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その日の私の備忘録

作者: アルミ缶

昔どこかで読んだのだけれど、猫っていう動物は決して人に懐くことはないそうだ。

飼い主にすり寄って喉をゴロゴロ鳴らしている瞬間も実は奥底には警戒心を秘めている。

野生の本能ってやつなのだろうか。

私は、きっと猫みたいな女の子だったんだろう。


ーーー


駅で待ち合わせ時間より少し早く着いて彼を待っていると、サラリーマンが腕時計を気にしながらせかせかと早歩きしている様子が目についた。私も来月からはこんな風になるんだろう、と思うと、少し憂鬱さが増した。

そんな気分を紛らすように、用もないのにスマホに目をやると、彼からLINEが1件来ていた。

「ごめん、五分遅れる」

こういう時は大体この倍は遅れてくる。一時的とはいえ、あれだけ濃い時間を一緒に過ごしていたのだから、彼の性格はそれなりにわかっている。




彼、三池くんと私が初めて会ったのは、劇団サークル「そらいろ」の新歓イベントだった。

大学に入って、とりあえず何をやりたいでもなく、適当にサークルの新歓を回っていた私は、その日も、先輩の話に心の中であくびをしながら、笑顔を作って適当に頷いていた。

彼はテーブルを挟んで私のはす向かいに座っていた。向こうは向こうで何やら楽しそうに話し込んでいて、先輩新入生関係なしに、まるで旧知の仲みたいに大声で笑いあっているのを見ると、私も混ざりたいな、なんて少し羨ましくも感じた。

百裂拳のごとくこっちに話題を振ってぐいぐい迫ってくる男の先輩に鬱陶しさを感じて、トイレ行ってきまーすと席を立ったら、同じタイミングで席を立った三池くんと目があった。軽く会釈をされる。

「えーっと、トイレトイレ…」

と周囲を見渡す彼に

「あっちだと思います」

と教えてあげると、

「ほんとだ、ありがとう。あ、あの、僕三池って言います。同じ新入生の人ですよね」

と、少し上ずったかすれ気味の声で、彼は話しかけてきた。こいつさてはお酒を飲んでるな。どうせまだ未成年だろうに。

「あー…。はい。千里です。千里、香奈」

できれば名前なんて教えずにやり過ごしたかったが、一方的に名乗られたら仕方ない。

千里せんり、という私の名字は、名前とも名字ともどっちとも取れる音で、よく勘違いをされる。そして自分を名前呼びするやばい女だと思われたくなくて、私はいつもフルネームで名乗るようにしている。

「千里さんか。演劇興味あるんですか?」

「うーん。まあ、ぼちぼち、かな」

これ以上会話を続けるのが面倒で、私は適当な相槌をうって女子トイレへ逃げ込んだ。

これが彼との初めての会話だった。


「はい、というわけで、『そらいろ』の新歓コンパはこれで以上となります!興味を持ってくれた人はぜひ稽古も見学に来てください!」

サークル長っぽい先輩が通る声でお開きの号令をかけると、集団はぞろぞろと瓦解していった。二次会に行く人、駅へ向かう人、その場でまだ話し込んでいる人、様々だった。三池くんはコンパの最中に入団を宣言していただけあって、先輩にしつこく二次会に誘われていたが、見るからに酔っていてそれどころじゃなさそうだった。

「自分、こっひなんで」

「ねえ、もう。ちゃんと話せてないじゃん。送ってくよ」

女の先輩が三池くんを介抱していた。

「おーい、真由も二次会カラオケ行こうぜ」

「ばか、新入生に何かあったらどうするの」

真由、と呼ばれたその先輩は二次会のお誘いをやんわりとかわして、三池くんを気遣いながら歩いていく。その方向は、私の家の方向と一緒で、すかさず「私もこっちなんで一緒に行きます」とその二人に加わった。

何より、コンパ中からめげずにずっとアピールしてくる男の先輩から離れる口実を作りたかった。


「ごめんね、うちのサークル、普段はみんなすごく真剣に舞台作ってるんだけど、こういう時だけ調子乗って騒ぎすぎちゃう人多いんだよね」

しばらく歩いたところで、真由さんに謝られる。

「いえ、楽しかったです」

「ええと、千里さんだっけ?千里さんはなんで『そらいろ』を見にきてくれたの?」

「演劇、というか、物語が好きなんです。それで」

「そうなんだ!例えばどういうのが好きなの?」

真由さんは目を輝かせて食いついてきた。その姿は無邪気そのもので、話していて距離を感じさせない先輩だな、と思った。私はいつも心に壁を作ってしまうタイプだから、見習いたい。

