3.君と過ごす、このひと時の為に
旅の荷馬車などにうまく潜り込んで、なんとかロト山の麓に辿り着いたのは、それから9日が経った頃だった。カエルの身でなければもっと早く辿り着いただろうが、呪いのせいで不老不死の身だ。だが地震の間隔は狭まっていて近頃では1日の内に何度も揺れが起こり、きっと街では人々が不安な日々を送っているだろう。急がなければならなかった。
占い師が生身の人間が近づけないほどの罠があると話していたが、道が険しいのを除いて、罠らしい罠は何もなかった。それでも山の中腹に建つ古ぼけた屋敷に着いたのは、それから更に2日後だった。
途中、山の斜面が崩れてきて何度か危険な目に遭ったが、イゾルダの住むこの屋敷も地震の為か、長い年月手入れもされていない為かあちこちが崩れ、主が本当に住んでいるのか少し不安になった。城の入り口まで続く石造りの階段を上がる間にも地面が震え、上から小石がガラガラと音を立てながら転がってくる。
息を切らしたアルティメデスが大きな鉄と木で出来た扉の前にやって来ると、重く軋む音を響かせながら、ドアがひとりでに開いた。
「ほお。俺が来るのを待っていたのか?」
屋敷の中に入ると吹き抜けの広間になっている。アルティメデスは周りを見回しながら叫んだ。
「どこだ、イゾルダ!俺が来た事は分かっているんだろう!」
だがイゾルダは姿を見せず2階の中央にある扉が音も立てずに開いた。
「全く、無精な奴だな。俺は10日以上も歩き回ってヘトヘトなんだぞ」
ブツブツ言いつつも2階に上がり扉の中に入ると、そこはカーテンの閉められた暗い部屋で、古びたマントルピースや大きなソファーセットが目に入った。奥にはカーテンの付いた天蓋付きのベッドがあり、人の気配がする。どうやらイゾルダはそこに居るようだ。アルティメデスが近づいて行くと予想通り、カーテンの向こう側からイゾルダの声が聞こえた。
「よく来られたの、アルティメデス皇子よ。10年ぶりか?まだ元の姿に戻れぬと見える。当然だがな。ホッホッホッホ」
誰のせいだと思ってるんだ。アルティメデスはムッとしながら答えた。
「この俺をこんな呪われた姿にしたんだ。もう十分だろう。プロポネス山を止めろ。今度はこの国を滅ぼすつもりか?」
「せっかく遠い所を来たのに残念だが、あの山が噴火するのは天の意思。私の力ではどうにもならない」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃないさ」
「いいや、嘘だ!」
アルティメデスは思い切りはねてイゾルダの寝ているベッドに飛び乗ったが、一瞬言葉を失って黙り込んだ。そこに横たわっている人物は、10年前に見たイゾルダの姿とは打って変わった姿だった。長い黒髪は全て白髪に変わり、まだ30歳前後に見えた顔には深いしわが刻まれ、目はくぼみ光を失っていた。
「イゾルダ?」
驚いたように呟くアルティメデスに魔女は力なく笑った。
「因果応報というやつさ。お前にかけた魔法は最強の呪いの魔法。かけた私でさえ解く事は出来ない強力な呪詛がかかっている。それほど強い呪いは、かけた本人にも返ってくるらしい。数年前から徐々に魔力が失われ、この有様さ」
「では、誰も止める事が出来ないと言うのか?あの山を・・・」
「出来ない。数年前、まだ私の魔力が完全だった頃に得た予言はこうだ。
“天の怒りが頂点に達する時、富と繁栄を誇った都市は滅亡する。空は暗雲に包まれ、赤い炎の塊が降り注ぎ、大地は怒りに震え地上に生きる者を飲み込むだろう。全ては美酒に溺れ、寛容と敬虔を忘れた人間への報いである。この滅びからは誰も逃れられぬ。ただ独り、死よりも過酷な運命を背負いし者以外は・・・”」
ー 滅亡する・・・?この巨大な帝国が・・・? ー
逃れられぬ運命を聞いて、アルティメデスの身体は震えた。父も母も友人も、みんな死んでしまうのか?この巨大な帝国が、たくさんの人々が、全て滅んでしまうというのか?そして俺だけ生き残れというのか?この呪われた身体のままで・・・。それはアルティメデスにとって、今まで感じたどんな恐怖もおぼつかない程の恐怖だった。
「嫌・・・だ。俺も連れて行け。イゾルダ、俺を殺せ!お前なら出来るだろう!」
「言ったであろう。お前の呪いは真を持ってお前を愛する乙女にしか解けぬ。誰も・・・お前を救う事は・・・」
最後の息を吐くと魔女の命は潰えた。地の底から湧き上がってくる滅びの音に、アルティメデスは空を仰いだ。
これが運命なのか?俺にはどうする事も出来ないのか。だったら俺も・・・。
「俺も殺せーっ!!」
天井が崩れ落ち、イゾルダの亡骸も2階の床も、そして彼自身も瓦礫の中に消えていく。プロポネス山は灼熱の炎を巻き上げ、死の灰が街に降り注ぎ地面は割れ、人々を飲み込んだ。
全てが失われた大地の上に、たったひとつの生きる命があった。彼は全てが失われた故郷を見て、ただ涙を流した。両親や友人達との思い出だけが彼の脳裏に蘇ってくる。
ー 何が悪かったんだ?どうして己の国の滅亡した姿を、俺にだけ見せるんだ・・・? ー
そして月日は流れた、彼は2,500年のあいだ、世界とその歴史を見てきた。死ぬ事も許されず、たった独りで・・・。
ー どうせ出会う事など無いのだ。俺を心から愛する人間なんて・・・。どうせ二度と戻れやしない。もう戻る国もない。俺の愛する者達は、みんな死んだのだから・・・ ー
「ピョンちゃん?ピョンちゃん!」
渚の声に彼はハッと目覚めた。そして彼女の顔がすぐ目の前にあったので、更にびっくりして飛び起きた。どうやら昨日渚と話し込んでいて、そのまま枕の上で寝てしまったらしい。まかり間違って彼女の口に触れたりしたら、永遠に元に戻れなかったところだ。ピョンは思わず青くなってうつむいた。
「どうしたの、ピョンちゃん。涙流してたよ。怖い夢でも見た?」
「怖い・・・夢・・・?」
ああ、そうだ。もう元に戻る夢なんて、とっくに捨ててしまったさ。もう充分、永遠に近い年月を俺は生きてきた。でも・・・。
「おお、そうや。でっかいクロワッサンがワイの上に乗っかってきて、ワイを押し潰そうとするんや。ワイは食って反撃すんねんけど、なんせ相手は巨大でなぁ。もうちょっとで圧死するとこやったで。怖かったぁ」
渚はクスッと笑ってベッドから起き上がった。
「ピョンちゃんったら、あくまで食べ物の夢なんだね。きっとおなかが空いてるんだよ。朝ご飯にしよっか」
「おうっ」
時々思うんだ。俺の生きてきた年月に比べたら、渚と過ごすこのひと時なんて、まるで光の速さに近い、一瞬かも知れないけど・・・。
「なぁ、渚。クロワッサンサンド作って。ゆで卵いっぱい入ったやつ」
ピョンはいつものようにキッチンのカウンターの上に登って、渚が朝食の用意をするのを眺めた。
「はいはい。押しつ潰されないように半分に切ってあげるね」
「おおーっ」
出来上がったクロワッサンサンドを手に持つと、渚はピョンの顔の前に差し出した。
「はい、ピョンちゃん。あーんして」
「あー」
このひと時の為に、俺は生きてきたのかも知れないと・・・。