04.殿下
「メリアは元気にしているかしら? 最近会えていないから心配で……」
夢中で掴んだのだろう。腕に食い込む指は案外強く、問われた内容を聞き流しそうになった。
わざわざ引き留めてまで聞くことではない。だが、手紙を出してまで問うことでもない。
ディアンにとってこの時間がいかに苦痛でも、サリアナにとっては昔と変わらぬ他愛もない会話なのだ。
従者にどのような視線を向けられていようと、それは彼女が悪いのではなく……やはり、ディアンが悪いのだろう。
誰に聞いても誰が見ても、いつだって、そうだったから。
「…………はい、元気にしております。姫様が気にかけていたと知れば、妹も喜ぶでしょう」
真偽は問わない。実際に妹がどう反応するかは、この場では関係ない。
求められているのはいかに会話を切り上げ、そうしてこの場から去るかだ。
「そうだわ、今度お茶会をしましょう! 先日中庭の手入れが終わったの。きっとメリアも気に入るわ! ディアンも一緒に来て!」
だが、彼女はそんなディアンの心境を汲むことはない。
幼い頃、何度か訪れた記憶がある中庭は王家の名に恥じない立派なものだった。
記憶こそ薄れているし、興味もそうなかったが……今なら、その素晴らしさを半分は理解できるだろう。
妹も花は気に入っていたはずだ。呼ばれたなら、喜んで招待に応じるだろう。
「……それは……」
「ペルデも呼んで皆でゆっくり話しましょう? ね?」
もう一人の幼なじみの名を挙げ、姫は笑う。
それはとても素敵なことだろう。気の知れた友人に囲まれ、楽しくお茶をし、話をする。
ペルデ……彼も、おそらく断らないはずだ。姿こそ毎日見かけているが、この学園に入ってからは話すこともほとんどなかった。
良い機会ではあるのだろう。幼なじみ同士で集まり、話をする。身分の差を越え、かつてのように。
……だが、首を縦に振ることはできない。
「姫様、」
「どうしたのディアン?」
腕に込められる力が僅かに強くなる。いや、そう思っただけだ。その指の強さは先ほどとなにも変わっていないはず。
頷くのは簡単だ。楽しみです、是非ご一緒に。それだけでいい。断ってはならない。断れば、咎められるのはまた、自分なのだ。
だから、今だけ。頷き、笑い、この場を凌げばいい。
それだけでいい、はずなのに。
「……お気持ちは、ありがたく。ですが、」
「それはいい、俺もメリア嬢には会いたいと思っていたんだ」
柔らかな声色。だが、そこに仕込まれた棘は隠すことなくディアンに突き刺さる。
複数の足跡は真っ直ぐ二人の元へ。そうして、鋭い視線は未だ掴まれたままの腕へと向けられる。
「ペルデを呼ぶのもいいだろう。……だが、そこの『加護無し』が来ることだけは許さない」
「……お兄様」
最終的に、怒りの滲んだ青はディアンへと向けられた。
サリアナが宝石であるなら、彼の瞳は深海だ。二人とも王族の特徴を引き継いでいるのにここまで差が出るのかと、そう考えたのは現実逃避だったのか。
寄せられた眉間は、模擬戦の後よりもずっと深く、このまま刻み込まれるのではないかと思うほど。
その感情を取り除く唯一の方法は、サリアナがディアンの腕を放すことだけ。そして、可憐な指はまだ、彼の腕に食い込んだまま。
引き剥がすことも振り払うことも許されないディアンにできたのは、その感情を受け止めることのみ。
この場にいるだけで耐えられないと。なにも言えずにいる男に対し、ラインハルトは笑みさえ浮かべ始める。そこに込められた意味は、どう解釈しても呆れであろう。
「あんな無様な姿を晒した後で、よくもそんな顔ができるものだ」
そんな顔、とは一体どれだけのものか。ここに鏡があれば確かめられただろうが、見ずともひどいという自覚はある。
表情に出ないよう耐えていたって、滲む感情を読み取るくらい彼ならば容易なこと。
ならば、自分が望んでこの場にいないことも気付いてもらえないかと。知られれば不敬に思われる望みが頭に過ったところで、腕の痛みがそれを掻き消した。
「お兄様、なぜディアンにそこまでひどくあたるのですか」
強く訴える声も、残念ながら届く者はいない。なぜ、と問われれば誰だって答えられるだろう。そして、知らないのは問うた本人だけだ。
湧き上がるのは庇われた喜びではなく、余計に怒らせてしまうという諦め。話が長くなると嘆けば、期待に応じるように鼻で笑う音が鼓膜を揺する。
「私が好きでそうしているとでも? そこの恥知らずが、身の程も弁えず、お前付きの騎士になりたいなどと言わなければ。……私も言うことはなにもない」
