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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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70.曇りのちに暗雲

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 さて、大丈夫と言われたものの警戒するなと言うのは無理な話。

 身を隠せるような物陰はなくとも、奇襲をかけられるかもと周囲を気にしながら進むこと早数十分。まだまだ山頂は遠く、景色は少し遠くなった下界が見える程度。

 あの辺りが通ってきた道で、となると川の上流はあのあたりで。

 地図で見るのとは違う、実際の光景に少し感動しながらだったが……結論を言えば、今のところなんの危険にも冒されていない。

 もちろん罠や奇襲には備えているが、エルドの様子はなんら変わらず。彼が反応するまでは、そうビクビクせずともいいのかと開き直ったのもある。

 空気はおいしく、緑こそ少ないが花も咲いている。

 見慣れない植物に記憶を引っ張り出し、時折エルドの解説を聞きながら……と。本当に、普段と変わらぬ感じだ。

 急な斜面は少々足に堪えるが、それでも整備されているだけマシ。

 看板に従って進むかぎり横道に逸れることはないだろう。誤って進んだが最後、それこそ魔物の巣窟に紛れ込む可能性もある。

 魔物の気配も、待ち伏せされるような場所も今のところなく。

 考えすぎだったのかとディアンが思い始めた時、ふとエルドの足が止まる。


「……どうしたんですか?」


 二股に分かれた道。その中央に、すっかり見慣れた看板が一つ。

 左は坂で、右は平坦。街を指す方角は左だ。山頂にあるという話だから、看板がなくてもなんとなく察しはつくだろう。

 なんの変哲もない表記。迷う事のない道。だが、エルドの足が進むのはどちらでもなく正面の看板へ。

 後ろを見て、根元を見て。それからもう一度表を見る間、返答はない。


「シアン」


 なにか引っ掛かることがあるのだろうと、大人しく待っていれば不意に名前を呼ばれ僅かに心臓が跳ねる。

 名前は名前だが、偽名の方だ。二人きりの時は基本呼ばないその名に、疑問よりも先に答えが浮かぶ。

 続く言葉はなく、進み出したエルドの後に続く。選んだ道は右。町ではないと示された方向へ。

 わざわざ偽名で呼ばれた。それは、誰かに聞かれている可能性があるということだ。

 喋ってはいけないとは言われていないが、確証が持てない以上、直接問いかけるのも憚られる。

 相手に気付かれないよう。かつ、彼だけに言葉が通じる方法……。


「……エナティオ、ドロモス、ランタスメイノス……?」

「――ぶはっ……!」


 突然蹲ったかと思えば吹き出され、ひぃひぃと笑う姿に驚いたのも数秒だけ。

 その反応がなにに対してか理解すれば、みるみるうちにディアンの顔が赤くなっていく。


「わっ、笑わないでください!」

「ちょ……ちょと、まて、まだおさまらん……!」


 人目を気にせずにすんだなら、きっと大爆笑だったに違いない。堪えすぎてプルプルと震える肩を、いつまで突かずにいられるか。

 確かに古代語の翻訳に自信はないし、それの発言なんてもっとだ。伝わるかすら危なかったが、だからといってこんなに笑うこともないだろう!

 文法もなにもない、単語だけの発音は確かに聞き苦しかったかもしれないが……それでもだ!

 ちなみに、今の言葉の意味は右、反対、違う、だ。確かに片言にもほどがあるが、この笑い様は度を超えている。


「はー……いや、警戒してたもんな、間違ってない。でもふ、不意打ちで、それは、」


 落ち着いたかと思えばぶり返され、クツクツと揺れる音のなんと不快なことか。

 耳を塞いでも事実は消えず、笑いすぎたエルドよりも自分の耳の方が赤い自信しかない。


「笑うか慰めるかどっちかにしてください!」

「はーっ……はーっ……あー、落ち着いた。悪い悪い、お前なりに頑張ってくれたんだもんな」


 見上げる紫は、まるで幼児の演技を見るかのようなそれ。つい視線が鋭くなるのも仕方のないこと。

 普段、彼がこんなに自分を馬鹿にすることはない。今だってその意図はないのだろう。

 だからこそ、素で返される全てが恥ずかしくて、唸りたいのを必死に堪える。

 こんなことなら余計な気をまわさず、最初から小声で話しかけるべきだった!


