11.誘拐
昼の12時を回る頃、明るい日差しの差し込む部屋の中でピョンは目を覚ました。見覚えのないソファーの上だ。頭がはっきりしてきて思い出したのは昨夜の事だった。
百合亜とワインを飲みながら仕事の話をしていたのだが、会話が盛り上がってついつい飲み過ぎてそのまま眠ってしまったようだ。キャビネットの上にある時計を見てピョンは自分がとんでもない失敗をしてしまった事に気が付いた。今日は渚と観光に出る約束をしていたのに、それを破ってしまったのだ。
これはとんでもない罪だ。寝言で他の女性の名前を言った、それを更に上回る、比べものにならないほどの大罪だ。2,500年も生きてきて、自分がこんなミスを犯すなんてあまりにも考えられなくて、ピョンはしばらく呆然としてしまった。
ふとソファーの前にあるローテーブルの上を見ると、百合亜からのメッセージを書いた紙が置いてあった。
それには、ピョンがよく眠っていて起こせなかったので、百合亜とベラが2人で観光に出た事。部屋を出る時は専任のコンシェルジュを呼んでもらえればドアを開けてもらえるよう頼んである事などが書かれていたので、とりあえずピョンはコンシェルジュに連絡してドアを開けてもらい、部屋を出てきた。
渚の怒りはきっと頂点に達しているだろう。どうやって謝ればいいか見当もつかない。
「ここはもう、何事もなかったように 『いやぁ、ワインの飲み過ぎで寝てもたんや。悪かったな』と笑いながら言う・・・。あかん。絶対そんなんじゃ許してもらわれへんわ。どうしたらええんやろ・・・」
百合亜達の部屋もマスター・スイートという上から3番目のクラスの部屋なので、ピョン達の部屋と同じ18階にある。大きなため息をついて絨毯の敷き詰められた廊下をのろのろと飛び跳ねていった。部屋に帰るのは恐ろしいが、早く戻らないと渚の怒りのボルテージが益々上昇するだろう。
ピョンが落ち込みながら飛び跳ねていく先から歩いて来る2人の男がいた。同じ18階のアルティメット・ロイヤル・スイートから出てきた、バラスと使用人のロダンだ。
「何で起こさないんだ、お前は!こんな時間になったら、観光にも行けないじゃないか!」
「でもバラス様。昨晩相当飲まれておられましたし、何回お起こししても起きられなくて・・・」
「だからって放っておいてどうする!全くお前は、いつもいつもなっとらん!」
何処にでも同じような失敗はあるものだ。自分も今からああやって渚に怒られるのだろうと思って落ち込んでいると、目の前に誰かが立っているのに気が付いて、ふとピョンは顔を上げた。
先ほど使用人に怒鳴り散らしていた男がふんぞり返って自分を見下ろしている。向こうはピョンを知っている様だが、ピョンには全く見覚えのない顔だった。
「お前がアルティメデス・エ・ラ・ハザードだな」
“お前・・・?”
名前の前にミスターも付けず、いきなりお前呼ばわりとは礼儀を知らない無礼な男だ。まだ二日酔いの気分の悪さから脱していないピョンは、更に胃のむかつきを覚えた。
「人に名前を尋ねる前に自分の名を名乗ったらどうや?それが礼節やろ?」
「フン。カエルに払う礼など無いが、聞きたければ教えてやろう。俺の名はバラス・カルロ・スタッテリオ・フォス。スペイン一のオリーブオイル会社、ドミンゴ・オリバの跡継ぎだ」
「ほう、跡継ぎ・・・。次期社長やったらとっくに会社経営に関わっている年齢やのに、こんな所でのんびり船旅とは・・・。ほんまにお前、跡継ぎなんか?」
嘘がばれそうになって、バラスはよろめくように2歩後ずさりした。
「う、う、うるさい!カエルごときに何が分かると言うんだ!」
「何が分かるか?一目見ただけで、お前の本性は体中から滲み出ている。酒に溺れ、娯楽に明け暮れ、何の努力も何かを達成しようとする気概もない。まあ、一言で言うなら・・・“クズ”やな」
「こ・・こ・・・んの・・・」
自分が日頃気にしている(そして決して認めたくない)事実を、絶対に負けたくない相手に突きつけられ、バラスは胸が張り裂けるような怒りを感じた。
