07.最初の洗礼
中は光が満ちていた。
細やかな彫刻が施された柱の上、吹き抜けの二階と、天井に開けられた大きな窓。そして、正面の高い位置に嵌められたステンドグラスからも。惜しみなく降り注ぐ太陽は、まるで訪れた者に祝福を与えているようだった。
邪な者であれば進むことさえためらう道は真っ直ぐ続き、両脇に並べられた長椅子に人影はまばら。
誰もが頭を垂れ、祈りを捧げている。己に加護を与えてくださる精霊を敬うのが基本だが……もう一人、崇拝することを許されている精霊がいる。
道の終点、小さな段のその更に奥。後光に照らされた巨大な影。誰よりも高い位置から自分たちを見守っている精霊王オルフェン。
……正確には、彼を模った石像はそこにあった。
草で編まれた冠。鎖骨まである髪。鋭くも優しい目付き。どの教会でも必ず置かれているが、ここまで大きいのは他でも見ないだろう。
とはいえ、他国どころか違う街にすら行ったことのないディアンに比較はできない。あくまでも他人の意見で、実際に目にすれば考えも変わるだろう。
少なくともディアンが幼い頃から見続けた物は目の前にある。今でこそ普通に見られるが、最初に見た時はあまりの大きさに恐ろしさすら抱いたものだ。
田舎の方ではこの半分……いや、人よりも小さいとか。物によっては欠けているとかなんとか。
いや、重要なのは大きさでも見た目でもなく、それが精霊王を模った像であるという事実だ。
他の精霊でも、大精霊でもない。オルフェン王であることに意味があるのだろう。
そのあたりは威厳とやらが関わってくるのだろうが……その内情についても、ディアンが知るべきことではない。
進めた足は段差の前で止まる。ここまでが一般人が進んでもいい位置だ。
ここより前に進めるのは教会の者か、その日に洗礼を受ける者だけ。そして、洗礼を受けられるのは午前中と決まっている。
シスターたちを除けば、もう誰も踏み入れることはできない。
だからディアンも進むことなく、その場で像を見上げる。
本物の精霊王も同じお姿なのか、あるいはこれも人間たちの想像によって造られたのか。
厳しくも優しいはずの瞳は、ディアンにとっては睨みつけているようにも見える。いや、きっと他の者には変わらず見えているだろう。ディアンが。ディアンだけがそう感じてしまうのだ。
あの時、この先で跪いた……あの日から、ずっと。
『――加護をいただけなかった……!?』
もう十年以上も前のことなのに、今でも鮮明に思い出せてしまう。
動揺する声。二階まで埋め尽くした大人たちがどよめく姿。増えることのない名簿の記述。それから、父親の反応まで。
忘れたくても忘れられない。忘れることは、許されない。
どれだけ耳を澄ませても、どれだけ祈りを捧げても、精霊の声が聞こえなかったあの日こそ……ディアンが、全てを突きつけられた日なのだから。
「あら、こんにちはディアン君」
光が散り、瞬きを一つ。それからようやく首が戻り、呼ばれた方へと振り返る。
白を基調とした裾の長いスカートに、後ろ髪を隠している青いベール。僅かに覗くその前髪も、視界の妨げにならないように分けられていた。
普段通り、誰にでも同じように。穏やかに微笑むシスターへディアンも声を返すが、同じように笑うことはどうにも難しい。
「……こんにちは、シスター。今日も書庫をお借りしても?」
「ええ、もちろん。許可をもらわなくても、あなたならいつでも使っていいのよ?」
「ありがとうございます。……でも、これは癖みたいなものです」
今日は断られるかもしれないと、よぎった不安は変わらず笑顔で否定される。確かにそう言われたことは記憶に新しいが、声をかけるのは最低限の礼儀だ。
使われると困る日もあるかもしれない。ここでさえ迷惑と思われれば、さすがに辛いものがある。
快い返事に少しだけ胸が軽くなり、軽く会釈をすれば思い出したように腹が痛む。
思わぬ不意打ちに抑えたはずの呻きも、この静かな空間ではよく聞こえてしまうらしい。
「あら、どこか怪我を?」
「……いえ、大したものではないので」
嘘を吐けば追求され、正直に言えば心配させてしまう。協会の関係者は治癒魔法が使えるので、事情を話せば治療もしてもらえただろう。
言わなかったのは父親に伝わるのを懸念しているのではなく、僅かなプライドから。
他人からすれば抱く価値もないほどの小さな感情だ。知られれば鼻で笑われるか、呆れられるか。
この教会にいる者がそんな対応をするとはディアンも思っていない。心の中では、なんて見えない部分を疑っているのでもない。
単に知られたくないだけ。心配させたくないだけ。たった、それだけの我が儘。
「そう。……でも、無理はしないでね」
「……はい、ありがとうございます」
抵抗なく開いた先へ身体を滑り込ませた途端、鼻を擽ったのは古い紙の臭いだ。
薄暗い空間に目を凝らせば、まず等間隔に並んだ本棚が目に入る。それから通路を辿って横に逸れれば、閉めきられたカーテンの隙間から差し込む日光も。
