68.エヴドマの道中
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「見えてきたな」
そうエルドが呟いたのは、魚を丸ごと胃に収めてしばらく経ってのことだった。
早めの昼食だったので日はまだ真上にも差し掛かっておらず、次の町に着くのは遅くても夕方という見通しだったはず。
もう見える位置に来たのかと、改めて前を確認してもそれらしき建物は視界に入らず。
目を細めてみるが、煙もなければ屋根もなく。ましてや人影など全く。整備された道と、ただっ広い草原と、かなり奥に見えている景色だけ。
剥き出しになった岩肌に、僅かに見えている緑。盛り上がった陸地が連なったそれは、山岳というのだろうか。
頭に浮かべた地図に当て嵌めると、相当西へ来たらしい。一週間も歩いていればそうなのだが、いざこうして突きつけられると少し感慨深いものがある。
感傷に浸るのも程ほどにし、目の前を見直す。
道、草、山。他に得られる情報は一切ない。清々しいまでにのどかな風景だ。
いや、町だと早合点したのはディアンだ。道中にあるなにかに反応したのかもしれない……と言いたいが、やはり見えるものはなにもなく。
首を傾げずとも疑問符は頭を埋め尽くし、あれやこれやと浮かぶ候補はどれもしっくりとこないまま。
「あれがエヴァドマ山岳だ。授業で習っただろ?」
指し示したのは、まさしく目の前にあるあの山々だ。
確かに習ったし、だからこそディアンも今の位置を大まかではあるが把握もしている……が、その響きに馴染みはない。
「習いましたけど、エヴドマでは?」
「ん? ……ああ、そうか。今はそうだったな」
本当に忘れていたと頭を掻く姿は、ディアンを試したものではないらしい。
少なくともディアンが習った時には既にその名称だったが、以前はそう呼ばれていたのだろうか。
「最初の頃はエヴァドマって呼ばれてたんだよ。……意味は分かるか?」
「……古代語で、一週間?」
「そう、さすがだな。今でこそ道が整備されて一日で通れるようになったが、人の手が入る前は通り越すのに一週間近くかかった。名前の由来はそこからだ」
話しながらも足は止まらず、聞き漏らさないようにと自然と距離は近くなる。
こうしてエルドの知識を聞くことも、楽しみの一つになったのは早い段階からだったように思う。
地名や場所だけでなく、古代語や精霊に至るまで。その知識はあまりに豊富で飽きることがない。
普段の様子ではあまりそうと思えないが……時折見せる姿は、やはり教会の従事者だと実感させられる。
本来なら女王のそばにいるべき相手だ。こうして聞けるのも旅の間だけだろう。豆知識程度であっても、貴重な話には違いない。
「魔物もいたが、さすがに一週間ぶっ続けで歩けないからな。少し開けた場所に魔物除けを施して、山を越える者たちはそこで一晩明かした。いつしか山頂に近いところに人が住み着き、やがて一つの町になり……と。その住民たちが言いやすく縮めた名が広まって、今はエヴドマの町って呼ばれているわけだ」
「へぇ……さすが、詳しいんですね」
「町につきゃ、親切なご老人たちが聞かせてくれるからな。教会に関係なく覚える話だ」
そうは言っているが、ここまで詳しく話してくれるかは別だ。大半は名前の由来なんて気にもとめないだろう。
聞けてよかったという気持ちと、話題に上ったことで浮かぶ可能性に滲むは嫌な予感。
「……僕たちの次の目的地って」
「おう、あれだな」
再び、指が前を示す。正確にはちょっと上、山頂付近の……多分、あのあたり。
言われてみれば、岩肌とは違うような色が見えなくもないが、裸眼ではどうも識別できそうにない。
ゼニスには見えているのか。見えていても落ち込んだ様子がないのは、あの程度彼にとって苦ではないからなのか。
「登る前から疲れたか?」
思わず出てしまった溜め息も、エルドには想定の範囲だろう。登山初心者には少々堪える道のりになりそうだ。
鍛錬にはいいかもしれないが……少し、心が折れそうになったのも事実。
