54.初めての宿
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町に戻ってきた頃には、どこも静けさに包まれていた。
食事処も閉まり、出歩く人は酔っ払いや冒険者のみ。夕方の喧噪が嘘のような寂しい道も、ディアンにとっては新鮮な経験。
エルドが取っていたのは冒険者向けの安宿だ。ベッドと、机と、椅子。あとは窓が一つある程度で、本当に最低限だけの家具とスペース。
そりゃあ、王城や教会なんかと比較してはいけないが……宿の内部を見るのも泊まるのもこれが初めて。
多少戸惑いはしたが、金を出すのはエルドであり、自分は助けてもらっている側だ。文句を言える立場ではないし言うつもりもない。
屋根があり、雨風を凌げる場所もある。洞窟の岩肌よりも数倍マシな環境だ。不満などない。否、なかったと言うべきだろう。
「使えません」
……数秒前までは、だが。
「我が儘言うなって。しょうがないだろ、伝え忘れたんだから……」
荷を下ろし、腕を組み、盛大な溜め息を吐かれてもディアンの視線は厳しいまま。
そう、不満はなかったはずだ。ベッドがあり、荷物を置くところもある。二人泊まるに十分な空間も確保されていた。
……問題は、そのベッドの個数。
壁に沿って置かれたそれは、大人が寝られる程度の大きさはあった。だが、二人ではあまりに狭く、用意されているのは一つだけ。
そう、ここは明らかに一人用の個室。二人用ではない。
「もう二人部屋は埋まってるし、どっちにしろこの部屋しかなかったんだって」
さっきも言っただろうとジト目で見下ろすエルドも、いいかげん納得しろと言わんばかりの表情。
一部屋借りるとしか言わなかったこと。その時エルドしかいなくて複数人と思われなかったこと。そもそも夕方の時点で部屋が空いていたのが滅多になかったこと。
様々な理由でこうなってしまったことは先ほども聞いたし、何度聞いてもその事実は変わらない。
そもそも、不満はそこにあらず。エルドの認識の中にあり。
「分かってます。だからベッドはあなたが使ってください。僕は使えません」
指差し示すは、整えられたままの寝床一つ。そう、不満はベッドの個数ではなく、誰が使うかだ。
というか、使うべきは討論するまでもなく目の前の男しかいない。
「だーから、お前が使えって言ってるだろうが」
それなのに、当の本人がそれを拒むからこそ、部屋に着いたというのにお互い休めていないのだ。
休むための場所で休めないなど本末転倒。されど、ベッドの所有権を明らかにするまで安寧は訪れず。
「あなたのお金で泊まっているのだから、ベッドを使う権利はあなたにあります」
わざわざ言うまでもないはずだ。いくら安宿と言え、ディアンの所持金では泊まれなかったし、そもそもここまで辿り着けたかも怪しい。
よりよい場所を使うのは、金を出した本人であるべきだ。床で寝た経験ならディアンにだってある。
……正確には寝かされていたと言うべきだが、認識としては誤差の範囲。
「その俺がいいって言ったんだろうが」
「よくありません。あなたもここまで野宿続きだったはずです。最後にベッドで寝た日数で言えば僕の方が浅いですから」
王都でも村でも泊まらなかったなら、少なくとも二日は野宿だったはずだ。それ以前はともかく、ゼニスが同伴で許される場所は多くないだろう。
そう考えれば、ディアンが想像しているより長く宿には泊まれていないはずだ。
もしかしたら教会で宿泊していたかもしれないが、現時点ではまだベッドを使った記憶はディアンの方が新しい。
やはり、どう考えたって優先すべきはエルドだ。
「旅に慣れてない初心者がなにを言ってんだか……」
それなのに、そうしてほしい相手はあきれ顔のまま。ディアンを半目で見つめ、大袈裟に首を振るばかり。
「若さで乗り越えられるのは今だけだぞ」
「若さ故の特権とも言えます。それに、これも慣れていかなければならないことです」
野宿はもちろん、床にそのまま眠ることだって今後ないとは言いきれない。
そりゃあ、固い床より柔らかい布の上がいいに決まっているが……今日そこで眠るべきはディアンではない。
何事も経験で、何事も慣れ。これも、己の経験不足を補ういい機会だ。
「……お前、変なところで頑固だな」
昼間はあんなに素直だったのにと、吐かれる溜め息はどこまでも深い。そのまま床を突き抜けて、地の底まで辿り着いてしまいそうなほどに。
聞くべき意見はちゃんと聞いているし、反映している。ただ、今回はそうするべきではないと判断しただけ。
金も出してもらって、野宿の期間も長い。改めて考えるまでもなく、優先されるのはエルドだ。
明日も迷惑をかけてしまうし、頼ることだって多い。休めるときに休んでもらいたいと思うのは、我が儘でもなにでもない。……はず。
「とにかく、僕が床で寝ますから」
こうなれば寝転がった者勝ちだと、部屋を照らしていた蝋燭を吹き消せば一瞬で暗闇に覆われる。
不鮮明になっても問題はない。今日の寝床は、その足元にあるのだから。
せめて毛布だけでも借りてから寝るべきだったかと思うも、明かりを消してしまったならどうしようもない。
「そうかそうか、しょうがないなー」
肌寒さもすぐに慣れるはずだと座りかけたところで、そんな間延びした声が耳に届く。
