15.別れの時
爆弾のせいで船の一部が破壊されたが、勿論この程度では巨大客船オーシャン・エンパイアが航行不能になる程ではなかった。しかし事件が事件なので当然警察やマフィアが絡んでいるとなれば色々な当局も調査に入るだろう。その為、次の寄港地であるベルギーのゼーブルッヘには行かず、一旦Uターンして一番近いフランスのカレーに戻り、そこで乗客を降ろす事になった。
残念だが旅はここで終了となる。船会社からは残りの日数分の旅行代金が後ほど返金され、希望者にはサウサンプトンまで別の小さな船で送ってもらえるようだ。
渚もその船で帰ってもよかったのだが、ピョンが誘拐された渚がいくら大丈夫と言っても、必ず精神的にショックを受けているはずなので早く医者に診せるべきだと言って、フランスから飛行機でロンドンまで帰る事になった。
百合亜とベラも飛行機でそのまま日本へ戻る事にしたが、せっかくフランスに来たので、ついでにパリに寄って買い物や観光を楽しむようだ。
そして一方通行のベラの想いは・・・。
話はピョンとゴーストが救助されたすぐ後に戻る。
ゴーストは船へと戻るボートの上でピョンにもう一度ちゃんと『青の群像』を渡してくれるはっきりとした言質を取っておこうと思った。先ほどは命の危険があったので何となく応じた形になったが、確実に約束を取り付けておきたい。彼のようなビジネスにシビアな男は、口約束でも一度言った事は守るはずだ。
「ミスター・ハザード。『青の群像』は何処に在るのですか?」
「うーん。ワイもよう分からんのや。専任担当者に全部任せてあるからな。心配せんでもええ。後で担当者に連絡して場所をメールで送らせるから、好きなだけ探せばええ。ただし、絵に傷は付けるなや」
「分かっています。ご協力感謝します」
「そやけど、妙やな」
ピョンはふと疑問に思っていた事を口にした。
「鍵のような鉄製の物が絵の中に隠されとったら、通関検査の際に分かるはずやと思うが」
するとゴーストは珍しく口の端を歪めて笑った。
「鍵と言っても普通の鍵ではなく、いわゆるQRコードのような物です。X線を通す特殊な紙にコードが記されていて、それを読み取ると1つ目のキーは金庫の隠されている場所の座標を示し、2つ目のキーはその金庫を守る強固なセキュリティーを解除する方法が。そして3つ目のキーにはその金庫を開ける暗証番号が登録されているのです。ですから3つのキーが揃わないと、金庫を開ける事は出来ないのですよ」
「へええ」
ピョンは興味深そうに喉の辺りを手で2、3度掻いた。
「ほなら3つのキーが揃ったら、いよいよ7千万ポンドを手に入れられる訳か。ワクワクするなぁ」
「そう簡単に事が済むかどうか・・・。ジェネプトロは巨大な組織です。今回も俺がキーを持っている事を嗅ぎつけて来たし、俺の今使っている携帯はこの任務の為だけに用意された物です。その番号を奴等は知っていてメールを送って来た。
もしかしたらMI6内に二重スパイがいるかも知れないし、そうでなくても奴等は必ず金庫の場所を嗅ぎつけてくるでしょう。そうなればあちらの総勢力と戦う事になる。まだまだそう簡単には終わらないでしょう」
ふうん。そやからあの2人のマフィアの男達を生かして置いたんやな・・・とピョンは思った。まあ小物っぽいから組織の中枢部の事まで知らないとは思うが・・・。
ボートはやがて船に横づけられ、ピョンはゴーストに連れられて渚達の待っているデッキまで戻ってこれた。
すでにバラスは姿を消していて、デッキ上に居た人々も怪我の治療の為に医務室に案内されていたので、デッキに居るのは渚とベラ、そして危険だからとキャビンに待機していて騒ぎが収まった頃、ベラを探しに来た百合亜の3人だけだった。
ゴーストの掌の上のピョンを見て渚が駆け寄り、ピョンがその手を蹴って渚の胸に飛び込んだ後、渚はすっかり姿の変わってしまったロイスを見つめた。百合亜に全ての事情を聞いてロイスの正体は知っていたが、打って変わった姿にやはり驚かずには居られなかった。
短い黒髪に変わってしまった彼は、柔和な雰囲気のロイスよりずっと精悍で凛々しい感じがした。それでもそのグレーの瞳はやはり彼と同じ、涼しげで優しい光が見えた。
「あの、ロイス。ありがとう。私とピョンちゃんを助けてくれて。どんな姿をしていても、やっぱりあなたは素敵な人だわ」
彼女は本当に不思議な女性だ。スパイになってから7年間、一度も誰かに素顔を見せた事は無いし、本音を語った事も無い。なのに任務中にも関わらず、俺が彼女に向ける笑顔は本物だった。彼女を助けたいという気持ちも・・・。
そして今も、本気の笑顔で俺は微笑む。
「あなたを助けられて良かった。そしてミスター・ハザードをあなたの元に戻せた事も。楽しいクルーズだったよ。ありがとう、ナギサ」
“おいおい、何を見つめ合ってんねん?”
