16.それぞれの日常に
「あっ、そうか。私、分かっちゃたわ!」
18階のキャビンに百合亜やピョンと共に戻りながら、渚が急に叫んだ。
「何が分かったの?」
問いかける百合亜に渚は自慢げな瞳を向けた。
「今ベラは34歳でしょ?7年前は27歳。ロイスがネックレスを選ぶ時に言っていたの。まあネックレスの件はピョンちゃんに近づく為の嘘だったのでしょうけど、ネックレスを贈りたい妹の特徴がベラそのものだったの。
白金のショートボブ、深い海を思わせるような濃い青の瞳。背が高くスポーティで仕事中はいつもスーツを着ている。年齢も別れた時のベラと同じ27歳。
きっとロイス・・・いえイアンの中で女性と言えばベラなのよ。それだけイアンの中でベラは大きな存在なんだわ」
それを聞いて百合亜はにんまりと微笑んだ。ええ、渚の言う通りだわ。ならばもうイアンの立場がどうとか考える必要はないわね。イギリスに留学したらすぐにイアン・フューリーの事を徹底的に調べてやるわ。ええ、もう北条グループの総力を使って居場所を突き止め、必ずベラに再び会わせてみせる。
ふふふ・・・。イギリスでのロマンチックな再々会。めくるめくラブストーリーの始まりよ。なんてステキなの。ふふふ、ふふふふ・・・。
百合亜は新たな目標を見つけ、静かに燃えていた。
客船で百合亜やベラと名残惜しい別れをした後、予定通り渚はピョンとロンドンへ戻って来た。病院で診て貰った所ロープで縛られていた傷も浅く、精神的なショックもPTSDのような深刻な状態ではないので様子を見ましょうという診断だった。
そして彼等はいつもの平凡な日常に戻った。今日も渚は夕食を作り、ピョンの待っているテーブルの上に食事を並べた。しかし、いつもとは違う料理の様子にピョンはふと首を傾げた。
「渚。なんかワイの食事、いつもの半分くらいしか無いねんけど、なんでや?まさかこれで終わりなん?」
すると今までニコニコしていた渚の顔から急に表情が消えた。
「ピョンちゃん・・・」
驚くほど声も低い。戸惑っているピョンに渚は顔を近づけた。
「まさかピョンちゃん、忘れたわけじゃ無いわよね。2人で旅行に行ったのに、他の女性の部屋に泊まった事。次の日のオーバーランド・ツアーをすっぽかした事。あら?まさか忘れちゃったのかしら?」
(Over Land Tour:寄港地で船を離れて行く観光ツアー)
渚の言葉にピョンは戦慄を覚えた。渚が攫われた事件のせいですっかり忘れていたが、どう謝っても許されないあの時の罪をありありと思い出したのだ。ピョンは汗をだらだらと流し、激しく両目を左右に動かした。
そんなピョンを見ても渚は眉一つ動かさない。相変わらず表情の無い顔でピョンを眺めている。もうその瞳の鋭さで射貫かれそうだ。
ピョンはもう謝る事も出来ず、抑揚の無い小さな声で答えた。
「ううん。これで充分。わあ、美味しそうやなあ」
それを聞いて渚はにっこり微笑みながら食事を始めたピョンを見つめた。これでしばらくは文句を言わせずダイエットをさせる事が出来る。船で食べ過ぎていたから丁度いいわね。
「ゆっくり食べてね。ピョンちゃん?」
パリで観光を楽しんでいる百合亜とベラだったが、世界遺産の美しい景色には目もくれず、百合亜にはベラの胸に下がっているネックレスの方が気になっていた。逆にベラはずっとニヤニヤ顔で自分を見る百合亜の目が、非常に居心地が悪かった。
「ベラ。凄く似合っているわ、そのネックレス。あなたの瞳と同じ色のサンタマリア・アクアマリン。なんてステキなのかしら」
「百合亜、その台詞。もう何回も聞いてるんだけど・・・」
何回どころか、何十回目よ。ベラは思った。
「あら、いいじゃない。ステキなんだから」
ああ、やっぱりケンブリッジ留学まで待てないわ。日本に帰ったらすぐにイアン・フューリーについて調べましょう。ええ、それはもう、徹底的にね。ふふふ・・・。
新たな目標に燃える百合亜を見て、ため息をつきながら首を振るベラであった。
まだ任務の途中だが、『青の群像』が手に入る目処が付いたゴーストは久しぶりにMI6の本部に顔を出していた。勿論いつも通り変装し、今日は目の色も変えている。