この状態で誰かがいるとは考えにくく、遠慮無く息を吐き出す。耳が痛くなるほどの静寂に足音が混ざり、カーテンを寄せる音と共に光が満ちれば、ようやくその全貌が明らかとなった。
壁一面に嵌めこまれた本棚と、隙間無く詰められた様々な本たち。並べられている棚共々、その中身は整然と区分けされているものばかり。
端に点在する机と椅子は、読書用に設けられたものだ。他と比べても狭い部屋ではある。されど、少しでも顔を上げれば決して小さくないことには気付くだろう。
吹き抜けになっている部分は、ここから見ても三階分はある。その壁にも、そして置かれている棚にも、空白と呼ばれる空間は存在しない。
あまりにも膨大な量の書物に、初めて訪れた時は目眩を覚えたものだ。
こんなに沢山の本なんて一生かかっても読み切れない。だが、きっと自分が知りたい情報はここに必ずあるはずだと。
無差別に本を掴み、夢中でページを捲り、得られた情報に一喜一憂していたのは何歳までのことだったか。
圧巻される光景だ、この先も慣れることはないだろう。……もうほとんどの書物を読み終わった今でさえ、そうなのだから。
階段をのぼり、折り返して壁の隅へ。二階に置かれている本も、残すところこの棚だけになってしまった。
幼い頃に比べれば読める文字も増えてきたが、読み終える速度としては早いのか遅いのか。
比較する相手がいない現状も含め、答えが出ないことはディアンにとって心地いい。
指先で背表紙をなぞっていく。どうやら、ここの棚もあまり有名ではない精霊ばかりが集められているらしい。
そもそも大精霊の棚は入ってすぐの場所にある。
閲覧頻度が高いものを分かりやすい場所に置くのも、知名度の低い精霊の書物を届きにくい場所へしまうのも当然のこと。
最初の頃は、読んでいる途中の物が別の場所にしまわれていたりして探す方に時間がかかったが、今では滅多にそんなことは起きない。
今回も目印に置いた紙共々動いている気配はなく。広げたページも最後に見た箇所から変わっていない。
机に向かうことさえ惜しく、そのまま立ったまま文字を追いかける。話し声も聞こえない。外の喧騒も届かない。規則正しい自分の鼓動と呼吸。入ってくる文字だけが支配する世界。
この瞬間が、ディアンにとって一番落ち着く時間だった。
ここにはディアンをわらう者もいなければ、哀れむ者もいない。指さす者も、睨みつける者も、好き勝手に噂を流す者だっていない。
囁かれる全ては、受け入れなければならない評価だと分かっている。目を背けようとすればするほどに現実は容赦なく突き去り、より鋭く心を抉ってくるのだ。
誰よりも弱く、最も教養の無い男。どれだけ時間をかけようと彼が得られるものはなにもなく、全てが無駄。
それなのに騎士を目指しているという、救いようのない恥知らず。
何十回、何百回。きっと、何千回。
言われ、聞かされ、そうして囁かれていく評価。それを、悔しいと思わないわけがない。
努力はしている。誰よりもなんて豪語するつもりはないくとも、休まず剣を振り、教本を読み込み、問題を解いては答えを確かめ。悪いと判明したところは改善しているはずだ。
されど、その苦労が実ることはない。
まだ努力が足りない可能性もある。もっと真剣に、それこそ何も考えられないぐらい集中して取り込まなければ自分のものにできないのかもしれない。
……だが、それ以上に。きっと自分には向いていないのだろう。
そう考えることこそ逃げなのだろうか。適性ではない。自分では到底敵わない。だから、この評価も仕方のないことだと。言い訳をすれば、それで自分の気は楽になれる。
しかし、どれだけ適性がなくとも成功している者はいる。それこそ、血の滲むような努力と、途方もない時間をかけて。
それはディアンが考えている以上に苦しく、辛く。想像すらもできぬほどに、険しい道のりなのだ。
だから、向いていないことは言い訳にはならない。ならばもっと努力をすればいいのだと、父ならそう叱るであろう。
もっと剣を振り、知識を身につけ、そして……騎士にならなければ、ならないのだ。
騎士になり、姫付きの護衛騎士になる。たとえ本人がそれを望んでいなくても、それ以外にディアンが許された道はないのだから。
ならば、どうしてここにいるのか。
ここにあるのは、試験にも出ないような精霊の書物だけ。教会の者だって普段読むことがないからこそ、こんな高い位置にしまわれているのだ。成績のためなら読む価値はない。剣もなければ必要な教本だってないのに、誰が見ても無駄であると、そう分かっているのに。
……だが、誰でもない。ディアンにとっては、どうしても必要なことなのだ。
探し続けているのだ。誰にも教えてもらえず、自分で探すと決めたあの日から十年間、ずっと。
先ほど聞いた人形劇は、子ども向けに改ざんされたものだ。史実と違うところは多いし、あえて省略されたところもある。『精霊の花嫁』についてもそうだ。
