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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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76.エヴドマ教会

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 幸いにも、教会との距離はそう遠くはなかった。

 全力疾走を強いられ、足よりも肺が限界を訴えている。

 王都に居た頃に比べて鍛錬していないといえ、怠けているつもりもなかったが、前屈にならなければ苦しいほどに追い込まれるとは。

 それがディアン自身だけでなく、単に空気が薄いせいもあると至る余裕はなく。目的地を改めて見上げる気力もない。

 やっと確かめた外見は、当たり前だが王都にあるものより薄汚れている。

 規模も小さく、窓も普通の民家と変わらない。屋根に取り付けた紋章がなければ教会とは思わなかっただろう。

 荒々しく辿り着いたが、扉の開閉こそ静かだ。

 蝶番が軋み、開いた先には板張りの床。絨毯も大理石もそこにはない。

 剥き出しの木目に等間隔に並べられた机。……その隙間から、はみ出ている頭部。

 やはりベッドは埋まっているのか、なんて思わないのはその数が多すぎるからだ。

 ぱっと見ただけでも、ほとんどの椅子に人が横たわっていることを知る。床に座っている人数だって少なくはない。

 その誰もが身体の一部に包帯を巻いていたり、顔をしかめていたり。不調であることは、どう見ても明らか。


「っ……これ、は……?」

「……あぁ、旅の御方ですね……」


 思わずディアンが呟けば、奥の方から見慣れた姿が出てくる。

 青を基調としたシスター服だが、所々ひどく汚れている。皺やよれも多く、頭を多うフードからは髪が何本も飛び出している。

 その表情は青白く、疲れ切っているのは明らか。足取りも危うく、一度転べばそのまま起き上がりそうにないだろう。


「どこか、お怪我は……っ……」


 不安を抱くと同時に、その足が揺れる。咄嗟に支えた身体は、女性であることを含めてもあまりに軽い。


「す、すみません……大丈夫、少し休めば……」


 そうは言うが、とても言葉通りには受け止められない。顔なんて青を通り越して真っ白だ。隈こそないが、少し休んだ程度で楽になるとは到底思えない。


「……欠乏症だな。シアン、俺のボトルを出してくれ」


 流れるようにエルドの手に渡った彼女が、羽のように軽く持ち上げられる。横抱きのまま向かったのは、扉から離れた壁。

 まずは言われたとおりの物を取り出し、屈んだ二人の元へ小走りで向かう。

 欠乏症。この状況下で考えられる対象は魔力だ。

 一時的に魔力が枯渇する分に関しては、少し休めば問題はない。

 それが長期間、回復も追いつかぬほどに使用していると、貧血に似た症状に襲われるらしい。

 目眩、吐き気、倦怠感。対処せずとも命に別状はないが、身体には相当の負担がかかっている。放置していい状態ではない。

 ボトルを捻り、蓋の内側に注がれる量は一口にも満たない。中身は……ディアンが何度か口にした、あの苦い液体。


「苦いが、吐き出さずに飲み込め。話はそれからだ」


 唇に添え、そっと流し込むや否や彼女の眉が寄せられる。ぐ、と喉から異音が聞こえ、咄嗟に口を押さえても吐き出すのは堪えたようだ。


「っは……あぁ……助かりました……到着は明日と聞いていたのに、もう来てくださったなんて……」


 来訪が分かっていた、ということは連絡がいっていた可能性が高い。

 教会が目的ではないと言っていたが、やはり仕事の一環でもあったのか。先日の町でも立ち寄っていたし、そこで伝えていても不思議ではない。

 だが、それにしては彼女の反応はあまりにも大きく。待ちわびていた存在がようやく来たような、そんな泣きそうな顔になっている。

 違うと確信したのは、エルドの表情を見てからだ。心当たりはないと、その寄せた眉がそう語っている。


「他の応援の方は……? 騎士団の方は、外にいらっしゃるのですか……?」

「……悪いが、別の事情で来た」


 取り出したメダルに注ぎ込まれる魔力。紋が浮かび、それから綴られていく文字に見開かれる瞳。


「あ……あなた様が……!」

「しー……俺はそれを望まない。どうか安静に」


