40.エヴァンズ家 ★
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バキ、と。耳障りな音が響くのに、なんの前触れもなかった。
真ん中から二つに折れた羽ペンは無残な姿。削って整えるにはあまりにも短く、使い物にならない先から滴るインクが紙面に染みを残す。
先ほどまで響いていた心地良い筆記音は途切れ、聞こえるのは鼻から深く吐かれた息のみ。
書き損じた書類と、使い物にならなくなったペン。そのどちらもゴミ箱に捨て、揉んだ目頭はじわりと痛む。
窓から差し込む光は強く、もう昼が来たことを示している。見やった時刻は、次の食事まで三十分といったところ。
朝食は揃って食べる決まりだが、昼はその限りではない。むしろ、ヴァンがこの時間帯に部屋にいることの方が稀だ。
普段はギルドの詰め所で指揮を執るか、今のように書類を処理しているか。持ち帰れる分は家でも片付けているが、環境が違うせいでどうにも捗らない。
急な仕事も入らず、静かなので集中できるかと思ったが、思い通りにはいかないようだ。
……否、その書類の数が一向に減らない理由を、男は正確に理解していた。
『――あやまる、のは、あなただ』
頭の前部が痛み、眉間の皺が深くなる。息子に反省を促してもうじき半日が過ぎるだろうか。
食事はほぼ丸一日抜き、水すらも与えていない。この程度で倒れるような鍛え方はさせていないし、ヴァン自身そうさせたことをやり過ぎとは思っていない。むしろ、まだ甘いとさえ思っている。
己の未熟さを棚に上げ、『精霊の花嫁』に対して暴言を吐いた。実の兄とはいえ、それは許される行為ではない。
ゆえに、己が下した判断は間違っていない。……間違って、いない。
息を吐き、姿勢を正し。もう一度ペンを取ろうとしたところで、予備も全て使いきったことに気付く。見下ろしたゴミ箱は、今や無惨に折られた羽の墓場と成り果てていた。
こちらに向けられている先は、まるで思考から逃げようとした結果だと咎めているようだ。
無機物に怒りを抱いたところでどうしようもないが、どうすればこの気持ちを昇華できるのかもわからぬまま。時間だけが無為に過ぎていく。
……ヴァン・エヴァンズは、人々の期待に応え続けた。
数年にもわたる各地で起きた魔物の異常発生。知能の高い獣による寛大な被害。
当時のヴァンはまだ若く、勇気に溢れる男だった。何人もの仲間と共に死すらも恐れず、何百という異形を切り伏せては人々を守ってきた。
もはや己の身に浴びている血が仲間のものか、憎き魔物のものなのかもわからぬほどに。
失ったものも代償もあまりに多く。ヴァンに至っては、この平和に対して差しださねばならない犠牲がまだ要求されている。
だが、それはヴァンも納得の上だ。むしろ誇りにすら思っている。自分たちが勝ち取った正義。自分たちで為しえた平和。己たちで、この国を。世界を救ったのだと。
城で勤めるのは性に合わぬとギルド長としての立場を選び、民と同じ立場から平和を維持するヴァンを、やはり誰もが讃え、憧れ、期待を抱いた。
この国を救った英雄。我らが救世主。ヴァンギルド長。ヴァン、ヴァン・エヴァンズ、ヴァン・エヴァンズ!
たとえヴァン自身がそう呼ばれることを望んでいなくとも、彼が生きている限り……否、彼が死んだ後もずっと、この出来事は語り継がれていくだろう。
そうして褒め称える声ばかりではない。心ない言葉も、実際に命を狙われたことも何度だってある。
政治、策略、私怨。犯行に及んだ理由など、もはや数えきれぬほどに。
ヴァンが望もうと、望まなくとも。もはや男は誰からも知られた存在になってしまった。それはこの国を救って二十年経った今でも変わることはない。
そう、本人がどう思おうと民は理想を抱き、思い描く。そうでなければならないと押しつけ、その道から外れることは許されない。
……そして、それは自分の息子に対しても同じこと。
英雄の息子。それだけで、その期待がいかに強く、そして勝手なものか。
ただの子どもならヴァンもここまで躾けることはなかった。
物心つく頃から剣を握らせ、魔術を習わせることも。怠けることのないように厳しく、過剰に己を評価しないように言い聞かせることもなかっただろう。
かつて共に剣を交えた親友……ダヴィード王に頼み、ディアンだけ実際の騎士たちと同じ訓練を受けさせることもさせなかった。
座学に逃げぬようにと試験の点も欺かせ、結果が出ないと嘆き折れる心を叱咤することも。きっと、しなかったはずだ。
……だが、ディアンは自分の息子。英雄の息子だ。
その行動にどれだけの人間が期待し、望んでいるかを彼は理解していただろうか。
人並みではなく、人一倍努力して認められる立場であると、真に理解していただろうか。
いや、昨日の光景を思い返す限り否定せざるをえない。
理解していればあんな言葉はでてこなかった。分かっていたなら、妹を責めるなどするはずが。
全ては息子を騎士にするためだ。ただの騎士ではなく、王女付きの……彼が忠誠を誓わなければならない、サリアナ様の騎士に。
既に定められたことだ。サリアナが願い、ディアン自身もそう誓った。それがいかに幼い頃に交わしたものだとしても、言い訳にはならない。
誓いを立てたならば守らなければならない。それが、英雄の息子として望まれた姿であり、義務なのだ。
だからこそ、並大抵の努力ではいけなかった。ただ鍛えるだけではダメだった。
どれほど悪評を言われようと、実力が伴わぬと突きつけられようと、ディアンは努力し続けなければならなかった。