「ふー……アフトゥシノトゥロス」

「……えっ、なんて?」


 また形ばかりの謝罪かと、半ば聞き流していたせいで翻訳できなかったのは悪くないだろう。

 というより、あんなに笑った後では古代語で返される意味もないように思うのだが。それもディアンの稚拙な発音に対する嫌がらせかなにかか。


「こっちであってる、って言ったんだ。あのまま従ってたら行き止まりだったぞ」


 ようやく……ようやく、落ち着ききったエルドが立ち上がり、視線は見上げる形に戻る。その目蓋はまだ緩んだままだが、嵌められた瞳の色はその通りではない。

 何度か来て、道を覚えているからこそ気付けた誤り。矢印で示す形状ならともかく、一枚板のそれが間違えているなんて誰が思うだろうか。

 それが間違えているのではなく、故意に表記されているなんて、なおのこと。


「……ちなみに、行き止まりは?」

「獣道で進めなくなってるだけだが、そういうところは魔術の効果も薄くなっている。近づくべきじゃないな」


 つまり、違うと引き返した時には囲まれて手遅れになっている可能性もある……ということだろう。

 わざわざそんな場所に誘導する理由なんて、悪い方しか考えられない。


「……遺品狙い、ですか」

「そうとは限らんが……まぁ、この後分かるだろうな」


 そこで、エルドの顔が逸れる。相手がいるのかと身構え、同じように見やった先に見えた白に肩の力を抜く。

 軽快に坂道を下りてくるゼニスを向かえ、その毛皮を撫でるのは怪我をしていないかの確認も含めて。

 目立つ汚れもなく、痛がっている様子もない。……気になるのは、撫でた際に広がるなにかの匂いだけ。

 わふ、と鳴かれて、初めて口になにかくわえていた事に気付く。差しだした手で受け取ったのは、丁度手のひらサイズの箱のような物。

 素材は鉄か、それ以外の鉱石か。中が開くようには見えず、振っても聞こえる音はない。

 違和感と言えば、その温度か。完全に口の中に入れてなかったとはいえ、あまりに冷たすぎる。特殊な素材で作られているとして、結局これはなんなのか。


「これは?」

「あぁ、魔物除けの魔法具だな。……本来は」


 指先から取られたそれが、エルドの手によって呆気なく開けられる。開いたのかという驚きと、そんな物を持ってきてよかったのかという戸惑い。

 付け足された言葉は、明らかに意味を含んでいる。


「ここに原動力として魔石を仕込むんだが……盗られてるうえに、中身は別物にすり替えられている」


 ほら、と見せられた中は小さな空洞になっていた。

 内側に刻まれた魔術と、その文字に入り込んでいる砂のようなもの。立ち昇る匂いは、先ほどゼニスから漂ったものと同じ。


「このサイズの魔石なんて、売ったところで……それに、魔物除けから盗るなんてそれこそ」

「塵も積もればって言うし、目的は金じゃなくてそっちだろうな。何回かこじ開けた形跡があるし、定期的に香を継ぎ足してるんだろ」

「……魔物除けの道具に、魔物寄せを仕込みますか、普通」


 思わず顔をしかめる。こんなの誰も調べようとは思わない。

 それだけ触れてはならないものだし、安全であるべきものだ。山に潜む賊でさえ、これには手を出さない。

 なのに、その中身がすり替えられているなんて。

 今回だって、ゼニスでなければ気付けたかどうか。いや、開けられた形跡があるのに気付いたエルドもいてこそだ。

 ディアンでは絶対にわからなかっただろうし、調べもしなかった。

 それだけの信頼を、人々はその魔法具においている。正当な理由なしに手をくわえるのは、それこそ重罪。


「でも、魔物除けの魔法具って、もっと大きいものでは?」


 だからこそ、ちょっとやそっとじゃ手が出せないように、外からは厳重に鍵がかけられているし、外見もある程度統一されている。

 これでは素人では分からないし、実際ディアンだってそうとは思わなかったのだ。

 それで触った盗んだと咎められるのは、正直腑に落ちない。


「斜面も多いし、複雑な地形だと箱状で置く方が主流だ。で、これはそこから取り出した一部ってわけだ」


 みるみるうちに氷で包まれていくそれが白く変色し、取り出した袋の中へと消えていく。……本当に、多才すぎる男だ。


「効果はこれで消えたから、持ち歩いても問題はない。……引き続き頼むぞ」


 聞くなり駆けだした足はあまりに速く、一度瞬けばもう姿は見えない。先にゼニスが行って魔物を払うと共に、細工が施された魔法具を回収する。

 ただの獣にしては本当に知能が高すぎるが、それもすっかり慣れてしまった。

 彼のおかげで魔物に関しては心配せずにすむだろう。そして、肝心の道はエルドが知っている。

 あとは、奇襲がないことを祈るばかり。


「さて、シアン」

「はい」

「さっきの発音だが、正しくは――だな」

「……はい?」


 改めて名を呼ばれ、身構え、聞き取れなかった発音に疑問符が飛び交う。

 さっきの発音、というのは片言で喋ったあれだろう。それは間違いないが……流暢すぎて聞き取れないなんてあり得るのか。


「エナンティオ」

「えなんてぃお」

「ドロモス」

「ドロモス」

「ランテャシメノス」

「らんてぃや……?」


 ゆっくり繰り返してくれるが、それでもわからないし言えそうにない。

 ランタ? テ? ティ? 発音が独特すぎてどう発言しているのかもわからない!