「そうですね…」

ひんやりとした夜道の空気が気持ちいい。そういえば、こんな空気感で読めた小説があった。

「「夜のピクニック」」

突然、三池くんがあげた声と私の声が重なった。

「わ!何、話聞いてたの?ほら水飲みな」

「ありがとうございます」

先輩にもらったペットボトルの水を喉に注ぎ込むと、三池くんは興奮したようにまくしたてた。

「千里さん、恩田陸さんとか読むんだ。俺も好きなんだ。ねえ、千里さんも入ろうよ、『そらいろ』。俺千里さんと一緒に演劇やりたい」

「でも私演技とか下手だから…」

と私が困ったように返事すると

「いいんじゃない?私も演技はてんでダメだよ」

と、真由さんが会話に割って入ってきた。

「役者の人だけじゃなくていろんな役割に分かれてるんだよ、うちのサークル。演出とか脚本担当もいるし」

そこで私は初めて真由さんが脚本担当なことを知った。明るくて華がある人だったからてっきり演者側だと思っていた。

脚本には少し興味があった。文学は好きだったし、それを舞台として昇華したらどんなふうになるのか、気にならないわけではなかった。

「とりあえず、もし気になったらまた私に連絡してよ」

連絡先を交換すると、真由さんは私にウインクした。こんなふうな先輩になりたい、とそのときぼんやりと思った。

そして、この3日後に私は真由さんに入団を希望するメッセージを送ることになる。




きっちり十分遅れで三池くんは改札に現れた。

「ごめん、遅れた」

「ううん、大丈夫」

スマホに目を落としながら私は答えた。

「久しぶり」

「うん、久しぶり」

駅舎を出ると、春風が体を包み込んだ。まばゆいほどの日差しに思わず目を細める。

「もうすっかり春だね」

「だねー」

「じゃあ行こっか。えーっと、こっちだ」

そういって三池くんは歩き出した。今日、私たちは桜を見に行く約束をしている。目黒川沿いの桜並木が満開でとても綺麗らしい。

三池くんは前会ったときからパーマをかけていた。前といっても、もう2年くらい前のことかもしれない。

「髪型、似合ってるね」

そう口に出すと、三池くんは

「そう?ありがとう」

と嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔にどこか懐かしさを感じる。

「どうする?先お昼食べてから桜見にいこうか」

そうだね、と私は返した。行ってみたいサンドウィッチのお店があるんだ、と三池くんは私をエスコートする。

こうしてみると、出会った頃と比べて三池くんは随分女の子の扱い方が上手になった。もともとハンサムな風貌をしてはいたが、あの頃は、なんというか、大人の男性っていうより純粋な少年という感じだった。彼の変化に私も少しは貢献している、なんて考えるのはおこがましいだろうか。




劇団「そらいろ」に入った新入生は、私と三池くんを含めて十人だった。毎年これくらいの人数らしい。何人かは途中でやめてしまうので、最終的にだいたい七人くらいで落ち着くみたいだが。

私は当初から入ろうと思っていた、脚本・演出班に入った。『そらいろ』は演劇サークルとしては比較的規模の小さいサークルだったので、基本的に皆複数の班を兼任する。

私も御多分に洩れず、脚本・演出班と小道具班の二つを兼任することになった。

三池くんは役者班と小道具班に入ったらしい。

「千里さん、よろしくね」

と笑う彼は、酔っていたあの日より落ち着いている印象を受けた。きっと普段の彼は見かけよりも、やや控えめと言っていいくらいの性格なのだろう。

彼と顔を合わせるのはあの新歓コンパの夜以来だった。彼は一体あの日のことをどれくらい覚えているのだろうか。真由さんを含め3人で夜道を歩いたこと、半ば強引に私をこのサークルに誘ったこと。

色々聞きたい気持ちを抑えて、私はよろしく、とだけ返した。

「わー!香奈ちゃん!入ってくれてありがとう!一緒にいい作品つくろうね!」

脚本・演出班の会合に挨拶しにいくと、真由さんから手厚い歓迎を受けた。入ってから知ったのだが、真由さんはこの班のエース的存在で、去年1年生ながら秋公演のメイン劇の脚本を担当させてもらっていたそうだ。この人みたいになりたい、と改めて思った。

