3.渚の初恋?
それからのティアナは正にルパートのストーカーであった。休憩時間はほとんど彼を付け回す事に費やし、放課後はクリケットクラブで活動するルパートを遠くから観察した。当然彼に声を掛けるなりしたかったが、せいぜいティアナが出来るのは廊下を歩いているルパートを後ろから追い抜かし、彼に気付かれないようにそっと振り返って彼の顔を見て幸せな気分に浸るのが関の山だったが、それでもティアナは幸せ一杯だった。
そうこうするうちに3週間が経ち、いよいよ明日秋季キャンプに行くという日、ティアナは学校帰りの車の中で渚にメールを送った。本当なら電話でこのときめく胸の内を聞いて貰いたかったが、もし告白して振られたら恥ずかしいし、でもやっぱり明日告白するというドキドキと不安を渚に勇気づけて欲しかったのだ。
ティアナからの長いメールを受け取ったのは渚も丁度学校帰りのバスの中での事だった。車窓から秋めいてきた外の風景を眺めていた渚はティアナの初恋の報告に思わず微笑んだ。ティアナにそんなにも心を揺さぶる人が出来たなんて、なんて素敵な事だろう。
ここは人生の先輩の私がしっかり背中を押してあげなければ・・・。渚は“ きっと大丈夫よ ”“ 心からの想いを込めた告白なら必ず伝わるわ ”などとティアナの励ましになる言葉をたくさん贈った。最後に“ 絶対に上手くいくよう、先生お祈りしているからね! ”という文章を送った後、渚は携帯を膝の上に置いて、再びバスの窓から外を見た。
秋色に染まった木々が次々に後ろに流れて行く。秋口の眩しい斜陽が歴史を重ねた建物に反射して壁に掘られた芸術作品の様な彫刻を浮かび上がらせていた。そんなため息をつきたくなるような美しい風景を眺めながら、渚は「初恋・・・?」と小さく呟いた。
そう言えば私の初恋っていつだろう。よくよく考えてみると、そんな人が全く思い浮かばない。元々家にこもりっきりだったティアナの初恋が14歳で遅いのは仕方ないだろう。だが普通に生活していた自分に初恋の記憶が全く無いというのはどうなのだ?
“ そんなはず無いわ。きっと誰か居たはずよ ”
渚は俯きながら両手で頬を包んで考えた。
” もしかしてパパ・・・とか。違う違う。木戸先生?・・・は有り得ないし・・・。嘘!本当に思いつかない!つまり私って初恋もまだなの?18歳にもなって?そんなぁ・・・ ”
渚はバスの中に居るにも関わらず、思わず「うそー!」と叫びそうになった。
一息ついた渚は膝の上に置いた携帯に気が付いて、鞄の中にしまおうと持ち上げた。するとロック画面が現われ、ふと目を止めた。そこにはピョンと2人で写った写真があった。渚の誕生日に行ったレストランで撮った写真だ。5年連続三つ星を獲得した高級レストランだったので気合いを入れてオシャレをして、白やピンクのバラをあしらった見事な飾り付けのケーキと共に素敵な夜の記念にと写真を残した。
気持ち的にはあの日、京一郎とエレーヌの昔話を聞いて少々その事が頭を離れなかったのもあったのだが・・・。
写真を微笑んで見つめながら、渚はそっとピョンの写真の上に指を重ねた。彼はいつだって私を幸せにする為に心を砕いてくれる。危険に晒されれば、全身全霊で助けようとしてくれる。こんな小さな身体で・・・。
ピョンの事を思うと、いつも心が温かくなる。こうやって写真を見るだけでとても幸せな気持ちで満たされて、自然と笑顔がこぼれる。それはずっとピョンの事を家族のように思っているからだと思って居た。この夏、初めて2人きりで船旅に出かけるまでは・・・。
2人で旅行に行く事が決まった時、何となく2人きりで旅行に行くのが照れくさかった。初めて客室に入った時もベッドルームのウェルカムドリンクや2つ並んだベッドを見て、何となく新婚旅行に来たみたいだとドキドキした。それからあの時・・・。