 慌て、変えようとした体勢は最上者に向ける礼であろう。エルドが肩を押さえ、止めなければ人目も気にせずそうしていたに違いない。

 身体は止められても、目の動きは止められない。震える瞳が彼を見上げ、それからディアンの方にも。


「……こちらの、方が、」

「司祭はどこに?」

「っ……あ、あそこで、休まれています……私よりも消耗が激しく、会話は困難かと……」

「分かった。シアン、さっきと同じ量を司祭に。起こしても構わないから早く飲ませてやれ」


 一体、ディアンは彼らにどう説明されているのか。

 自然に話をすり替えられ、確かめることはできず。優先順位は明らかだと、小走りで向かうは視線で示された神像の根元。

 王都のより……いや、なんなら先日の町で見たものより小さい。

 子どもの身長ほどしかないその像は、壁の窪みに収まる形で祀られていた。

 その壁にもたれかかる男の顔は、確かにシスターのものよりも白い。この距離まで近づかなければ、死んでいるのではと思ったほどに。

 本来ならディアンが入ってはならない領域だ。だが、今は緊急事態なので許してほしいと一歩踏み出せば、足音に気付いた司祭が顔を上げる。


「たび、の……方……? うっ……」

「……エルド、様から。これをあなたに飲ませるようにと」


 無理に起き上がろうとする男を制し、エルドに倣って蓋の内側に液体を入れる。様子を見るに同じ量では足りないように見えるが、素人判断で与えていいものではない。

 指示通り、一口より足りない量を。唇に添える前に忠告も忘れず。


「とても苦いものですが、吐き出さずに飲んでください」

「んぐ……!」


 反応はディアン寄り。だが、シスターと同じく吐き出すこともむせることもなく、嚥下した後の顔色は、心なしか良くなっているように見える。


「これ、は……なぜ、あなたが……?」

「その……すみません、僕はこの中身を知らなくて……。エルド様が持っていたとしか」


 名前を伝えても、祭司の表情に変わりはない。シスターの反応を見るに、重役であるのは間違いないが、名前では知られていないのか。

 そうなると、伝わっているのはメダルに書かれた古代語。ディアンが読み取れなかった、あの一文。


「あの、身分証を見れば多分わかると思います。正式な役名は僕も知らず……あ、白い犬と一緒にいる方に心当たりは?」


 厳密に言えば犬ではないが、魔力が枯渇しているときに無駄に頭を使わせたくはない。よりわかりやすいたとえで伝えれば、ようやく表情に変化が。


「あっちの、今シスターと話をしている、」

「あぁ……! では、あなた様が候補者様なのですね……!」


 だが、示されたのはエルドではなく、ディアンの方だ。

 まだ意識が朦朧としているのだろう。話も半分しか入っていない。だが、この状態では仕方のないこと。

 違うと否定したかった言葉が、口の中で消える。聞き覚えのない言葉だ。……それが、エルドの役職、なのだろうか。

 いや、記憶が正しければもっと短かったはず。そして、一文の中には「ちゅ」の字が含まれていた。候補者では掠りもしていない。

 きっと何かと勘違いしているのか。……あるいは、


「いえ、僕ではなくあっちの……」


 指差し示した扉の横。その手が止まったのは、その扉が勢い良く開かれたからだ。


「祭司様!」


 入るなり響く大声に、休んでいた者たちが起き上がる。

 慌てて起きたのだろうが、動きが鈍いのは疲れと痛みのせいか。まるで屍が無理矢理動かされているような惨状。

 それに動揺したのはディアンだけではなく、入ってきた男……否、男たちも。

 見覚えがあるその姿は、ほんの十数分前に出会ったあの青年たちだ。数が増えているのは、その背に誰かを担いでいるから。

 距離があるので正確にはわからないが、抱えられているのは見覚えの無い老人。年は七十を超えているだろう。

 下ろされるなり、広がるのは赤と鉄の香り。命の源は瞬く間に床に染みこみ、その傷の深さをそれだけで理解させられる。


「親父が、魔物に襲われて! 早く治療しないと死んじまう!」

「これは……ぐっ……!」


 咄嗟に支えたものの、ほとんどをディアンに預けた身体はとても歩けはしない。

 先にシスターが駆け寄り、傷の状態を確認する。裂いた服の下、点在する複数の点は獣の噛み痕だろう。一部の皮膚が裂け、肉を千切られかけていたのは明らか。


「なにこれ……どうなってんの……」


 その呟きは運ばれた男の状態ではなく、この光景に対してだろう。呻き声がその疑問に答えるわけもなく、ましてや老人を助けることもない。


