9.百合亜の計略
朝食後、たくさんの人達から声を掛けられ少々戸惑った渚であったが、皆礼儀をわきまえた人達だったので、ピョンも含めて会話を楽しんだ。その後、ブロードウェイでも上演されたミュージカルも見終わり、渚とピョンはどこかのカフェで軽食を取りつつお茶でもしようと話しながら歩いていた。
すると今度は前方から日本人らしい若い女性が自分をまっすぐに見つめながら歩いてきたので、ふと立ち止まった。ストレートの長い黒髪と魅惑的な大きな瞳、ふっくらとした唇は上品な笑みを浮かべている。思わず目を引く美しい女性だ。彼女の斜め後ろ側に居る背の高い女性はイギリス人だろうか。白金の短い髪と印象的な濃い青の瞳。女性としては肩幅があり、しっかりとした体つきをしていた。
「こんにちわ、コーンウェル 渚さん。初めまして。私は北条 百合亜。後ろに居るのは友人でボディーガードのベラ・ホートマンです。どうぞ宜しく」
日本語で話しかけると、百合亜は目を細めて渚を見た。この船で初めて渚を見かけた時、百合亜は声を掛けようかと思ったが、止める事にした。お互いプライベートで来ているのだ。邪魔をするのは良くないと考えたからだ。
だが百合亜にとってベラはボディーガードであるが、一番近しい親友であり姉のような存在でもある。そんな彼女の切ない片思い(ベラは恋ではないと言い張っているが)を聞いた百合亜は、このままベラが彼と何も話さずに別れてしまうのだけは駄目だと思った。それはベラにとって一生悔いの残る結果だろう。
しかし直接ロイス・バーナードと名乗っている彼と話をしても、先ほどのようにはぐらかされるのは分かっている。部屋でベラと話し合った時、自分を死んだ事にしてまで何かをするのは、きっと彼が国家的な組織に関わっているに違いないとベラが言っていた。それがSBSの命令なのか、もしくは別の機関なのかそれは分からないが、いずれにせよ、顔や声まで変えているなら特殊な任務に違いないだろう。
だから百合亜は直接ロイスには接触せず、渚の所へ行く事にした。彼と朝食を摂るほど親しいなら、何か知っているかもしれないし、何よりベラが自分の為に百合亜がしようとしている事を知ったら絶対止められるだろうからだ。
「北条・・・百合亜さん?」
渚は聞き覚えのない名に戸惑ったように、目の前に居る女性を見た。そんな渚にお構いなく百合亜は自己紹介を続けた。
「ええ。覚えておられないかしら。高校をスキップして大学に入ったとき取材を受けましたよね。一時は“西の語学の天才少女”“東のITの天才少女”なんて騒がれて、父親が世界的に有名な心理学博士だとか、私の父が北条グループの会長だとか、ほんとーにつまらない記事ばかりでしたけど。ほほほほ」
百合亜の言葉に渚も思い出した。確か東京で有名なお嬢様ばかりが通う学校の生徒だった。
「ええ、覚えています。確か、有栖川・・・」
「聖有栖川学園ですわ。今は大学部で経営情報学科の2回生ですの」
次に百合亜はピョンに向かって丁寧に頭を下げた。
「初めまして、ハザードさん。アルティメデス・エ・ラ・ハザードって素敵な名前ですね。良かったらこの先のカフェでアフタヌーンティーをしませんか?元三つ星ホテルのパティシエが作るスコーンやケーキは絶品ですわ」
断る理由もなかったので、渚とピョンは百合亜と共にお茶を楽しむ事にした。渚にとっては久しぶりに会う日本人の同級生だ。ピョンとは2人きりの時はいつも日本語で会話をしているが、それでも彼以外の人と日本語で話ができるのも嬉しかった。
百合亜に伴われて入った店は彼女がおすすめするように、シックでそれでいて洗練されている雰囲気の店だった。店全体がオールドイングランドのアンティーク調に統一され、天井にはボヘミアクリスタルのシャンデリアが輝いている。彼等は50年以上経ったヴィンテージ物の食器が飾られた、木彫りの彫刻が美しいキャビネットの側にあるテーブルに案内された。
アフタヌーンティーを注文すると、早速百合亜が自己紹介も兼ねてこの船旅に参加した理由を話した。
「へえ、ケンブリッジの理工学部IT/コンピューター科か。そやけど北条グループの跡取りやったら、経営学やMBAプログラムなんかも専攻した方が良かったんやないか?」
ピョンの質問に百合亜は笑って答えた。
「いずれは必要になるので、その時はその時に又努力して手に入れればいいだけだと思って居ます。今は今やりたい事、今必要な物を得る為に努力する時ですわ」