彼はいきなりピョンに掴みかかった。相手が高級なAIロボットだろうと構うものか。ひっ捕まえてひねり潰してやらなければ気が収まらない。
だがピョンの両側から掴みかかった彼の手はピョンが思い切り飛び跳ねた為に空を切った。それでも諦め切れずに掴みかかる。ロダンが「お止め下さい、バラス様!」と叫んだ。
昔から色々な人間に何度も捕まえられそうになったピョンは、こんな状況には慣れっこだった。相手をうまく翻弄しながらぴょんぴょんと跳び跳ねて逃げていく。
それが更にバラスを苛立たせた。こんなカエルが自分をバカにしている(実際バカにしているのだが)のが許せなかった。
「このぉ!絶対に捕まえて、お前を引き裂いてやるぅぅぅっ!!」
その頃、渚とロイスは3時間に及ぶ超大作のアクションムービーを見終わり、シアターを後にしていた。
「面白かったですね。この映画、見たかったんです。3時間もあるけど、あっという間でした」
渚がまだ映画の興奮が覚めやらぬ様子で言った。
「それでも疲れただろう。休憩を兼ねてランチを取ろう。何が食べたい?」
「あ、でも・・・」
渚は少し申し訳なさそうに瞳を伏せた。朝食の時言っていたように、ロイスはゆっくりと休暇を取る為に船に乗船している。
こうして付き合ってくれるのは、きっとピョンが居ない事で落ち込んでいる渚を慰める為だろう。何だかそれは申し訳ない気がした。
「ロイスも疲れたでしょう?部屋に戻って休んだ方が・・・」
「どうせ食事は摂るんだし一緒に食べよう。そうだ。ナギサの好きそうな店がこの先にあるんだ。行ってみよう」
渚の左手を取ってロイスが歩き出す。彼の背中を追いながら、渚はロイスを軽やかな春風のような人だと思った。
ロイスが渚を連れていったのは、ランチも出しているデザートバイキングの店だった。店全体がかわいいピンク色を基調とした壁紙で彩られ、見ているだけで何だか幸せな気分になる。デザートが主なメニューなのでランチはサンドイッチなどの軽食になるが、種類が多いので食べ応えはありそうだ。
レストラン内にはたくさんのアーティフィシャルフラワーが飾られ、色とりどりのデザートと共に店内を華やかに彩っていた。たくさんの女性客が楽しそうにケーキやお菓子を頬張っている。渚もそのかわいらしい店の雰囲気に心が和んだ。
席に着いた渚は前に座っているロイスに声を潜めて言った。
「いいんですか?ロイス。周りは女の子ばかりだけど・・・」
「そんな事は気にならないよ。さあ、何を食べようか。デザートでお腹を一杯にするのもいいね」
ロイスの優しさに感謝しながら、渚はランチタイムを楽しんだ。デザートを食べ終わる頃、渚は化粧室に行く為に席を立った。船のトイレは店内にはないので、店のスタッフに場所を聞いて一番近い所に向かった。
トイレで化粧を直しながら渚は考えた。
“こんなによくしてくれるロイスに何かお返しをしなくちゃ。やっぱりネクタイがいいかしら。船にはブランドショップもたくさんあるし、きっといい物が買えるわ”
楽しそうに微笑んだ瞳は鏡の中に現れた黒い衣服に身を包んだ2人の男を捕らえ、驚いたように見開いた。黒いキャップを深くかぶり、マスクで顔を隠した男達はどう見ても普通ではない。だが叫び声を上げる前に1人の男に口を押さえられ、身体の自由を奪われた。
口に当てられた麻酔で意識を失いながら、渚は昨日から会っていない彼の事を思った。ゴードン家に捕らわれていた時以外はずっと一緒だったのに・・・。
ー ピョンちゃん、どこに居るの・・・?渚の所に早く戻って来て・・・ ー
力を無くして渚が倒れるのを支えながら、ギルはセスリーに目線を送った。セスリーが素早く用意してきた大きなスーツケースの蓋を開け、渚の身体をケースの中へ押し込む。
大きなスーツケースを持っていても、船の中では誰も疑問を持たないだろう。彼等はトイレから出たあと周りをちらっと確認し、何事もなかったようにスーツケースを引いて去って行った。