「応急処置をしたんですが、私の力じゃ血が止まらなくて……!」


 ミルル、と呼ばれていた少女が泣きながら治療を施すが、傷が深すぎて追いつかないようだ。シスターと二人がかりでも、吹き出る血が止まる様子はない。


「親父っ、しっかりしろ親父!」

「早く治療を……っぐ……!」


 もう一度、立ち上がろうとした身体はろくに膝を伸ばすこともままならず。治療に参加できる状態でないのは、誰の目にも明らか。


「いけません、それ以上の酷使は、」

「ですが、彼が死んでしまう……っ……!」


 手を振り払い、膝を立て、前に進もうとする姿を止めたくはない。だが、今の状態ではろくな治療もできずに共倒れだ。

 治療なら僕もできると、そう叫びたかったのは虚勢ではない。

 威力は劣るが、無いよりマシだ。魔力の枯渇しかけた相手に無理をさせるよりは、いくらか役に立てると。

 だから大丈夫だと、そう言いたかったのは本当に嘘ではなく――ただ、強い光に網膜を焼かれたからで。

 あまりの眩しさに目を細める。だが、痛みはない。ただただ溢れんばかりの光が、この部屋を余すことなく照らしている。

 どよめきが広がり、呻き声も。唯一静かになるのは、短く繰り返されていた呼吸だけ。

 指の隙間から見えたのは、老人の隣に座る彼の、エルドの姿で。

 ゆっくりと光がおさまっていく。残ったのは瞳の奥に刻まれた残像と、状況が飲み込めずに動揺する人々の声。

 差しだした手が元の位置に戻れば、痛々しい傷跡はもうどこにもなく。破かれた服に付着した赤だけが、そうであった事実を残している。


「あ……あんた……」


 老人を父と呼んだ青年が、エルドを呆然と見つめている。なにが起きたか理解できていないのだろう。

 ……正直、ディアンだってここまでの実力者とは思ってもいなかった。

 先ほどの食堂の件といい、今の治療といい。彼は……本当に、何者なのか。


「ひとまずはこれで大丈夫だ。とはいえ、失った血が多すぎる。暫くは安静に」


 立ち上がろうとするより先に、扉の外から鳴き声が一つ。それからひとりでに開いた扉から入り込んだ白い影は、迷うことなくエルドのそばへ。

 魔物かと動揺する周囲も気にせず、くわえていたなにかの草はエルドの手元に。そして、エルドの元から、老人の手元へ。


「奥方のために、これを取りに行ってたんだろう? ……危ないことをする」

「……あ、ああ……」


 咎められた老人が一つ呻く。

 ……否、それは呻きではなく、ましてや同意でもなく。心の底から溢れた言葉だ。

 細い目が開かれ、滲む涙が皺を濡らす。言葉の出ない唇は何度も開閉し、代わりに伸ばされた手は大きく震えて定まらず。

 それを見つめる薄紫は柔らかく歪み、差しだした手が迎える力は強く、温かく。


「あなたさま、なのですね」

「……覚えていて、くれたのか」


 驚きは、知り合いだった事実ではなく、その呟かれた言葉に対して。

 忘れられていると、もう覚えていないと。そう信じていたからこその声色に、老人は何度も頷く。


「忘れてなど。ああ、忘れるはずがございません……まさか、再びお目にかかれるとは……!」

「……興奮すると身体に障る。奥方は私が診よう。今は少しでも休みなさい」


 語りかける声は柔らかく、たとえとしては不適切なはずなのに、まるで親が子に諭すような印象を与えられる。

 何度も繰り返される感謝の言葉をもう一度手を握ることでおさめ、立ち上がったエルドがディアンの姿を捉える。

 絡んだ視線。そこに込められたのは安堵でも戸惑いでもなく、一体なんだったのか。


「あんた、一体……」


 興奮する己の父の様子に、いよいよ青年が問いかける。エルドの口から笑みは消え、代わりに携えるは紫の強い光。


「――女王陛下の代行者として、今からここにいる全員の治療を行う」


 静寂に響く声は、決して大きくはなく。だが、誰もがその声を。意思を、鼓膜に焼きつけられる。

 有無を言わさぬ威圧感。抵抗しようとも思えぬ程に、その光は強く、強く。


「シアン」


 一度瞬き、向けられた色は柔らかく。本当に同じかと疑う程に、温かく。


「……お前は、そこで司祭が暴走しないように見張っててくれ」


 そして、いつもと同じ調子で投げられた冗談に、強張っていた手から力は抜けていった。



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