3.すれ違い
日本へ帰国すると決意した渚の行動は早かった。ウィディアにはその日の夜に電話をして帰国する旨を伝えた。少しショックを受けていたようだが、「その内送別会やろう」と明るく言ってくれ、帰国の際には空港まで見送りに来てくれると約束してくれた。
「絶対に又合おう。私達の友情は不滅だからね!」
少し涙ぐんだ声でそう言ってくれた友の声に、胸が熱くなった。
その次の日には校長室を訪ね、シスター・ボールドウィンに契約の延長は出来ないと丁寧に断った。校長は残念そうではあったが、「貴女の夢が叶う事を祈ってますよ」と優しく微笑んでくれ、それだけで渚は涙が出そうになった。
次はマリアンヌだ。今から授業があるので放課後、彼女に時間を貰ってじっくり話したい。立派なシスターになるという夢を叶える為ここに残ると決めた芯の強い彼女なら、きっと背中を押してくれるだろう。
「ちゃんと説明しなきゃ」
少しドキドキする胸を押さえて渚は授業に向かった。
聖歌隊の練習が終わり、子供達が教会の扉から順々に出てくる。生徒達が友人同士楽しそうにおしゃべりをしながら去って行った後、しばらくして片付けを終えたマリアンヌが教会の階段を降りて来た。
「マリアンヌ!」
声を掛けると、彼女は驚いたように渚の側へやって来た。
「どうしたの?いつもなら帰っている時間でしょう?」
「うん。ちょっと話があるの」
渚はそこで言葉を止めて彼女の手を取り、エレーヌの庭が見渡せるベンチへと彼女を誘った。
「あのね、マリアンヌ。突然なんだけど私、日本へ帰る事にしたの」
「え?」
笑顔から一瞬で青ざめた表情になったマリアンヌに不安を感じたが、渚は言葉を続けた。
「元々今年のクリスマス休暇までの契約だったんだけど、校長先生から延長しないかってありがたいお話しを頂いたの。でも凄く迷ったんだけど、やっぱり日本へ帰って勉強をし直したいって思ったの。世界中の失われた言語を研究するのが私の夢だから」
「夢?それがナギサの夢なの?」
そう尋ねたあと、マリアンヌはぎゅっと唇を噛みしめて俯いた。渚が夢を持ってこの国に来た事は知っているが、具体的にそれが何かを聞いた事はなかった。そんな事さえ知らされてなかったかと思うと、何故だか胸に、暗く重い何かが広がって行くような気がする。
彼女がロンドンに来てから毎日のようにここで会って、お昼を食べたりお茶をしていた親友は私ではなかったの・・・?”
「うん。古代語って言うんだけどね。世界にはもう使われていない言語がたくさんあって、出来れば研究するだけじゃなくて世界中の遺跡を巡って本物の碑文を読み解いてみたいの。あっ、碑文って石碑に刻まれた文章の事を言うんだけど、石碑だけじゃなくて金属に書かれた文字とかもあって、それを碑文研究って言って・・・」
俯いているマリアンヌの表情は隣に座っている渚にはよく見えなかったが、とにかく渚はマリアンヌに理解して貰おうと一生懸命説明した。
「それって日本へ帰らなきゃ出来ない研究なの?ナギサ、ここへ来たとき言ってたじゃない。ここへは夢を切り拓く為に来たんだって。だからナギサはミシェル・ウェールズを辞めても、ずっとロンドンに居ると思っていたわ」
“ ああ、マリアンヌはそんな風に思ってたのね・・・ ”
この時初めて渚はマリアンヌが、渚がずっとロンドンで暮らして行くと思っていた事に気が付いた。だから私の講師契約が切れてここから居なくなるかも知れないと言った時も落ち着いていたんだ。
確かにロンドンに来たのはあまりにも騒がれすぎて大学に通い辛かったのもあるし、両親の事で落ち込んでいる渚が新しい環境でやり直す機会でもあった。渚が専攻しているのは西洋古代語なので日本よりもこちらの方が文献も多いし、大学が開講するセミナー等、学べる場所も多いので日本よりもチャンスが多いのは間違いなかった。
だからロンドンでは日本で出来なかった勉強が出来ると思って “ 夢を切り拓く ” 等と、今思えば少々恥ずかしい表現をしてしまったのだが、それをマリアンヌが “ ここに夢を叶えに来た ” とそう解釈してしまっていたのだとしたら・・・。
“ どうしよう。どうしたらマリアンヌに分かってもらえるの? ”
渚は頭の中で必死に考えた。渚にとってマリアンヌはウィディアと同じくロンドンで最初に出来たとても大切な友人の一人だ。彼女が居たからこのミシェル・ウェールズで孤独や寂しさを感じずに過ごせた。誤解されたまま別れるなんて絶対嫌だった。
「マリアンヌ。実は私ね、まだ誰にも話してないんだけど、新しい遺跡を発見できるかも知れないの。とても有名でみんなが探している遺跡だけど、まだどの辺りにあるのかもはっきりしていない、2,500年も前の古代遺跡よ。もし発見できたら歴史に名を残すような凄い発見になると思うわ。
でもそれにはまず調査隊を組んで、場所の特定をしてそれから遺跡のある国の許可を取って、考古学者を初めとする発掘チームも組まなきゃならない。とても一介の教師なんかじゃ誰も動いてはくれないわ。だからこの国で大学に入って一からやってくより、休学している日本の大学で過程を終了し、その間にもっと本格的に研究や発表を行って自身の実力を高め、たくさんの人達と交流して人脈も広げなければならない。何より日本には古代語の権威である恩師も居て、きっと助けになってもらえると思うの。だから・・・」
「もういいわ」
立ち上がって背中を向けたマリアンヌの表情は見えない。
「ナギサの夢は、良く分かったから」
そのまま静かに去って行くマリアンヌを、渚はもう追う事は出来なかった。
家に帰っても渚はマリアンヌの事をただ悶々と考え続けていた。ピョンには少し様子を見て、それからもう一度じっくり話せばいいと助言をもらったが、ミシェル・ウェールズを退職するまでもう1ヶ月あまりしかない。これから帰国に向けてやる事が山のようにあるのに、悠長に構えている訳にはいかなかった。
「明日もう一度マリアンヌと話してみよう」
だがそれから1週間、マリアンヌを見つけても他のシスター達と話していたり、忙しそうに動き回っていたりで、全く話す事が出来なかった。
「はああ、どうしよう・・・」
カフェで紅茶にミルクを注ぎながら、渚は疲れ果てたように呟いた。マリアンヌはこうと決めたら頑固な所がある。父親と再会した時もそうだった。普段は大人しくても、マリアンヌは怒らせると怖いのだ。
あの時も自分なりに一生懸命説明したつもりだが、多分マリアンヌが聞きたかったのは、あんな言い訳 まがいの言葉じゃなかったはずだ。
「はあ、自分の気持ちを伝えるって難しいな」
ミルク多めの紅茶の味が、なぜかいつもより渋く感じられた。