「はい、ちょっと皆さん聞いてください!」

サークル長の岡田さんが部屋の中心で声を張った。花形である役者班の取りまとめも行なっている、すらっとした高身長で彫りの深い顔立ちをした男の先輩だ。さっき新入生女子たちの会話を盗み聞いたとき、みんなイケメンだのなんだのと色めきだっていた。私的にも、言動の端々から演劇への情熱が伝わってくる、好印象な先輩だった。

「とりあえず今だいたい自分の入る班の確認と挨拶が済んだと思います。新入生はまず8月にある夏公演を主体的に作っていってもらうことになります!もちろん上級生がちゃんとサポートするので安心してください。皆さん頑張りましょう!」

拍手がわき起こる。私もなんだか大学生活がよーいどんで始まった気がして、胸がドキドキした。




厚切りのベーコンレタスサンドを頬張りながら、三池くんは3日後に迫った卒業式の話をしていた。

「ついに卒業かあ〜。なんか感慨深いね」

「ほんとだよね。あっという間」

「千里さんは四月からどこ住むの?」

「神奈川の方。会社がそっちの方だから」

「そっかぁ、遠くなるね」

三池くんは遠くの方を見つめた。テラス席からは閑静な住宅地が見下ろせる。風が気持ちいい。

「三池くんはどこだっけ?」

「俺は結局千葉の方にしたよ。やっぱ都心だと家賃高いからさ」

「へー、いいじゃん」

何がいいのか私自身もよくわかってないけど、そう返す。

「サークル長の岡田さん、覚えてる?岡田さんと俺オフィスが近いらしい。今度一緒にご飯行きましょうってお願いしちゃった」

『そらいろ』では2年生が幹事代で、それ以降はOBとして手伝いにきたり、フェードアウトしたりと人それぞれだ。岡田さんは卒業公演が終わってからも、ちょくちょく顔を出しては演劇指導をしてくれていた。

「岡田さん懐かしいなぁ」

まだ追いかけてるんだね、と言いかけて口をつぐんだ。

「知ってる?岡田さん、まだ真由さんと付き合ってるらしいよ」

頭上から金属製のたらいを落とされたみたいに、ぐわんという音が聞こえたような気がした。

「そうなんだ」

と平静を装って答える。

三池くんはその後も何かそれについて話していたが、私の耳はしばらく聴力を失っていた。




真由さんが岡田さんと何やらサークル室の裏で話し込んでいるのを見たのは大学入学後初めて迎える期末テストの期間中で、確か七月の中頃だった。いよいよ夏公演までの期間が短くなってきて、みんな各々の作業に明け暮れている時期だった。

小道具に使う資材を取りに行くふりをして、こっそり二人の側を通ると、岡田さんの表情がちらりと見えた。その顔はいつも通り凛々しくも、どこか困ったような雰囲気があった。しばらくして、脚本・演出班の打ち合わせに戻ってきた真由さんはどこか機嫌が良さそうだった。

「また遊び断られたの?岡田なんてやめといた方がいいよ。あいつほんとに演劇のことしか頭の中詰まってないんだからさ」

と、同期の女性の先輩に小声で耳打ちされていたが、真由さんは

「ううん、いいの!」

と、笑った。その笑顔は普段私たちに向ける爽やかなものとは少し違って、なんだか恋の香りがした。

『そらいろ』に入ってそろそろ3ヶ月が経つ。それだけの期間サークルに真面目に参加していれば、私のように社交性にイマイチ欠けている人間でも、嫌でもサークル内の人間関係は耳に入ってくる。

「真由さん、岡田さんのことが好きなんだってさ」

小道具に使う角材のささくれを紙やすりで削りながら、三池くんが言った。

「1年生のときからもうかれこれ3回くらい告白してるらしい」

「そうなんだ」

意外だった。確かに役者班のリーダーと脚本・演出班のエースでかなりお似合いのカップルだったが、真由さんは同じ男の人に何度も告白するほど執着するタイプには見えなかった。