渚の掌の上で、微笑み合う渚とロイスを交互に見上げながらピョンが不安に駆られていると、渚の後ろに立っていたベラがピョンと同じように不審そうな顔で呟いた。
「随分とおしゃべりになったものだな、イアン・フューリー」
やっとベラがイアンと2人きりになれる・・・。そう思った百合亜は、そっと渚の肩に手を掛けて彼女に頷き、渚と共に船内に戻って行った。
渚達が船内に戻った後、イアンはベラから目をそらしたまま呟くように言った。
「実際のスパイの仕事は映画などとは大きく異なっている。対人の仕事も多いし、調査や書類作成が主な仕事だ。俺は比較的あちこちの国に行く事が多いが、そうじゃない時はパソコンの前に座っているよ。SBS時代と違ってコミュニケーション能力が必要だから鍛えただけだ」
”おやおや、本当におしゃべりになっているわ”
ベラは不服そうに内心呟いた。
「それをSBS時代にも発揮してもらいたかったわ。随分と変わったのね。当然か。7年も経っている」
「お前は相変わらずのようだ。その男か女か分からない話し方も、それに・・・7年前と変わらず美人だ」
“うわぁぁぁーっ!!”
ベラはものすごい恥ずかしさと、あのとんでもない仏頂面の相棒とのギャップで頭がクラクラしそうだった。
“やっぱりスパイの教育は凄い!あの無愛想の塊みたいなあいつが・・・人に世辞なんか絶対に言わないあいつが、こんなにもこっぱずかしい台詞をすらすらと述べるなんて・・・!”
「それに・・・」
イアンは少し遠い目をして言った。
「あの頃はお前がいたからな。何も言わなくてもお前には俺の考えが全部分かっていたし、だからお前との作戦で一度も失敗はなかった。結構・・・楽しかったな」
“じゃあ、なんでSBSを辞めたんだよ”
やはりそれを考えるとベラは一番悔しくなる。だが本当は聞かなくても分かっているのだ。私達は軍人だった。軍人である以上国家に仕え、いかなる命令でも逆らう事はない。彼は只、命令に従っただけなのだ。私達の元から黙って去って行ったのも、彼の意志ではなく命令だったから・・・。
互いを見つめたまま立つ2人の上空に、空を切り裂くような轟音が響いて来た。セスリーとギルバートを回収して本部に戻る為にゴーストが呼んでおいたヘリだ。
別れの時が来たのだとベラは本能的に悟った。もうこれで最後なんだな。己を死んだ事にしてスパイになった彼は、もうこの世に存在していない幽霊だ。今回はたまたま再会したが、多分もう二度とこんな偶然はない。私達の生きる世界は、同じ世界ではないのだから。
ヘリが降りて来るのを振り返って見たイアンを、ベラはもう少しだけ見ていたかった。7年間、只の一度も忘れた事のない顔。7年前とそんなに変わらないけど、少し目尻にしわが出来て瞳が優しくなった。何を言おう。この2日間お前に会ったら思いっきり言ってやりたい事がたくさんあったのに、何も思い浮かばない。
「イアン・・・」
やっと絞り出した声は、ヘリのプロペラが立てる轟音にかき消されてしまった。それでも彼には彼女の口の動きで自分を呼んだのが分かったのだろう。ベラに一歩近づいて、彼女の耳に唇を寄せた。
「じゃあな、ベラ。もう泣くなよ」
それを聞いてベラは目を見開いた。只の一度もベラはイアンに涙など見せた事はない。SBSの訓練がどんなに辛くても、周りの男共に見下されないよう、いつだって余裕で笑っていた。もし泣いたのを見たのだとしたら、それは・・・あの時だけだ。
「まさか、お前、あの時来ていたのか?自分の葬儀を、見ていたのか?」
彼はニヤッと笑って背を向けながら、小さな箱をベラに投げた。戸惑いながらベラがその箱を開けると、中には太陽の光を受けてキラキラ輝くダイヤモンドに囲まれた、美しい青の輝石のネックレスが入っていた。
それが自分の瞳の色と同じだと気付いたベラは、耳まで真っ赤になりながら叫んだ。
「だから!何でこんな事をするんだよ!まだ私より強いつもりでいるんだろ!私は絶対負けないからな!イアン・フューリー!!」
その声の終わりには、もう彼の姿はヘリから降りてきた彼の仲間と共に、船のどこかに消えていた。