バラスにピョンが船のデッキから海へなぎ捨てられた時、海の中へ消えた彼を見て気が遠くなった。こんな大海原であの小さな身体を見つけるなんて不可能だ。船員にどんなに頼んでも人間では無い彼を助ける為に救助ボートは出してもらえないだろう。
ー もう二度と彼には会えない・・・!! ー
そう思ったらもう自分が海に飛び込む事しか考えられなかった。
『ナギサ!こんな所から飛び込んだら無事じゃ済まない!』
そう言って必死に私の身体を押し留めるベラに、私は血を吐く様な思いで叫んだ。
『駄目よ。ピョンちゃんは、ピョンちゃんは私の・・・!』
じっと手元の携帯の画面を見つめながら、渚は小さく呟いた。
「あの後、私は何を言おうとしたんだろう・・・」
家に帰ってきたティアナはスティーブが開けてくれた車のドアから降りた後、思わず顔を輝かせた。自分の車の前方に黒いベントレーが止まっている。祖父の送迎に使われている車だ。
“ お祖父様が帰ってるんだわ! ”
ティアナは両親の事はパパ、ママと呼んでいるが、祖父の事はお祖父様と貴族っぽく呼んでいる。それほど威厳と貫禄のある風貌の祖父は孫からそう呼ばれるにふさわしいのだ。
玄関を入り長い廊下を走り抜け応接間に入ると、大きな声で「お祖父様!」と叫んだ。「戻ったか、ティアナ」と言いつつソファーに座っていた祖父が立ち上がる。ティアナは「お帰りなさい!」と言いつつ走り寄って、祖父の広い胸の中に飛び込んだ。
「元気にしていたか?」
会社の幹部や息子のショーンの前では一度も笑みを見せないと有名なウィリアムだが、かわいい孫の前ではその鉄の仮面がすっかり剥がれ、顔に刻まれた複数のしわが更に重なる。
「ええ、とっても元気よ!」
祖父を見上げてそう答えると、彼と共に横にあるソファーに腰掛けた。
「今回のお土産は何?どの国へ行っていたの?」
祖父が戻ってきたら、旅先での話を聞きながらたくさんの土産物を貰うのが慣例だ。ウィリアムの話はロンドンから出た事の無いティアナにはいつも新鮮でわくわくするものだった。
「今回はベルギー王国の首都ブリュッセルに行ってきた。ベルギーの副首相とは以前から面識があってな。彼は積極的に社会福祉事業にも携わっておられる。色々話が弾んでな。次は国王陛下にも拝謁させて頂けるかもしれん」
「凄いわ!お祖父様、さすがね!」
学校が無ければ是非自分も王宮に行ってみたい。ああ、でも淑女必須のカーテシーも満足に出来ないわ。しっかり練習しないと。国王陛下にお会いしたら確か Your Majesty(=陛下)と呼びかけるのが正式だけど、ベルギー王室ではどうなのかしら。ナギサ先生は 王室関係にも詳しいから聞いておかなくちゃ。
相変わらずロイヤリティ好きのティアナの胸が膨らむ。彼女の頭の中ではもうすでに美しいドレスを着て 王室のパーティーに出席している自分の姿が浮かんでいた。
嬉しそうな顔で微笑むティアナの横顔を見て、戦略家のウィリアムはほくそ笑んだ。勿論かわいい孫娘がそう言った話題が大好きな事を知った上での土産話だ。たまにしか会えない孫娘がこの家で一番大好きで尊敬するのは自分でなければならない。だから土産物にも余念が無かった。同じ年頃の娘を持つ親達にも子供が何を望んでいるかしっかりとリサーチし、ティアナの好きそうな物やその時添える言葉も吟味してあるのだ。
ウィリアムが最初に取り出したのはベルギーチョコレート。勿論最高級ブランドの店の物だ。それからこちらも若い女性に人気のヨーロッパブランドのマフラーと皮の手袋。あまり多くを出しても一つ一つの価値が下がるので、次にメインの土産を持って来る。高級そうな黒い革張りのケースをおもむろに取り出し、ティアナの目の前で蓋を開けた。