「岡田さんって本当に演劇を愛してるんだよなぁ」

役者班にいるとわかるんだけどさ、と続ける。

「本当にサークルと演劇以外のことは今は見えてないって感じがする」

すごいよ、と三池くんは伸びをした。

「どうやったらそんな風に演劇一筋になれるんだろうなぁ。俺は演技中もどうしても雑念とか入り込んじゃうよ」

最近じゃ期末テストのことが気がかりであんまり集中できないし、と笑う。

「そっちの方が普通だよ」

「まあなあ。よくさ、勉強とサークルと恋愛、あとはバイト?せいぜい2つくらいしかちゃんとやれないって言うよね、普通の人だと」

「言うね。私も普通の人だから今が精一杯」

そう言いながら私は黙々と作業を続けていた。

少しの沈黙の後、三池くんが思い出したように口を開いた。

「そうだ、今日だよね?うちくるの」

「うん。一回家帰ってからそっち行くつもり。家近いし」

「おっけー。じゃあ家片付けて待ってる」

今日私は三池くんの家に行く約束をしていた。

夏公演が終わったあと、文化祭にて行われる秋公演に向けた準備がスタートする。その脚本・演出の参考にしたいから、と真由さんにある洋画を見ておくよう頼まれていた。もちろん快諾したが、一つ問題があった。私は家にテレビを持っていなかったのだ。そして、その場にいた三池くんがうちのテレビを使えばいいと名乗り出てくれたのだった。

新歓コンパのときに判明した通り、私と三池くんは家がかなり近い。


やがて、日が暮れていい時間になると、私は今日分の作業を締めて帰宅した。そして、諸々の準備をする。服の匂いを嗅ぐと少し汗の匂いがした。日中暑い中、小道具班で作業をする時間が長かったからだろう。別に三池くんのことをどうとか思ってるわけではないけれど、単純に汗臭いと思われたくないので、軽くシャワーを浴びて着替えた。

三池くんの家までは徒歩十分くらいで到着した。

いらっしゃい、と三池くんは私を招き入れた。三池くんの家は、築浅そうな白基調の綺麗な部屋で、特にごちゃついた感じもなく好印象だった。

「夕飯食べた?」

「ううん、まだ食べてない」

「どうする?先映画見る?後にする?」

「あんまお腹減ってないから後にしたいかな」

おっけー、と早速三池くんは準備に動いてくれた。

そこ座って、と言われたクッションの上に腰を下ろして、私たちはその映画を見始めた。昔の時代の西洋を舞台にした映画のようで、終始難しい感じだった。途中何回か休憩を挟んで、二人で見終わった頃にはもう時刻は二十二時を回っていた。

「なんか適当に作るよ」

「え、料理とかするんだ」

「一人暮らしなんだからするでしょ」

三池くんは笑って台所の方に向かった。そして、しばらくしてから二人分のオムライスを抱えてこちらに戻ってきた。

「すご!」

その見た目は普通の洋食屋さんで出てきてもおかしくないクオリティで思わず私ははしゃいでしまった。

二人揃ってあっという間に完食し、休憩している間なんだか変な空気が流れた。

「千里さんはさ、どう?『そらいろ』入ってみて。もうけっこう経ったけど」

「楽しいよ」

私は白いローテーブルの上のチューハイ缶を指でつつきながら答えた。これくらいならいいだろ、とつい一本もらってしまったが、意外と酔う。

『そらいろ』が楽しいというのは、本当だった。何かに向かって頑張っているときだけ、自分が正しい人生を送れている感じがする。それに、目標にしたい、追いつきたいと思える先輩とも出会えた。

「よかったぁ、安心した」

「なんで三池くんが安心するの」

と笑うと、三池くんは「だって、誘ったの俺じゃん」と答えた。

「覚えてたんだ」

「まあ、一応。酔ってはいたけどね」

ほんとは、けっこうな比率で真由さんに憧れたという理由が占めているけど、ここは黙っておこう。

「あのとき、なんで私と演劇やりたいなんて言ったの?」

「うーん、なんというか…この人と一緒に演劇作れたらいいなぁって思ったから」

「何それ。答えになってる?」

急に歯切れが悪くなる三池くんがおかしくて、私は笑った。

その後もサークルのこととか、授業のこととか、最近読んだ小説の話とかをしていたら、あっという間に日付が変わるくらいになっていた。

「もうこんな時間か、そろそろ帰る?」

三池くんが机の上に散らばった食器類を片付け出す。

酔っていたとか言い訳するつもりはない。ただ、そのときはもう少しこうやって彼と話していたかった。

「もう少しいようかな」

と呟いた。ほら、家近いし、と付け足す。

「じゃあ、もうちょい話してくか」

彼の言葉に、私は途端に表情を明るくして頷いた。

流石にバレてしまったと思った。私は三池くんに多少の好意を抱いていた。これまでは気にもならないような小さな気持ちだったけれど、今日真由さんの恋に染まった顔を見て何か変なスイッチが押されてしまった。