基準は分からないが、何百年かに一度。確かに精霊が人間を伴侶とする例が過去に残っている。国の違いもないし、何か特別な特徴があるのでもない。
洗礼を受けるより前に指名されることこそ初めてでも、それ以外は前例がないわけではないのだ。
……だが、どうしても腑に落ちないことがある。
精霊が人間を迎えること自体ではない。花嫁を迎えるとする、その精霊が誰がわかっていないことが、だ。
息子だと判明している。と、どこから声が聞こえてきそうだが、そうではない。そもそも、その息子というのも人間の解釈と違っている。
オルフェン以外の精霊は、かの者の分身から造られたのがほとんどだ。大精霊以下なら精霊同士で番い、産まれた者もいるが……明確に彼の息子と呼べる存在はいない。
最初に造られた分身、炎の精霊デヴァスと、愛の精霊フィアナが解釈に近い存在ではある。しかし、炎の精霊は既に他の精霊と番っているし、愛の精霊はそもそも婚姻が認められていない。
多重婚が認められているのなら可能性はあるが、デヴァスは相当な愛妻家と知られているし、フィアナに関しては……その自身の特性に逆らわず、愛多き存在なのだ。
彼も愛したい、だが彼女も愛したい。今一番愛しているのは彼だから、今番っているあなたとは関係を解消して次はあなた。
……こんな具合に、一人に絞ることは彼女にとってはあまりにも辛すぎたのだ。
そう何度も婚姻を結び直されては困るので、唯一精霊の中でフィアナだけは婚姻が認められていない。初等科の試験にも出る、基本的な昔話だ。
一人は愛妻家、一人は結婚禁止令。では、英雄の娘を『花嫁』とする精霊は、一体誰なのか。
それこそが、ディアンがずっと調べ続けている疑問なのだ。
本来なら最初の洗礼の時に名を伺えるはずだが、当の精霊は加護だけを授けて名前まではお告げにならなかった。
名簿に記載されたのは確かに加護を授かった印だけでその名はなく、それはその場にいた全員が確認したことからも間違いない。
普通の人間は教会で洗礼を受けるが、花嫁は特別な存在故に、洗礼も秘密裏に行われたらしい。とはいえ、その場にいなかったディアンも知っているのは又聞きで得られた情報のみ。
現場にいたのは、国王陛下と今はもういない先代の司祭、それから『花嫁』と、その両親だけだ。
外部の目がないとはいえ、これだけの重鎮が揃っている中で偽ることはできない。
だから、加護は与えられているが名前を知らない……という、これもまた前例のない嫁入りとなってしまっているわけだ。
調べようにも、授かった本人に名を明かしていないのなら突き止めることはできないし、いくら花嫁に関係するとはいえ聖国に尋ねるほどではない。
もし姉や妹がいたなら事情は変わってくるが、かの英雄の娘は一人だけ。彼女以外に花嫁の候補がいないなら、精霊側になにか特別な事情があったのだと、話はそれで片付けられたのだ。
与えられた加護が強大であったことも『花嫁』として迎え入れられる未来を揺るぎないものにした。
だから、最初に洗礼を受けてから今に至るまで『花嫁』は大切に育てられてきたし、これからもそれは変わらないだろう。
では、次の洗礼……嫁入りまで、ずっとそのままでいいのか。
家に籠もり、お茶会に参加し、好きなことだけを好きなだけ。人間の世界にいる僅かな間、なんの不自由もない生活を送るのでいいのか。
少なくとも、ディアンはそう考えなかった。
たしかにわからなくても嫁げるだろう。元々望んだのは精霊側。理由はわからずとも、明かされなかった名を知る方法はない。
それでも、知らぬなりに努力はできるはずだ。 畑の精霊ならば農業について。音楽の精霊なら、演奏できるまではいかずとも教養を。鉱石、植物、気象。わからないからこそ浅く、広く、どれに対しても一定の知識を持っておくべきだ。
どの精霊かはわからない。だからこそ、どの精霊であってもいいように備えておくべきではないのかと。
途方もないことだ。幼少から通い詰めていたディアンでさえ、この書庫の全てを読み切ることができないほどに、精霊についての情報は多く、そして不鮮明な部分もある。
中には嘘も混ざっているし、信憑性の低い情報だって少なくはない。それでも、やはりなにも知らないままでいいはずがないのだ。
一般人が知れる情報なんてたかが知れている。今まで調べてきた中にその相手がいるのか、あるいは一般人では知ることさえ許されない存在なのか、その手がかりさえない。
それでも、調べ続けなければならない。たとえあと二年しかなくとも、周りの誰もその必要性を説かないとしても。
……『花嫁』自身に、その意思がないとしたって。
彼だけでも、ディアンだけでも調べなければならないのだ。
そうでなければ、『花嫁』は、
「――今日も熱心だね」
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