1.進むべき道
穏やかな午後の日差しの中、1号館の裏庭でいつものように渚はマリアンヌとアフタヌーンティーを楽しんでいた。
レジャーシートの上には定番のスコーン や渚が家から作ってきたサンドイッチやクッキーが並び、ゆったりとした表情でマリアンヌが紅茶をカップに注ぐ。今日の紅茶はオーガニックのアップルティーだ。甘いリンゴの香りが鼻腔をくすぐりながら通り抜けていく。
紅茶を片手にマリアンヌと他愛ない会話を楽しみながら、渚はあと何回マリアンヌとこんな風にお茶会が出来るだろうかとふと考えた。
渚のミシェル・ウェールズ での契約はクリスマス休暇の前までだ。すでに10月に入っているので、あと3ヶ月を切っている。それを多分この地へ来た頃マリアンヌとウィディアには話していたと思うが、そんな1年以上前の事を彼女達もはっきりと覚えてはいないだろう。
だからもう一度ちゃんと言うべきだと何度も思ったが、渚は未だに他の誰にもその事を話せずにいた。
それはまだ本当に日本へ帰るのか、このまま ロンドンで別の仕事を探すのかさえまだ決まっていないのもあるし、話す勇気が持てなかったのもある。焦りは感じるのだが、自分自身これからどうしたらいいのか、どうしてもはっきりとは決められなかったのだ。
午後の授業も終わり帰りの準備をしていると、シスターの1人に声をかけられた。
「ナギサ先生、校長先生がお呼びよ」
シスター・ボールドウィンに会うのは久しぶりだった。少し早いが多分、退職手続きに関する事だろう。それ以外に彼女が自分を呼ぶ理由は思いつかなかった。
校長室の前で着衣を整えると、渚はドアを2回ノックして中に入った。顔を上げてみると、いつものようにデスクに肘をついて座っている校長の隣に シスター・エネスが立っていたので少し驚いたが、そのまま校長のデスクの前まで歩いて行った。
「校長先生、お久しぶりです。 お元気でおられましたか?」
渚の挨拶にシスター・ボールドウィンは深い笑みを見せた。
「ええ、元気でいましたよ。あなたも元気そうね、ナギサ」
親しみを込めた声音で挨拶を返すシスター ボールドウィンを見て、“ 校長先生もずいぶん変わられたわ ”と渚は思った。
初めてここへ来て挨拶をした時、“ 余計な説明は結構 ”と冷たく言われたが、今はこんなに親しみのある笑顔を見せてくれるようになった。それだけでここで過ごしてきた日々が無駄ではなかったと思えた。
「早いものね。もうあなたがこのミシェル・ウェールズに着任してから1年と半年。あと2ヶ月ほどで契約満了かしら」
校長の言葉にチクリと胸が痛む。そろそろ本当にマリアンヌ や生徒達にも自分がここを去る事を告げねばならないようだ。
「そこでなのだけど・・・」
シスター・ボールドウィンは机の上に置いてあった A 4サイズの封筒から書類を取り出すと、渚の前に差し出した。
「あなたさえよければ契約を延長して、このままこのミシェル・ウェールズに残るのはどうかしらと思ってね。これはその契約書よ」
びっくりして校長の顔を見た後、彼女が置いた机の上の書類を見た 。校長の言う通り、それは講師契約延長の契約書だった。
「あなたは生徒からの評判もいいし、授業も熱心に行っている。ハンプストン協会もすぐに契約の延長に賛成してくれました。まだ2ヶ月あるので契約書をよく読んで返事をくれれば結構よ」
校長からもらった契約書を胸に抱きしめて、渚は夢見心地で本館への道を歩いていた。
ここに残れるのは、ほとんど淡い希望のようなものだった。それなのにまさかミシェル・ウェールズの方から残って欲しいと言われるなんて。それはとても嬉しい提案のはずだが、なぜか渚の表情はさえなかった。
今年の夏、ピョンと2人で 船旅に出るまで、渚はずっとまだ ロンドンに残って仕事を続けていきたいと思っていた。もちろんミシェル・ウェールズで契約を延長してもらえれば何よりだし、もしダメだったとしても、きっと校長に頼めば語学を活かせるいい仕事を紹介してもらえるだろう。
だが船で北条 百合亜に出会って、渚はその考えがひどく甘えた考えのように思えた。
同じ年で同じように飛び級をしてよく似た人生を歩んでいたはずなのに、今の渚と百合亜は全く異なる 人生を歩んでいる。その天賦の才を生かし、学ぶだけでなく貪欲に自分の人生を切り開いて生きている百合亜に比べ、渚は自分の夢を追うどころか1年半もの間足踏み状態だ。