その後もしばらくくだらない話をして笑いあって、夜が更けていった。

「なんか千里さんとこんなにたくさん話したの初めてかもな。めっちゃ楽しい」

三池くんが伸びをして時計を見る。

「もう1時かぁ」

「正直帰るのめんどくさくなっちゃった」

この私の発言は本音半分。残りの半分は、もちろん、下心。だって明らかにめんどくさいなんて言うほどの距離じゃない。

私のその言葉にどう返答するか、きっと三池くんの中でも一瞬の葛藤はあったのだと思う。そして、脳内会議の結果、彼が次に放った言葉は「じゃあ、今日は泊まってく?」だった。


そこから先は、案の定、私の想像の通りに事が進んだ。

部屋の電気を少し暗くして、布団の中で至近距離で見つめあって、先輩の愚痴とかを言い合って笑っていたら、いつしか鼻先が触れるくらいの位置に彼の顔があった。無言の時間が訪れた。三池くんの体温と鼓動が伝わってくる。

体あっつ、と笑って、私が目を閉じると、唇に感触があった。いつの間にか彼の手は私の胸のあたりを触っていた。

するの?と一応形だけ聞いておく。誘ったのはこっちの方なのに、私ってやつは本当にずるい性格をしている。すぐさま、うん、と返ってくる。私は黙って頷いて彼に身を預けた。

行為をするのは高校生のとき以来実に2年以上ぶりだった。高校2年生のとき、当時付き合っていた先輩に半ば無理やり家でされて、初めてを奪われた。大学生になってから、そういったイベントを無意識に避けていたのは、そのときの経験が割とトラウマになっていた節がある。三池くんの手つきは、かすかに記憶に残っているその先輩よりも、丁寧で少しぎこちなかった。

彼はこういう経験はあるんだろうか。キスをしながら気持ちいいところを繰り返しいじられて思わず声が出る。正直、ちょっと上手い。もちろん比べる対象は一人しかいないけど。

ぬるぬるしてる、と彼がまるで大事な会議中の発言みたいな声のトーンでまじまじと言うもんだから、私は思わず吹き出してしまった。楽しい。

「そうだ、ゴムはちゃんとして」

「もちろん」

彼はそう言うと、部屋の隅に置いた財布の中からコンドームを取り出した。

「三池くんコンドーム持ち歩いてんの」

とまた私は笑ってしまった。

「うるさい」と彼は恥ずかしそうに私の口を塞いだ。

彼のモノを入れられると、そこから彼の体温をはっきりと感じた。もうそこからはよく覚えていない。向かい合って一度して、後ろからもう一度して、抱きついてもう一度して。3回くらいはしたかもしれない。気づいたらもう外が明るくなり始めていた。

事を終えて隣で荒い呼吸をしている彼に「明日授業とか無いの?」と聞くと「もう休んじゃおうかな」と返ってきた。

いけないんだー、と言いながら、私も疲れが限界に達してそのまま眠りに落ちた。




「もしもし?大丈夫?ぼーっとしてたけど」

その言葉で私は我に返った。目の前には、テラス席のテーブルと、その上に置かれたサンドウィッチ。

「ああ、うん。大丈夫」

「具合悪かったら、どっかで休む?」

どこかってどこだろう。この男はこう言ってラブホテルとかに連れ込んだりするから油断ならない。

「ほんとに大丈夫だよ、ぼーっとしてただけ」

そういって私はサンドウィッチの残りのひとかけらを口に放り込んで、残ったドリンクを飲み干すと、さあ行こう、と彼を促した。

目黒川の桜は満開だった。

散った花びらが水面に落ち、そこをカモたちが泳いで通って、まるで道のように跡になっていた。

三池くんとは、都内のいろんなところに遊びに行ったけど、一緒にお花見をするのは意外と初めてだった。

「けっこう続いてるんだね、桜並木」

「そうだね、良い眺め」

途中にかかっている橋の上から上流の方を眺めると、奥の方までずらっと並ぶ桜の木が壮観だった。

でも、私は考え事をしていて、その眺めを楽しむ余裕はなかった。




その夜のあとも、私と三池くんは何回か夜を重ねた。基本的には彼の家で、たまにそういう目的のホテルにお泊まりして。サークル関連の大きなイベントがあるたび、私は三池くんの家にそのままお邪魔して、行為をした。夏公演が無事に終わり打ち上げをした夜、秋公演の脚本決めで私が珍しく真由さんと揉めて落ち込んだ夜、その公演の演者を決めるサークル内オーディションで三池くんが主演を勝ち取った夜、文化祭当日、雨で想定よりも客足が伸びててんやわんやになりながらも無事公演をやり遂げた夜。