良家のお嬢様にしてはなかなかしっかりしている、とピョンは思った。彼女には自分の今と将来のビジョンがはっきりと見えている。そしてその為に努力する事もいとわない。彼女のまっすぐな瞳はその意志の強さを物語っていた。
「渚さんはどうしていらっしゃるの?次は啓成学院の大学院に移られるとか?」
百合亜にそう問われて、渚はドキッとした。どうしてだろう。自分の今の状況を百合亜に説明するのが何となく恥ずかしい気がする。
そんな気持ちに戸惑いながらも渚は今、大学を休学してミシェル・ウェールズで働いている事を話した。
「語学の才能を生かして教師をしているなんて素敵な事だわ。特にミシェル・ウェールズは伝統と格式を重んじる歴史ある学園ですもの。充実した生活を送っていらっしゃるのね」
百合亜にそう褒められても、渚は何故か素直に喜べなかった。
「所で今朝、偶然お見かけしたけど、一緒にいらっしゃった男性はお友達か何か?」
「あ、あれは・・・」
渚が答えようとした時、ベラが百合亜の名を呼んでイアンの事を確認するのを止めさせようとした。だが百合亜は目線を送ってベラの言葉を遮った。ベラは恥ずかしがっているが、百合亜はなんとしてもロイス・バーナードの正体を確かめるつもりだった。
「あんなもん、友達でも何でもない。只のナンパ男や」
渚の代わりにピョンが吐き捨てるように答えた。
「ナンパ?」
「ち、違うの。ピョンちゃん、そんな言い方しちゃ駄目よ。彼はこの船で出会った方でロイス・バーナードさん。ロンドンで画商をされているそうなの。とても紳士的でいい方よ」
渚が慌ててピョンの言葉を取り消した。
「そうなの・・・画商・・・」
百合亜が呟いている横でベラも素早く頭を働かせて考えた。
画商だと?ロンドンに居る昔の相棒だったスポッターに連絡して確認させるか。いや、あいつの事だ。名乗った以上は完璧に準備しているはず。だが、目的は何だ?どうしてこの少女に近付いた?まさか・・・狙いはこのカエル・・・?
ベラは思わずテーブルの上でマカロンを口一杯に頬張っているカエルを見下ろした。
(Spotter:スナイパーの狙撃を手助けする観測手、情報伝達を補助する人物)
「ところで渚さん。今日はこれから何処に行かれるの?」
百合亜が尋ねた。まだ予定が決まっていない事を話すと、この後一緒にプールに行かないかと誘われた。
「でも・・・私、あまり泳げないし・・・」
「泳げなくてもいいのよ。滑り台とかボール遊びも楽しいし、花とフルーツが飾られた美味しいジュースを飲みながらプールサイドのラウンガーでおしゃべりしましょうよ。あ、でもピョンちゃんさんは防水仕様かしら?」
「ピョンちゃんでええで。もちろん防水や。ワイの究極の泳ぎを見せたんで!」
「まあ、楽しみだわ!」
凄く気が合っているようなピョンと百合亜を見て、渚は何故か複雑な気持ちになった。どうしてだろう。何だか胸がモヤモヤする。何故そんな気持ちになるのか分からないまま、渚は水着に着替えて百合亜達と船で一番大きなプールにやって来た。
プールの中でピョンと百合亜が楽しそうに泳いだりはしゃいでいるのを、プール脇に置いてある椅子に座って見ていると、後ろから「一緒に泳がないの?」と声がした。顔を上げるとベラがその肌に似合う真っ白なビキニを着て立っている。
そう言えば彼女に初めて会った時、何となく知り合いだったような気がしたが、それはロイスの話を聞いていたからだった。
白金のショートボブに深い海を思わせるような濃い青の瞳。背が高くスポーティなタイプで、こんな観光船に乗っているのに百合亜の後ろに立っていた彼女はきちっとしたスーツ姿をしていた。正にロイスの妹の特徴と一致しているのだ。
不思議ね。こんなにも特徴が似た人が居るなんて・・・。
「あの、でも私は・・・」
迷っている渚の手を取って立ち上がらせると、ベラは少し腰をかがめて渚の瞳をじっと見つめた。
「せっかく旅行に来ているのよ。楽しまなきゃ損だよ。みんなでスライダーはどう?ここのは凄いわよ。船の16階から10階まで滑り降りるんだ。高さも凄いし、あの迫力は結構くせになるよ」
彼女の言う通り、周りはみんな楽しそうな人達ばかりなのに、自分だけ訳の分からない気持ちに悶々としているなんてもったいなさ過ぎる。渚は上着を脱いで頷くと、ベラに笑いかけた。