いかに魔法で抑え込まれていても剣を振るい、魔法をコントロールし、知識を蓄え……そうして、やっと人々の抱く理想に添える存在になるのだ。
ヴァンが英雄でなければ。ヴァンがこの世界を救わず、娘を花嫁に捧げると誓わなければ、ディアンは普通に暮らせたかもしれない。
だが、そうはならなかった。だからこそ、ヴァンは英雄であり、ディアンは英雄の息子。次世代を担い、人々の希望にならなければならない存在。
実際にディアンは耐えていた。既にその実力は見習い騎士にも同等と言える。騎士団長も、ヴァン自身もそれを認めていた。
そうでなければ卒業と同時に騎士へ入れるよう進言などしないし、騎士団長も、ダヴィード王もそれを認めはしなかった。
あと半年。あと半年だったのだ。己の使命に気付かずとも、あの弱い心が卒業までに矯正されずとも。
いつか分かってくれるはずだと……そう、期待していたというのに。
時計を見れば、先ほどからまだ五分も経っていなかった。
ペンは全て潰しきり、集中できぬ作業に向き合うこともできず。仕方なく、立ち上がった身体が部屋を出る。
向かうのは廊下の端……ディアンがいる、部屋の方へ。
彼からすれば、確かに理不尽だったかもしれない。六年以上もずっと、大人でも音を上げるような訓練を受け続けてきたのだ。
それを評価されず、なおも向上するように求められていたのは、同じ年頃の子ども相手には絶対にあり得ないこと。
だが、そうしなければならなかった。それを乗り越えてこそ、ディアンには強くなって欲しかったのだ。
彼が望まれているのは、それほどまでに辛く、厳しい道。本人にその気がなくとも、その運命からは逃れられないのだ。
ヴァンの息子である以上。彼が、英雄の息子だと見られている以上。永遠に。
だからこそ、卒業するまでの期間で自覚させなければならない。成人すれば一人前として見られる。騎士としては見習いではあるが、世間の目は更に厳しく彼を評価するだろう。
その心構えがなければ、すぐに彼は潰れてしまう。英雄の息子として、それは許されてはならないのだ。
もう一度話す必要がある。そうすれば今度こそディアンも理解するはずだ。
なぜなら、彼は――自分の息子なのだから。
確信を抱き、角を曲がる。そうして見張りに立たせていた者に声をかけようとして……見えるはずの無い色に、目を開いた。
「……メリア、ここでなにをしている」
白銀にも見えるブロンドに反射する薄桃色。特別な光を放つその髪は、精霊から特別な加護を賜ったなによりの証拠。
この国広しといえど、こんなにも美しい髪を持った少女は一人。己の娘、メリアだけ。
昨日もディアンに傷つけられていたというのに、その彼女がなぜ彼の部屋の前にいるのか。
見張っていたはずの騎士の姿はどこにもなく、扉に向いていた小さな肩が大きく揺れる。
そして、振り返ったその瞳に浮かんでいたのは、大粒の涙。泣いていると理解した途端に湧き上がるのは困惑と怒り。
「っ……おとうさまぁ!」
ヴァンを視認するなり、駆け寄ってきたメリアが胸元へ飛び込んでくる。その肩は小さく震え、しゃっくりをあげながらも必死に伝えようとする声が脳へ響く。まるで深く、深く刻みつけるように。
「お兄様が、ずっと食べていなくて。だから心配で……っ……二人きりなら謝ってくれると思って、でも、お兄様がひどいことをっ……!」
滑らかな頬に流れる涙は止まらない。それでも懸命になにをされたか伝えようとする健気な姿に、先ほどまで浮かんでいた希望はとうに尽き果てた。
……あれだけ言ったのに、まだ理解していなかったのか。それどころか、なおも彼女を傷つけようとするとは!
理不尽だと思うのはまだ仕方ないとしよう。だが、それを妹に……ましてや、『精霊の花嫁』に押しつけるなど!
「……ディアン、聞こえているのか」
呼んでも返事はない。答えたくもないと、そう無言で訴えているつもりなのか。
「お前は……っ、自分のしでかしていることの重大さがまだわかっていないのか!」
湧き上がる怒りが目の前を赤く染める。扉を叩こうとも、なんの反応もない。
悪いのはヴァンであり、自分ではないと。非を認めるつもりはないと、本気でそう思っているのか。
そんな考えを許すわけにはいかない。英雄として、ギルド長として、なによりディアンの父親として。絶対に。
「反省するまで、見張りを怠るな! それまで水一滴たりとも与えることは許さん!」
遠方で待機していた騎士に怒鳴りつけ、なおも泣いている娘の肩を抱き、その場を離れる。
「メリア、お前は部屋に戻りなさい。ディアンが反省するまでここには近づかないように」
もう傷つく必要はないのだと背をさすり、言い聞かせるうちに落ち着いてきた娘がヴァンを見上げる。涙に濡れた緑は美しく、そして痛々しい。
「……はい、お父様。ありがとうございます」
目元を赤くしながらも、そっと微笑む表情に怒りは収まり、安堵が勝る。
そう、彼女を泣かせてはならない。苦しい思いも、辛い思いもさせてはいけない。
彼女は……『精霊の花嫁』なのだから。
涙を拭い、今度こそ綻ぶような笑顔を見せる娘に、ヴァンの表情も和らぐ。
……たとえ、その笑顔が純粋な感情によって作られたものではなくとも、それに気付くことがなくとも。ヴァンにとってメリアが笑顔でいることが全てだった。
そう、全てだったのだ。
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