決して頻度は高くなかった。でも、高ぶった気持ちを誰かに伝えたいと思ったとき、私は必ず三池くんの家に向かった。

それに伴って、三池くんと普通に遊ぶ頻度も増えた。お互い気心知れた友達として居心地がよく、サークルも授業も休みの平日とかに、一緒に都内にお出かけをした。

私たちの関係性ってなんなんだろう、と思ったことがある。側から見たら付き合っているように見えてもおかしくないくらいだ。もちろん、付き合ってはいない。でも、彼へ抱く信頼感や安心感はもはや恋人へのそれと言っても過言ではなかった。

向こうはそこらへんをどう思っているのか、一度彼に聞いて確かめてみたかったが、それを聞く勇気は私にはなかった。

「お互い恋人ができたらこの関係はちゃんと終わりにしよう」

というのが、二人の間の唯一の約束だった。彼は秋公演で主演を務めてから、なんだか輝きを増したようで、同期女子にかなり言い寄られているようだったが、それでも恋人を作らなかったのが、私への気持ちの答えに思えて、それで私は満足をしていた。




私たちは、しばらく目黒川沿いの道を下流の方へ歩いていた。

風が吹くたびに桜の花びらがひらりと舞い落ちる。

二人ともしばらく無言だった。

やがて、ずっと聞きたそうにしていた質問をついに三池くんが口にした。

「千里さんは今、彼氏とは続いてるの?」

「ううん、ちょっと前に別れた」

川沿いの桜を眺めながら私はそっけなく答える。

そっか、という彼の声が風に溶けていく。

「ちょっと、そこに座って休まない?」

彼が指差した先には対岸の桜の木々を眺められるベンチがあった。ううん、と私は首を振った。

「休むなら、あそこに見えるカフェテラスにしよう」

できるだけ、ゆっくり落ち着ける場所がいい。きっと今から長い話が始まる。

始めるまで2年もかかってしまった、私たちの「別れ話」が。




「そらいろ」では毎年、3月初めに行われる卒業公演をもって幹事代が引退をする。卒業公演では、幹事代とそれ以外のメンバーとでそれぞれ一つずつ演劇を完成させて披露をする。夏公演、秋公演とは異なり、大々的に告知を打つことはせず、団員の知り合いや家族を中心に観客が構成される内輪的な公演だ。演劇1つあたりに携わる人数が少なくなる分、簡素で上演時間も短めなものになりがちだが、身内に向けたメッセージを好きなように込めて自由に劇を作れるため、例年感動的なものになるのだそうだ。

私たち1年生側の演劇は「カフェテラスにて」という題目だった。とあるカフェテラスに座っている男女の会話と、付近の席に座っている客に起こる出来事の奇妙なつながりを描きながら進む会話劇だ。その脚本を私は任されることになった。


『でね、その先輩、結婚式の最後に何を送ったと思う?』

『いや、さっぱりわからないな』

『それがね、百本の…』

『百本⁉︎コーラ百本だって⁉︎おい、わかった、今すぐ店内の広告に書いておくんだ、誤発注で頼み過ぎてしまいましたって!いいな!俺?俺は今日バイト休みだよおおお!!電話なんてかけてくんな!!』

『…らしくて。ロマンチックだよね』

『ごめん、肝心なとこ聞き逃してかけらもロマンチックじゃなくなってる』

『もう。ちゃんと話聞いてよね。あ、すみませーん、コーラ1つお願いします』

『多分君も影響受けてるよね⁉︎』


客席から笑いが起こる。私の書いた脚本で先輩たちが笑ってくれている。身内の公演ということもあって、「カフェテラスにて」ではあえて積極的に内輪ネタを入れて、コントチックに描いていた。この、コーラ百本誤発注事件も、一人の先輩のバイトでのやらかしエピソードを聞いて参考にしたものだ。