これだけ聞けば諦めたように思えたが、実際にとった行動は肩を回し一歩近づいてくるという矛盾した行動。
薄暗くても鮮明に分かってしまう。……それはつまり、彼がそれだけの距離にいるということ。
「え、ちょっ……うわっ!?」
軽々と膝裏をすくわれ、足が地面から離れる。咄嗟にしがみついても意味はなく、下ろされた先の地面はあまりにも柔らか。
ベッドに運ばれたと理解できても、それがなんの役に立つというのか。
「なにっ――狭っ!」
「ほら、詰めろ詰めろ」
ギ、と。ただでさえ限界を訴えているベッドが、二人分の重みでさらに悲鳴をあげている。あれよあれよと壁に追い詰められ、呻いても挟まれた身体は追いやられるがまま。
起き上がりたくとも乗せられた腕のせいで身動きが取れず、足までも押さえられれば本当になにもできぬまま。
「なにしてるんですか!」
「寝てんだろ、言わなくても分かるだろうが」
騒ぐなと唇を押され、視線で抗議してもどこ吹く風。絶対に体勢はきついはずなのに、どうして涼しげな顔でいられるのか。
「お前も俺も譲らないならこうするしかないだろ」
「だから、あなたが素直に使え、ば……!」
大して力は入れていないはずなのに、全くもってビクリともしない。完全に固定されている。
まさかこんなところでも魔法を使っているのか? これが腕力だけだなんてあまりにも信じられない。というよりも、信じたくない気持ちの方が強い。
「そっくりそのまま返してやる。恨むなら言うことを聞かなかった自分を恨むんだな」
「だからってこんな、」
「いいからもう寝ろ。明日だって早いんだから」
寝ろと言われたって、こんな状況でどうやって眠れというのか。
肌寒さは解消されたし、痛みもない。壁が近いので圧迫感はあるものの、苦しさは不思議なほどにない。
一体どこをどう押されればこうなるのか。捕まっている自分の姿を見下ろすこともできず、可能なのは首から上を動かすだけ。
いや、本当にどうやって眠れというのだろう。これでは互いに十分休める状況とは言い難い。
どこかしら不調は絶対に残る。それなら、まだ固い床でもいいから広々と休んでもらうほうがマシだ。
一番いいのは、ベッドを一人で使ってもらうことだが……こうなってしまえば諦めるしかない。
「分かりました、ベッドは僕が使いますから……、……?」
だから離してほしいと、そう訴えたはずなのにエルドは動かず。返事すらもなく。
耳を傾ければ、聞こえるのは規則正しい呼吸音……と、小さないびき。
いや、まさか。こんな数秒で、そんな……本当に?
「寝たふりしないでください、もう諦めましたから。……エルドさん?」
一秒、二秒。待っても動くことはない。変わらず返事はなく、むしろ先ほどよりも大きくなるいびき。
乱れることのない呼吸は、とても演技とは思えず……。
「……まじか……」
思わず、そんな汚い言葉が漏れてしまったが許してもらいたい。
いや、こんな数秒で眠ってしまうとは思わなかったのだ。すこし前まであんなに喋っていたのに。とても眠れるような空気ではなかったはずなのに。
腕の力はそのままだというのだから、もう訳がわからない。これが教会幹部の成せる技か。
否、全部をそれで一括りにすれば、それこそ教会側からなんと言われるか。
彼だけが特別だ。こんな相手、そう何人もいてはたまらない。
……一番たまらないのは今の状況そのものであるのだが。
脱出を試みてもやはり微動だにせず。再び吐いた息は、完全なる諦めから。どうやら、本当にこのまま眠るしかないようだ。
伝わる体温はむしろ温かく、耳に届く呼吸音は子守歌かのよう。あんなに動き回ったのに汗臭さもなく、むしろ少しいい匂いがする。
ディアンの感性が乏しいせいで例えることはできないが……少なくとも、密着しても不快に思わない程度には心地良い。
むしろ自分の方が汗臭いのではと案じるも、こうして眠ったということは大して気にならなかったか。
まぁ、臭いを気にするぐらいならもっと別のところを気にしてほしかったのだが。
……現実逃避もやりきってしまえば虚しいという経験を得たところで、目蓋を伏せる。
胸元に触れている手から伝わる鼓動。ゆっくりと刻まれる命の証。少しだけ高い体温と相まって、慣れないものばかり。
そもそも、こうして誰かに抱きしめられたまま眠るなんて初めてだ。いや、そもそもあんなに抱きしめられたのも今日が……彼が、最初。
あれが普通なのだろうか。それとも、一般的に考えても特別なのだろうか。
判断するにはなにもかもが足りなくて、今までの経験で補うにはあまりにも偏りすぎている。
トク、トク、トク。
思い出そうとすれば頭の奥が鈍くなり、心地良い音が全てをさらっていく。まるで、考えることを遮るように。思い出す必要はないと訴えるように。
力強い鼓動。温かい体温。心地良い寝息。全てがディアンを寝かしつけようとしている。聞いているうちに呼吸は自然と深くなり、意識はさらに形を失っていく。
目蓋は重く、もう開けていられない。そもそも抗う必要もないと気付けば、倦怠感が全身を巡っていく。
背中から温かな湯に浸かるような幸福感に支配され、そのまま指先までが沈みきるような錯覚を抱き……そして、
「……おやすみ、ディアン」
柔らかな音と、額になにかが触れたような……夢を、見た。
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