1.路地裏の男達
テムズ川からほど近いチジックの裏通り。ここは監視カメラ大国と言われるイギリスの中では珍しく、カメラが1台もなく、死角も多い通りだ。夜8時以降はほとんど人気が無くなるこの通りは、秘密の会合にはうってつけである。
男はその暗い死角に立って、待ち合わせの人物が来るのを待った。ああ、違う。すでに彼は来ているようだ。いつもながら気配を感じさせないのは、さすが精鋭揃いのMI6の中でコードネーム以外に“ゴースト”とあだ名されているのもうなずける。
「ロンドンのチャイナタウンで一番ポークバンズのうまい店は?」
「猪肉包子」
つまらん合い言葉だが一応確認をしておかないと、相手は誰にも素顔を見られた事のない男だ。とはいえ古い付き合いの俺は、この男がまだSBS(英国王室海軍海兵隊に所属する特殊部隊)にいた頃から知っている。
それでも彼は今日も違う男の顔でやって来ていた。しかも声までボイスチェンジャーで変えているので、近頃では彼の本当の声がどんなだったかさえ、忘れてしまうほどだ。
「俺達の間で変装する必要が?」
「ロンドン市民は200万台を超えるカメラで一日300回撮影されるんだ。住みにくい街だぜ」
彼の話し方や垢抜けない着崩した服装を見ると、どうやら今日の変装のテーマは“やさぐれた中年親父”と言った所か。
ゴーストは手に持っていたビールの缶を仲間に手渡し、缶のプルトップを開いた。
「それで、2つ目のキーは手に入れたのか?」
「J。俺を誰だと思ってるんだ?でなきゃ、ポルトガルから戻って来るわけ無いだろ?」
そうだ。俺のコードネームはJ。諜報員と組織の間を取り持つ連絡係の様な役目をしている。勿論俺も機関員だ。ゴーストはポケットから2つ目のキーの入ったプラスチックケースを取り出してJに渡した。
「思ったより早い帰国だったからな。相手はポルトガル海軍参謀総長の幹部だ。もう少し手こずるかと」
「意外な協力者が現れてね、うまく運んだ。で?3つ目のキーが何処に在るか分かったのか?」
俺達は今、3つの鍵を追っている。1つ目はモスクワのトレチャコフ美術館所蔵の天使像から。そして2つ目のキーを回収してゴーストは帰国した。
この3つのキーはヨーロッパでも有数の巨大マフィア、ジェネプトロの隠し金庫のキーだ。ジェネプトロの前ボスが組織に秘密で作った隠し財産で、金額は7千万ポンド(約101億円)に達する。
それがジェネプトロや他のマフィアの組織に渡れば、彼等の活動はより活発になり、イギリスのみならずヨーロッパ中に影響を与えるだろう。なんとしてもこちらが先に手に入れなければならなかった。
「キーは近代作家、ヨハン・エマーソンの絵画の中だ。タイトルは『青の群像』。だが、何処に在るかは持ち主にしか分からない。アルティメデス・エ・ラ・ハザードを知っているか?」
「大仰な名前だな。何者なんだ?」
「彼が何者かを語るのは難しい。色々な業界で名前は知られているが、その人物に実際に会った人間は居ないようだ。勿論住む場所も不明。妙な話だが、彼の名は第一次世界大戦前から存在していたらしい」
「戦前から?もう100年以上経ってるぞ」
珍しくゴーストが鼻で笑った。
「多分、同じ名前を子孫が受け継ぐ家系なんだろう。今の当主が何代目かも分からんが、人は彼をこう呼ぶ。“誰も顔を知らない億万長者”と」
「億万長者なのか?」
「彼の資産はスイスのプライベートバンクや他にも色々在るようだが、詳しい事は分からない。とにかく謎の多い人物だ」
「住んでいる家も分からないなんて。この地球上で俺達に把握できない建物があるか?しかもミリオネアなら衛星からでも確認できるほどの広大な屋敷に住んでいるはずだ。それとも地下に住んでいるとか?本当に存在しているのか?その男は」
ゴーストはビールを飲み干すと、缶をぐしゃっと握りつぶした。
「だが、意外な情報を得た。あるクルージング船の乗客名簿に彼の名前が載ったんだ。期間は一週間。女性と二人きりの旅行だ。彼は必ず来るだろう」
それを聞いてゴーストは、しばし霧に覆い隠された夜の空を見上げた。こんな暗闇は俺の味方だ。なんといっても俺の名はゴーストだから・・・。
彼はJから乗船チケットを受け取りつつ、ニヤリと笑った。
「それだけ分かれば十分だ。3つ目のキーを手に入れて、必ずジェネプトロの隠し金庫を開けてやる。このゴーストがな」
ー 一ヶ月前 ー
我が家のカエルは最近懸賞に凝っている。はがきは勿論、パソコンで応募できるものまで様々だ。そして我が家には彼が懸賞で当てた役に立つのか立たないのか良く分からない商品が、部屋のあちこちで顔を覗かせている。
例えばフロア用のスチームクリーナー。掃除機型なので立ったまま楽に使えるという触れ込みだが、とにかく重い。おまけにスチーム力があまりに強力で、木のフローリングの上でスチームを蒸かそうものなら、フローリングの塗装を溶かし、先端の三角部分がくっきりとフローリングの床に形を残してしまう。きっとこれは豪邸に必ず在る大理石の床やタイル用なのだろう。だから渚はこれを一度しか使った事が無かった。
それからつい最近当てた高額商品、47型8Kテレビだ。リビングにはすでに大型テレビがあるので、それは渚の部屋に持ち込まれたが、彼女の部屋にはテレビのアンテナ端子がないためテレビを見る事が出来ない。最新のテレビも映らなければ無用の長物に他ならなかった。
他にも乾燥能力が高すぎて渚の皮のパンプスを干物にしてしまった靴乾燥機や、家の窓には全くサイズの合わないブランド物のカーテン。赤ちゃんの離乳食一年分など。
大体ピョンほどの余裕があれば、懸賞でわざわざ当てなくても大抵の物は手に入れられるはずだが、無料で当たるというのが醍醐味らしい。
とりあえず無料だし、商品が当たって届いた時それを開封するドキドキ感は渚も好きなので文句は言わずにピョンの好きにさせている。何しろ彼は家賃も半分払っている同居人。この家の半分は彼のスペースなのだ。
そして渚はピョンの為の夕食を作りながら、今日も彼のうんちくを聞いていた。
「懸賞ゆうんはな、人がたくさん応募するやつは外さなあかん。なるべく人が応募せんやつを狙うんや。例えばローカルラジオの懸賞とかな。あとクローズド懸賞(商品を購入してバーコードや応募券を集めて応募する懸賞)なんかも狙い目やな。というわけで、今回はチキンまるごと揚げられるっちゅう、どでかいフライヤーや。フライドポテト10人前くらい軽く出来てまうで」
またまた要らない物が増えそうである。渚は慌てて軽く牽制する事にした。
「でもピョンちゃん、そんな大きなフライヤーを置くスペースなんてないよ。あまり使えない物ばかり増えても・・・」
「心配せんでもええ。使われへん物は後でまとめてオークションで売るからな。フッ。元がタダやから儲かる一方やで」
悪徳商人丸出しの顔でニヤリと笑うピョンを見ながら渚は“これは懸賞熱が冷めるまで、しばらく待つしか無いわね”と心の中で思った。
今回はピョンちゃん VS スパイ VS マフィア な感じでいってみます。