真由さんの方をちらりと盗み見ると、弾けるような笑顔で笑ってくれていた。嬉しくて思わず手を握りしめる。


『きっと僕らやり直せると思うんだ。だから今までの過去を清算して一緒に…』

『あ、お客様、ご清算ですね?』

『はい…』

『いや、今のはどっちへの返答⁉︎』


三池くんの戸惑いの声で私たちの作品は終了した。我ながら悪くない出来だったと思った。


1年生の公演の後は先輩たちの公演だった。先輩たちは、これが同期で行う最後の演劇となる。題目は「三月の泥棒」。「ロミオとジュリエット」を学園モノにした現代版リメイクのような作品で、ロミオ役をもちろん岡田さんが、そしてジュリエット役をなんと真由さんが務めていた。初め、真由さんはこの脚本を書いたとき、別の演劇班の先輩をジュリエット役にと推したそうなのだが、その先輩が気を利かせてその役に真由さんを推薦したのだそうだ。岡田さんと真由さんのことは本人たちが隠しているつもりでも、団員みんなが知っているような公然の事実だったから、いいからいいから、と遠慮する真由さん本人を押し切る形でその役が決まったらしい。

ステージ上での真由さんの演技は普段脚本家に徹しているとは思えないほど自然で、岡田さんと舞う姿は凛々しく美しかった。

ラストシーンでは、岡田さんが真由さんの手を取って、手の甲にキスをした。


『いっぱい待たせてしまった。すれ違ってしまった。でも、ようやくこうしてここで一緒になれたんだ』


拍手が沸き起こった。

こうして、一つ上の代の「そらいろ」での活動は幕を下ろした。


「香奈ちゃ―――ん、お疲れ様―――!脚本すごくよかったよ!!」

「ありがとうございます。真由さんもほんっとうに素敵でした」

打ち上げの席で抱きついてくる真由さんを制しながら、私は達成感と寂寥感を同時に感じていた。

「『そらいろ』も、演劇も、楽しいでしょ!これからは香奈ちゃん、脚本・演出班を頼んだよ!」

その言葉に私は強く頷いた。

「ちょっと真由!ねえ、どうなったの!聞かせなさいよ!」

突然、真由さんの元に女性の先輩方がやってきて、真由さんを取り囲む。

「岡田に最後告ったんでしょ⁉︎返事は?」

そう言ってみんなで詰め寄る。私はその輪の外で真由さんのことを見つめていた。

真由さんは少し顔を赤くして、小さく頷いた。

「「きゃああああ!」」

どっと周囲は色めきだった。その歓声が演劇班の集団の方にも伝わったようで、岡田さんも周りの人に頭をわしゃわしゃされている。

「いやあ、ついにあの二人付き合ったんだな」

「ほんとなー」

「お前はなんかそういうのないの?」

賑わいの中、遠くからそんな会話が聞こえてきた。三池くんと、演劇班の同じ1年生の田中くんの会話のようだ。なぜか私がドキッとする。

「うーん。いやあ、ないかなあ。羨ましいよ」

三池くんは少し考えると、そう答えた。その言葉を聞いたとき私はふと思考が真っ白になった。

なんでかはわからないけど、胸のあたりがずきんとした。ただその場にいるのが苦しかった。

その夜、私は三池くんに「彼氏ができた」とだけLINEを送って、彼の家には寄らずに一人で帰った。

それから、三池くんと私の関係は、初めてしたあの夜以前のものに完全に戻ったのだった。「そらいろ」をお互い引退して、就活も終えて、3日後に卒業式を控えた今日の今日まで、完全に。




頼んだアイスコーヒーとカプチーノが届くと、それに一度口をつけてから三池くんは、あのさ、と切り出した。

「1年生のとき、さ」

「うん」

お互い何の話をするのかは大体察しがついている。

「俺と千里さんが、その、そういう関係になってた時があったよね」

私は頷いた。

「で、1年生の卒業公演の日に彼氏ができたって言ってきたじゃん」

三池くんがおずおずとこっちを見てくるので、私は続けて、と頷いた。

「で、俺はてっきりサークル内の誰かと付き合いだしたんだと思ってたんだけど、こないだ『そらいろ』の男子の同期会が久々にあって、聞いたらそんなことはなかったみたいで」

そうだ。だって、あのとき別に私に彼氏なんてできていない。

「その、俺あの飲み会で何か千里さんを傷つけるようなことをしてしまったのかなって」

三池くんはこっちの方を真っ直ぐ見つめてきた。セリフの歯切れは悪いが、相変わらず表情はどこか主人公を彷彿とさせる煌めきがある。

「それで今日、お花見に誘ってくれたんだ」

「いや、もちろん久々に千里さんに会いたかったのが1番の理由。でも、これだけは卒業する前に聞いておきたいって思った。そして、謝りたいって」

私は空を見つめた。今日1日のこと、そして4年前のあの日から今日までのことをずっと振り返っていた。私はなんであのとき苦しかったんだろう。今になっても正直よくわからない。