「ディアンだって努力しています! 今はお兄様には敵わないかもしれませんが、彼だって必死で……!」
今は、ではなく、これからもだろう。分かっていても訂正しないのは優しさか、それとも誰もが辟易としているのか。
努力、いつか、必ず。もう何度と繰り返した問答だ。
それなのに、言われるほど重く心にのしかかるその正体をディアンは名付けることができない。
重責、情けなさ、屈辱、怒り。
そのどれもが当てはまらず、良い感情でないことだけは嫌というほどに。
「私に勝てなければ許さないとは言っていないだろう。だが、そいつが他の誰かに勝ったことはあったか?」
「それは……」
「座学で基準点を取ったことは? 魔術に関しては? ……どれもこれも、人並み以下の奴に護衛騎士どころかただの騎士にさえなれると?」
反論できない。できるはずがない。全て事実だ。どれだけ庇おうとも、ディアンがどうしようもないほど落ちこぼれであることは言い逃れようのない事実。
努力はしている。努力は、しているのだ。されど、結果に出ないのならば自己満足にしか過ぎない。
嗤う声こそ聞こえない。ラインハルトの後ろに控える者も、サリアナを見守っている者も、洗練された騎士たちだ。
どれだけ可笑しくとも顔に出すこともないし、それを悟らせることもないだろう。
ディアンとはあまりにも違いすぎる。いや、比べること自体が愚かしい。
「っ……それでも……」
震えた声が否定する。一国の姫にここまで気にかけてもらえるだけで名誉なこと。その優しい心に感謝し、涙を流すのはディアンであるべきだ。
しかし、込み上げる感情は重々しく、どうしても喜ぶことはできない。
もう分かっている。分かっているのだ。この後に続く言葉を、そうしてなんと返されるかも。
そして、言われている自分がこのまま口を開かずにいる方が早く終わることも、全て。
「それでも、ディアンならなれます。だって、約束したのですから……!」
「……またそれか」
わらう気も失せたのだろう。吐き出された息の深さが心労を窺わせる。もはや怒る気力さえも尽きかけているのだ。
「お前が何と言おうと、そいつに自覚がなければ話にならない。加護もなければ実力もない、そのうえ理想だけは一人前ときたものだ。口で言うだけで叶うと思っているのなら随分と幸せなことだ」
「そんな言い方……!」
「身の丈に合わない夢を抱くのは勝手だが、そんな道化と同じ英雄の息子として見られる私の気持ちが理解できるか?」
近づく足音は高らかに。伸ばされた手がディアンの腕を掴み、突き飛ばす。その一連にためらいはなくとも、妹への配慮は残っていたようだ。
よろめいた身体を立て直す間に、サリアナを守るように白い壁が立ちはだかっていた。鎧の反射光に目を細めても、見えるのは深海から向けられる、抑えようのない怒りだけ。
「恥をかかせるのは、自分の父親だけにしろ」
自分を、妹を、そしてこの国を巻き込むなと。
吐き捨てられた声に、やはり反論することは許されず。頭を垂れ、遠ざかっていく背を静かに見送るだけ。
「ディアン!」
「お前たちもなにをしている。早く連れて行け」
「はっ。……姫様、こちらへ」
まだ振り返って見つめているのか。されど、視線の先は鎧に阻まれ絡むことはなく、元よりディアンは地を見つめたまま。どれだけ彼女が縋ろうと届くことはない。
やがて蹄の音が聞こえ、馬車が寄せられたことを知る。道を空けるために脇に逸れ、もう一度腰を折る。
身体に染みついた行動に、抱く感情はなにもない。普段通り、なにも変わらず行うだけ。
右から、左へ。車輪と蹄の音が通り過ぎれば、残るのは見守っていた周囲の話し声。噂。わらい。雑踏。
……今日の話題としては、もう十分だろう。
開いた瞳はまだ光に焼かれ、明滅を繰り返す。その合間に見える鎧の幻覚が、網膜にこびり付いて離れはしない。
汚れを知らぬ輝く白銀。護衛騎士にしか許されない王家の鎧。騎士を目指す者ならば、誰だってあの光に憧れるものだ。
だが、ディアンの胸に込み上げるのは憧れでも、諦めでもない。
それを纏っている姿を思い浮かべることができないのは、自分の実力が足りないからではなく……その内に湧く疑問のせい。
――いつから、こうなってしまったのだろう。
こんなにも胸は重いのに、頭の中は飽和しているような浮遊感に支配されている。
漠然とした疲労に犯された脳では答えを引き摺り出すことができず、そして出たところで何の役にも立たないのだ。
仕方ないのだと諦め、踏み出した足はとても駆け出せる重さではなかった。
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