「ここと、ここ。この単語はあってるが、こっちの発音が違う」


 サラサラと書かれる魔法文字に丸が付けられていく。単語自体は合っていたのはよかったのか、指摘されるならやはりダメだったのか。


「ちなみに、単語ならそれで合っているが文法として使うならさらに異なる」

「……古代語は、そこまでやってませんでしたので……」


 更に入れ替えられ、変わっていく文字から顔を逸らす。

 ゼニスを撫でるときにしゃがんでいてよかった。少し顔を俯かせたぐらい、エルドには見えていないだろう。

 言い訳がましい。これも自分の努力が足りなかったからだと恥じた顔は見られずとも、知識がないことはもう露見している。

 グラナート司祭からも多少習ったが、教会で学びたかったのは精霊のことの方が多く……そこまで必要にかられていなかった。

 古い記述を読む時ぐらいしか使わなかったし、それよりも妹の相手を見つける方が必死だったからだ。

 結局、自分では見つけられなかったし、今だって見当もついていない。わかるのは、二度目の洗礼を迎える時になるのだろう。

 ……その頃、自分はどうしているか。全くわからないけれど。


「シアン」


 影が消え、光が差す。否、それまで遮っていた影が、同じようにしゃがんだのだ。

 前を向けば、男の瞳がディアンを見る。その眼差しは柔らかく……そして、温かく。


「そもそも、古代語なんて読めるだけで凄いんだ。喋るなんてもっとな。……笑って悪かった」


 落ち込んだように見えたのだろうか。馬鹿にされて嫌な思いをしたと思ったのか。

 最初からそうではないと分かっている。ただ恥ずかしかっただけで、少しひどいとは思ったし謝ってほしいとも思ったが……いざ、真剣に謝られると少し戸惑う。

 それは、彼に悪意がないと知っているからこそ。そうだと、彼を信用しているからこそ。


「ただ、あんまりにも発音が可愛すぎて……」

「かわっ……!?」


 ……と、いい感じで締めくくろうとしたところで、信じられない感想に声を荒げる。


「あれは三歳児ぐらいの発音だったな。な、もう一回、違うって古代語で言ってみてくれ」

「言いません!」

「ほら、ランタス?」

「エルドッ!」


 もう耐えられないと叫び、俯きフードを限界まで引っ張る。布が伸びようが構わない。ああもう、本当に恥ずかしい!

 手が自由なら、クツクツと漏れる声だって塞ぐことができたのに!

 丸みが強調された頭を撫でる手を払うことも、笑う男の口を閉ざすことも、小さく唸る口を押さえることだって、できないまま。


「――可愛いな」


 ほつり、呟かれた言葉は同じ。されど、その響きは胸の中へと落ちていく。

 波紋の広がった心臓がド、と異音を立て。動悸に戸惑う間、ゆるりと撫でられる髪の感触に、フードが取られたことを知る。


「本当に、可愛い」


 繰り返される言葉も、その声も、ディアンを翻弄するのに十分すぎるもの。

 濁流のように押し寄せる血液により、鼓動は激しく、耐えがたく。

 じわり、滲む汗は再び被せられたフードのせいなのか。耳にこびり付く甘い響きのせいなのか。


「ほら、そろそろ行かないとご馳走にありつけねぇぞ」


 伸ばされた手に腕を取られ、自然と身体が立ち上がる。

 その温度さえも熱く、顔の熱はこもり続けたまま。


「……それで? ご馳走って、なんですか」


 なにか話題をと、探した逃げ道は結局ご褒美のことで。笑う声に顔は下を向いたまま。


「それなら、あそこにいるな」

「え?」


 視線と指の先、辿った先に一つの影。

 僅かに生えた草を貪っている……角の曲がった、一匹の獣。


「……やぎ?」


 思わず呟いてしまった声に横長の瞳孔はパチリと瞬き。そうして、かの存在は同意するかのようにメェと鳴いた。

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