でも、なんとなく思う。きっと、1年生の頃、私はずっと背伸びをしていたんだ。

憧れの存在に向かって、届きもしないのに、精一杯爪先立ちして、手を伸ばして。それに疲れてしまったのかもしれない。

「今日1日三池くんと過ごしてさ、色々と思い出したんだ。三池くんは何も悪くないよ。私が疲れちゃっただけ」

「本当に?」

三池くんは腑に落ちない顔をしている。

「うん、本当に。三池くんと過ごしてた時間は本当に楽しかったよ」

きっかけはまた憧れの真由さんの真似事だったかも知れない。大学生になって、サークル内で恋愛まがいのことをしてみたい、なんて軽い気持ちだったかも知れない。

でも、改めて考えると、三池くんと過ごしたあの時間は、本物の、自分のオリジナルの幸せだった。ようやく気づけた。もう遅いけど。

「だから、もう大丈夫だよ、その話は。それより、もっと別の話しようよ。ほら、岡田さんと真由さん結婚するのかな、とか」

「そっか。うん、わかった。うーん、もう付き合って3年くらい経つのかな?どうだろう、結婚してもおかしくないよね」

あの頃みたいにまた会話が弾み出す。ずっとこんな感じでいればよかったんだ。私が色々と間違ってしまっただけ。自分とは違う誰かの影を追い続けてしまっただけ。

「結婚式といえばさ、ほら、1年生のときにやったコント覚えてる?あれでさ…」

そのとき私たちの2つ隣の席で電話していた男の人が急に大声を出した。

「おい、千本⁉︎お前オレンジジュース千本は頭おかしいだろ。すぐに他の店舗に連絡しろ!売れ残ったらお前買い取ってもらうからな⁉︎」

思わず三池くんの方を向く。目が合う。1秒後二人とも耐えきれずに思わず吹き出した。

「いや、千本って。すごいな、店のドリンクコーナー全部埋め尽くしちゃうじゃん」

「ほんとそれね。こんなことあるんだ」

二人でなるべく声を殺して大笑いする。一通り笑い終えたら、さっきまでの重い空気はそこには一切残っていなかった。

あのさ、と三池くんが切り出す。

「もしよかったら、最後に今日うちにこない?もうすぐ引っ越しちゃうから」

私は黙って、目の前のカプチーノのカップに手をかけた。飲みかけの冷めたカプチーノをカップの中で転がす。やがて、顔を上げて、にっこりと微笑んでこう答えた。

「ううん、行かない」

私の返答を聞いて、三池くんは悲しそうな顔をした気がした。

「そっか、行かないか」

「うん、行かない」

もう一度、自分自身に念を押すように繰り返す。

「じゃあ、これだけ言わせてください」

改まった三池くんに、私はそれもストップ、と言って、首を振った。三池くんは何か言いたげにしている。

「大丈夫。もうわかったから。言わないで」

「いや、でも」

「お願い」

私の声が震えているのに気づいて、三池くんは口をつぐんだ。私は精一杯の笑顔を作って、彼に伝えた。

「ほら、私、演技下手だからさ」

涙が頬を伝っている感覚があったが、無視をする。彼の息を飲む音が聞こえた気がした。

「今日、ここでお別れしよう」

長い沈黙があった。やがて、凛とした声で彼は最後のセリフを口にした。

「…わかった。ありがとう、千里さん。元気で」

お互いに頭を下げる。そうして、4年間の私たちの物語に幕が下りた。




お会計をして、私たちはその場で解散した。去っていく彼の姿を呼び止めそうになる自分を必死で抑えつける。

ムカつくやつだった。べろべろに酔いながら私を無理やり「そらいろ」に誘ったことも、公演を経るたびに輝きを増していったところも、お調子者なところも、料理が上手なところも、部屋を綺麗に片付けるタイプの男というところも、行為中だけ私のことを「香奈」と呼ぶところも、全部、全部ムカつく。

きっと、彼の部屋に行ったら、彼の言葉を最後まで聞いていたら、私はまたあの頃の自分に戻ってしまうような気がした。

だから、聞いてあげない。


私は猫だ。初めから彼に懐いてなんかいない。いない。いない。

視界が滲んだ。春が目に染みた。


別れ際の彼の寂しいような痛いような、そんな表情が脳裏に焼き付いている。

もしかしたら、引っ掻き傷くらいは彼に残せたのかもしれないなと、そう思った。


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