本部の廊下を自分の部屋に向かって歩いていると、Jに呼び止められた。
「赤と青のネズミが南西に向かった。北東へ行ったのは?」
「緑と黄色のキツネ」
又々つまらない合い言葉を言い合って、ゴースト専用の室内に入った。
「あの2人は・・・?」
ゴーストの言っているのはオーシャン・エンパイアで捕らえたセスリーとギルバートの事だ。
「あいつらは下っ端だな。内部情報には詳しくない。だが何度かジェネプトロの本部と連絡を取っているから、そのあたりから探ってみるつもりだ」
「そうか。とにかくジェネプトロの二重スパイの件がはっきりするまでは、隠し金庫の件は極秘で進める。俺とお前と直属の上司であるマロー。この3人以外は決して漏らすな」
「分かった。所で・・・だ」
Jは急に怒った顔をすると、机の上に何枚かのそんなに大きくない紙を叩くように置いた。
「お前、今回の任務でいくら使ったと思ってるんだ?豪華客船の乗船料。ランクの低い部屋でもあの船は高いんだ。おまけにロンドンの一等地にギャラリーまで借りて、更にエンパイア・グループのクルーズ倶楽部会員なんて会費がいくらかかると思う?しかも何だ、この2,000ドルってのは!土産物ならもっと安い物にしろ!」
「ふん?」
ゴーストはちょっと小首を傾げると、2,000ドルの領収書をJの手から取り上げた。
「これはいい。昔仲間への餞別にやった物だ。俺のポケットマネーから払うよ」
「へえ?」
珍しい事もある物だ。領収書の添え書きにはアクセサリー代となっていた。まさか女へのプレゼント?こいつが?誰にも素顔を見せない、誰にも本音を見せない。見せないづくしのゴーストが?
「昔仲間って誰だ。SBS時代のか?」
ゴーストはちらっとJを見たが、いつもの無表情で答えた。
「俺に過去は無い」
そんな風に語るゴーストに、Jは同情するような目を向けた。彼を取り巻く状況はMI6のどの機関員より過酷だと思う。
頭が良くある程度体力があり、クリアーな経歴と外国語などの言語に明るければスパイになる資格は得られる。だが彼の場合はもっと特殊な任務もこなせるよう、世界有数の特殊部隊員であり、近しい親族がいないと言う事で選ばれた。
それこそ過去を全て捨て、名前を捨て、幽霊として生きる事を定められたのだ。そしてその名の通り彼は存在しない者として7年間生きてきた。その彼が今回の任務で初めて素顔を見せたというのだ。彼を迎えに行った2人のエージェントが驚いていた。
それでも彼は何故か全く気にしていないようで、それどころか何か吹っ切れたような爽やかな表情を浮かべていたらしい。今回の任務で過去に久しぶりに触れ、もしかしたらそれ以外にもいい出会いがあったのかも知れない。
そうであったらいい。こいつだってそろそろ生きた人間に戻るべきだ。
「過去は無くても未来はあるだろ?」
「未来?これからジェネプトロと一戦交えようってのに、未来なんか在るのか?」
皮肉るゴーストにJはこのMI6で唯一、彼の本当の姿を知る友として答えた。
「ああ、未来はある。お前が生きていて、いつかお前が戻って来るのを待っている人が居るなら、必ず今日とは違う明日がお前にも来るはずだ」
そう言うと、Jはゴーストの肩を軽く叩いて部屋を出て行った。
Jが居なくなるとゴーストは窓辺に歩いて行き、いつも締めているブラインドを久しぶりに開いた。窓の向こうにはたくさんの建物やビル群が、明るい朝の日差しの中で新しい今日を刻んでいる。
その見慣れた風景の上から、太陽の光を受けてきらめく青い海が重なって見え、あの時嗅いだ潮の香りを思い出した。そしてその中に大切な思い出になった人々が見えた。
不可思議な存在のカエル。そのカエルを懸命に守ろうとする優しい瞳を持った女性。彼女はどんな姿でも俺が素敵な人だと言った。そしてあいつ・・・。
相変わらず素直じゃなくて、変な話し方で、そのくせ、やっぱり戦っている時は俺の一番の相棒はお前なんだ。
「いつか戻るよ、ベラ。それまでずっと俺の背中を追ってこい」




