下で向かい合う事になってしまった。5メートルも離れた場所で立ち止まって、彼女達は互いに見つめ合った。
“ どうしよう。マリアンヌには一杯言いたい事があったのに、こんな授業前のわずかな時間に、どう気持ちを伝えたらいいの? ”
渚と同じようにマリアンヌも思った。だが今決着を付けなければ。このまますれ違いになったら、もう二度と以前の様な関係に戻れない気がした。
マリアンヌは意を決してシスタードレスのポケットから例の物を取り出した。3日前覚悟を決めて買って来た携帯電話だ。それを右手に持ってよく見えるよう頭の上に掲げた。
「ナギサ!ナギサが日本へ帰っても、これがあるから大丈夫。いつだって顔を見ながら話が出来るわよ!」
その言葉だけでナギサはマリアンヌが自分が言いたかった全てを受け止めてくれているのだと分かった。
「うん!必ず連絡する。どんなに離れてもマリアンヌは私の親友だからね!」
やっと2人は久しぶりに笑い合えた。だがその様子を物陰から生徒の1人に見られていたとは気付かなかった。彼は「大変だ」と呟くと、慌ててその場を後にした。
その少年の名はマートン・クラント。サラの友人で可愛い侯爵家のレディを守る騎士の1人と自負する9歳の男の子だ。少し小太りな彼は何とか足音を立てないようにその場を去り、その後は走ってはいけないという校則をすっかり忘れてドタドタと足音を響かせながら自分の教室に走り込んだ。
「サラ!!」
そしてびっくりしたように自分を見るサラやヴィンセント達に詰め寄って叫んだ。
「先生が、ナギサ先生が辞めちゃうよ!もうすぐ日本へ帰っちゃうんだって!!」
びっくりしたのはサラと友人達だけではない。同じ日本語クラスを取っているクラスメイト達も「何?どういう事?」と言いつつ集まって来た。
「さっきシスター・マリアンヌとナギサ先生が話しているのを聞いたんだ。日本へ帰っても電話で話せるから大丈夫とか言ってた」
「そんな・・・」
生徒の中でも一番ショックを受けたのはサラだった。今年のクリスマス休暇も実家に渚と帰って楽しいクリスマスを過ごそうと計画していたのに・・・。
丁度教室に入って来た担任のシスター・イーリスがいつもと様子の違う子供達に眉をひそめた。
「みんな、何を騒いでいるの?さっさと席に着きなさい」
そんな言葉も耳に入らないようにサラは教室を飛び出した。勿論マートンやヴィンセント達も後に続く。親友のジュリアはサラ達におとがめが行かないよう「サラの気分が悪くなったので救護室に行かせました。私も付き添いで行って来ます!」と叫んで教室を出た。
授業がすでに始まっているので廊下には誰も居ない。静まりかえった校舎の中をサラはいつも渚が日本語の授業を行っている教室へ向かって走った。きっと今シスター・エネスや他の口うるさいシスターに見つかったら、注意どころか処罰されてしまうだろう。それが分かっていてもサラは止まれなかった。
「ナギサ先生!」
丁度5年生の授業中だった渚は、教室のドアを開けて叫んだサラを驚いたように見つめた。
「先生!嘘でしょ?日本へ帰るなんて嘘よね!」
渚は手に持っていた教材を机の上に置くと、サラに向き直った。ああ、ここにもちゃんと説明しなければいけない人が居たのに・・・。
渚は生徒達には12月に入ってから、それぞれの授業でミシェル・ウェールズを辞める事を伝えればいいと思っていた。だが咎められるのを承知で自分の為に走ってきたサラは渚にとって特別な生徒で、サラにとっても自分は特別な存在に違いなかった。だからサラには先にちゃんと説明すべきだったのだ。
「サラ。先に言わなくてごめんなさい。先生ね。色々悩んで考えて、そして自分の目標や将来の為に日本へ帰る事を決心したの。みんなにも説明が遅くなってごめんなさい」
そう言って渚は、教室に居る生徒達にも目を向けた。
「それって絶対決まった事なんですか?どうしても帰らなきゃ駄目なの?」
普段我が儘を言わないサラが、すがるように自分を見上げるのを見ると胸が痛くなる。
「サラ・・・」
「私は卒業までずっとナギサ先生と一緒に居られると思ってた。ずっとずっと私達を導いてくれると思ってたのに!」