「……一週間もかかりませんよね?」
だからこそ、知っているはずの答えを改めて聞くのは許してもらいたいと。横目でうかがう顔は笑ったまま。
「安心しろ、迷わなけりゃ夕方にはちゃんと着く。さすがに、俺もあそこでの野宿は避けたいからな」
だろう、と。同意を求められたゼニスも、吠えずとも気持ちは同じらしい。寝心地が悪い、なんて理由ではないのは確かだ。
「……魔物の関係ですか?」
「ああ、一応魔物除けも施されちゃいるが……なんせ隠れ場所も数も多いからな。順路さえ外れなければ大丈夫とはいえ、無防備に眠れるほど安全じゃない」
高低差も激しく、所々険しい崖もある。人が進めないそここそが、魔物の格好の隠れ場所となる。
昔より被害は減ったと聞いたが、それでも平地に比べて危険なのは間違いない。
それに、魔物だけでなく山賊の類だっているだろう。崖下に落とせば死体の処理だって楽だし、自分たちの存在を知られることもない。
……正直、本当に通らなければならないのかと、別の意味で心が折れそうになる。
「ああ、一応迂回もできるぞ。ただし、そっちは本当に一週間かかる」
「えぇ……」
「そっちも魔物が多いし盗賊も出るし、なによりご褒美が待ってない」
「ご褒美?」
「名物料理があるんだよ。美味いぞ~」
思わず繰り返した単語に、ますます笑みは深くなる。これで納得すると自分が食べ物につられたことになってしまう。
「景色よし、料理よしだ。まぁ、どっちにしろ用事があるから諦めて登れ」
「……あそこにも教会があるんですか?」
「当たり前だろ? 人が住んでるなら教会もある」
言われれば確かにそうだ。人がいるならどんな寂れた村にだって存在しているのだ。たとえ山頂付近であろうと、その定義は変わらない。
正直、自分では配属されたいとは思わないが、そこは人によって違うのだろうか。
一度登りきってしまえばしばらく下りる必要もないだろうし。いや、そもそも専用の馬車があったのだったか。
……馬車が通れるような道なら歩くのもそう苦労せずにすみそうだが、おそらく期待はできない。
「用事ってのはそっちじゃなくて、単に知り合いの様子を見に行くだけだ」
「友人ですか?」
知り合いがいるとは意外だった。いや、彼ほどの地位にいるなら、あんな高所にも一人や二人いるだろう。
わざわざ会いに行くぐらいだ、旧友なのかもしれない。
「……いや」
もしかしたら配属されている司祭様がそうなのかと尋ねたそれは、短く否定される。
たった二言。だが、細められた目も、その響きも、そのまま流すには引っ掛かるもの。
「そこまで親しいわけじゃないし、向こうは俺のことなんて忘れてる。……ただ、俺が気になるだけだ」
「……そう、ですか」
エルドの言う通り、その相手は知り合いの枠から出ていないのだろう。この言い分では、その範囲にすら入っていないのかもしれない。
だが、わざわざ見に行く程度には気がかりな相手。それは関係が浅くとも、彼にとっては大切な相手なのだろう。
なにより、そう語る声は柔らかく……とても優しいものだったから。
予想はつかないし、ディアンが思っているような相手ではないかもしれない。
どちらにせよ、それ以上聞き出すことは憚られ、無難な返事はエルドにどう聞こえたのか。
「ほら、夕方までにつけば食えるから頑張れ」
肩を叩かれ、笑う顔からは読み取れず。この話はここで終わりだと示されれば、次にするべきことは一つ。
……あの山を、これから、昇る。
「……食べられなくても歩きますから、食べ物で釣ろうとしないでください」
「ご褒美があったほうがやる気も出るだろ。そもそも立ち寄る理由の九割はそっちだからな」
姿も顔も知らぬ知り合いに対するあの表情はなんだったのか。本気か冗談か、区別もつかずに溜め息を一つ。
「……ちなみに、ご馳走って?」
「そりゃあ、着いてからのお楽しみだ」
つられたわけではないと言い訳しつつも問えば、ニヤリと笑う顔が少し憎かった。
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