もちろん両親が亡くなって渚を取り巻く状況が大きく変わってしまい、夢を追うどころではなくなってしまったのは確かだ。だが百合亜を見ていると、どうしても自分が両親の死に甘えて心地いいこの場所で ただ安穏と暮らしているだけのように思えてしまう。
だから船で百合亜に近況を聞かれた時、渚は今の自分の立場をすぐに説明するのをためらった。それで彼女にミシェル・ウェールズで教師をしている事を褒められても素直に喜べなかったのである。
それどころかピョンと百合亜が2人で船室に向かった時、言い知れない葛藤で胸が一杯になった。今まで抱いた事のない、絶対に認めたくない感情。もちろんピョンと百合亜に嫉妬していた気持ちもあったが、あの時渚の心を占めていたのは劣等感だった。
渚は生まれて初めて、自分と他者を比較して自分の方が劣っていると感じてしまった。そんな思いを抱いてしまった自分がとても嫌だった。
やっとそんな気持ちを忘れた頃に、また進路の事で思い出すなんて・・・。
ピョンが百合亜の船室に行っていた間に、彼等は仕事上の話をかなりしっかりと進めていたのだろう。今では契約を結んで、ピョンは百合亜のベンチャー企業をサポートしているようだ。時々リモートで百合亜が研究の進捗を報告したり、事業の相談を持ちかけているのを渚は知っていた。
そんな百合亜に比べて自分はどうなのだろうと、あれからずっと考えている。確かに百合亜に比べれば 渚の境遇は同情すべきだが、それにしてももう1年以上経っているのに、いつまで自分は甘えているつもりなのか・・・。
そう考えると嬉しいはずの契約の延長も、逆に悩みの種となってしまうのだった。
「本当にどうしたらいいのかしら・・・」
澄み渡った秋空を見上げて、渚はふと呟いた。
揺れる気持ちのまま帰宅した渚がいつものようにダイニングの入り口から入って行くと、リビングの奥に設置したピョン用のパソコンデスクの上で、彼がリモートで誰かと話しているのが見えた。
「おう、渚。お帰り」
渚の姿を捉えたピョンが声を掛けると、黒い画面のパソコンから女性の声が響いた。
「え?渚さん?渚さんなの?」
声の主が以前オーシャン・エンパイアで出会った北条 百合亜だという事に渚はすぐ気が付いた。きっと新事業の事でリモート会議をしていたのだろう。
「ええ、百合亜さん。お久しぶりね。お元気でした?」
「勿論元気にしているわ。ああ、旅行に行ったのはほんの2,3ヶ月前なのに、もう懐かしいわ。渚さん。もう少ししたら私もそちらに渡るけど、日本へ帰ってくる予定はないの?久しぶりに会いたいわ」
“ 日本に帰る予定 ”と言われて、渚は心底ドキッとした。今一番自分が悩んでいる事を言い当てられたような気がしたからだ。
「今の所はまだ・・・。でも又お会いしたいわね」
それから少し言葉を交わした後、渚は「仕事の邪魔をしたら悪いから」と言って自室に戻った。
いつも勉強している机の上に契約書の入った封筒を置いた後、本棚に並べられたたくさんの本に目をやった。日本から持って来た古代語の本。こちらに来てから揃えた物もある。世界各国の遺跡と発掘に関する本。そして机の上のブックスタンドには、ピョンから教えてもらっているアルセナーダの言語や歴史について勉強しているノートがもうすでに5冊並んでいた。その内の一冊を手に取ってページをめくる。
たくさん並んだ文字を目に焼き付けるように、渚は瞳を閉じて大きく息を吸い込んだ。途端に周りをたくさんの古代語の文字がぐるぐると回り始めるイメージが浮かぶ。更にその周りには古代の人々の暮らしや祭りの様子、石造りの強固でそれでいて優美な建築物、それらの中に眠る失われたたくさんの言語達が見えた。
ああ、今でもわたしは愛しているんだ。古代の言葉を、その言葉が生まれた世界を・・・。分かっている。それでもこの国を離れられないのは、その夢と同じくらい大切な人達に出会えたから。
今では親友と言えるウィディア、マリアンヌ。ピョンを通して出会ったティアナやアンドルー、スティーブ、エドウィン。そしてミシェル・ウェールズで出会った校長先生とサラやたくさんの子供達。大切で大好きな人達と離れたくなくて・・・・。
渚は目を閉じたまま、ぎゅっと両手を胸に押し当てた。