泣き出してしまったサラを渚はしっかりと抱きしめた。両親と離ればなれで寂しい思いをしているサラにとって私が支えになっていたのは分かっている。だが彼女達はこれから様々な別れを経験して行くのだ。その最初が私だったからと言ってそれを乗り越えられなければ、いつまでも弱い精神のままだろう。彼女達が辛い別れを乗り越えて成長していけるように導くのも、教師である自分の務めだ。
渚はサラを手放すと、今度は両手で彼女の頬を包み込んだ。
「サラ、良く聞いて。マリアンヌにも言ったけど、どんなに遠く離れても私が貴女を思っている気持ちには何の変わりもないわ。これから先もずっと私は貴女の先生で人生の先輩で友達よ。悩み事があったら聞いて、貴女に何かあったら必ず駆けつける。その覚悟があるから私は日本へ帰る事が出来るの。サラ。いつか貴女もここを巣立って新しい世界で新しい人達と出会い、又別れ、そして成長していくでしょう。それを私はずっと見守っているわ。どんなに遠く離れても決して忘れない。約束するわ。大好きよ、サラ」
そうして再び抱きしめ、サラが渚の腕の中で納得したように頷くながら泣き始めると、それを見守っていたジュリアやヴィンセント達も思わず涙ぐんだ。
そうやって渚は全ての生徒達に別れを告げ、退職の日に校長やシスター・エネス、他のシスター達にも朝の朝礼で挨拶を終えた。全ての授業が終わり、机の中にあった荷物を持ってシスター・ルームを出ようとした時、そこに居た全てのシスターや講師達が立ち上がって渚に向かって拍手を送った。その顔は厄介者がいなくなったと言うような顔ではなく、心から渚の新しい門出を祝しているような表情だった。
渚は全員に「今までありがとうございました」と頭を下げ、最後に主任シスターの机の前に立っているシスター・エネスを見た。彼女はいつものようにツンとした表情で小さく何かを呟いた後、初めて渚を見て顔の筋肉を緩めた。その細くなった目の奥にほんの少しだけ寂しさを感じたのは見間違いではないと思う。だからさっきの呟きはきっと渚に対する激励か、もしくは優しい別れの言葉だろう。それを決して直接伝えてこないのがシスター・エネスらしくて、渚はほんの少し涙のにじんだ目で彼女に頷き返し、出口のドアの前でもう一度振り返った。
「ありがとう、皆さん。私必ず夢を叶えますね!」
大きな声と笑顔、それを残して渚はシスター・ルームを後にした。そしてシスター・エネスはわざとムッとした表情を作りながら呟いた。
「ほんとに。いつまで経っても変わらない子ね」
シスター・ルームを出て歩き出すと、少し離れた場所に立っていたマリアンヌがにっこり微笑みながら渚の横に並んだ。最後に校門の前まで送ってくれるのだ。
校舎を出て並んで歩く彼女達を本館の2階の窓から見つめている人物がいた。しわの刻まれた鼻の上に乗る銀のメガネを指できゅっと上げると、彼女は初めて渚の飼っている大きな緑色のカエルが校長室にやって来た時を思い出していた。
渚を必ずミシェル・ウェールズに戻して欲しいと命を賭けて懇願した後、彼は言った。
「あいつはこのミシェル・ウェールズにとって新しすぎる風かも知れへんけど、決して不快な風にはならへんはずや」と。
その言葉通り渚はいつだって新緑の季節に吹く、穏やかで爽やかな風のように私の目に映っていた。まあ時折それが、つむじ風や台風になってしまう時もあったが。
カエルを連れてきて騒ぎを起こしたり、新任のアレクセイ先生と妙な噂になったりしてハラハラさせられたけど、私の事をグランマと呼んで温かい気持ちにさせたり、私が解任させられた時でも戻って来た事を一番に喜んでくれた。
あの頑固で厳しいシスター・エネスでさえも、どれだけ冷たく突き放しても体当たりでぶつかってくる渚の事だけは好きではなくても嫌いにはなれないようだった。きっとあの子はそうやってこれからも自分の道を切り拓いていくだろう。何度もつまずき泣きながら、そしていつか元気を取り戻して・・・。
そんな事を考えつつ、ふと窓の外を見ると、すでに渚とマリアンヌは門の前に到着していて、抱き合いながら別れを惜しんでいた。門の外へ去って行く渚に手を振るマリアンヌと同じように、シスター・ボールドウィンはそっと手を窓に沿わせると小さく微笑んだ。
「行きなさい、ナギサ。貴女の夢はきっと叶うわ。何と言ってもあなたは私の孫娘なのだから・・・・」




