387.確かに変わっていくもの
ディアンが家を抜け出し、グラナートの正体を暴くまでにかかった時間は一時間にも満たない。
夜半。それも寝静まった後にこっそりと、となれば部屋に訪れないかぎり不在とは気付かれないはずだった。
メリアが目覚めたならばまだしも、それ以外の人間となれば可能性は低く。だが、完全に安心していたわけではない。
実際、ディアンも予感を抱いていた。整合のためか、必然か。
「――どこへ行っていた」
だからこそ、玄関で待ち受けていた影にも驚かなかったのだ。
普段ならとっくに眠っているはずの時間。いるはずのない場所、いるはずのない存在。
睨む金の瞳に込みあげるのは恐れではなく、しかして怒りでもなく。漠然とした面倒さと、諦めにも似た感情。
溜め息は殺し、正面から対峙する。脳裏によぎるのは最後の決別。触れてもいない頬が鈍く痛む錯覚に、手をあてがうことはなく。
「グラナート様の元へ」
「こんな夜半に……迷惑をかけるなと言ったはずだ」
「教会からの指示です。グラナート様からは事前に了承を得ております。……必要なことでしたので」
淡々とした答えに、ヴァンの視線が鋭くなる。口答えは、ヴァンが最も嫌う行為だ。
ただでさえ学園に行かず、鍛錬もせず。日々を怠惰に過ごすディアンに怒りを抱いているところへ、今回の件だ。
記憶に残っているヴァンなら、納得するはずがない。その光景を、どうしたってディアンには描けない。
「鍛錬も怠り、勉学もせず、無意味に街を散策し、あまつさえ父である私に無断で外出するのが必要だと?」
「少なくとも、今の私にとっては」
咎められようとも、無意味であろうとも。ディアンの行動は全て、エルドの元に戻るため。
無駄な選択を強いられようと、心が揺らぐことはない。
「……お前がいかに、己の道を甘く見ているかよく分かった」
「私の道?」
「ラインハルト様に勝てたことで、騎士になれると驕ったか。たった一度、偶然の産物を己の実力と錯覚したのか。……この馬鹿者が!」
耳を劈く怒りは、ディアンの心には届かず。怯えも、震えもなく。淡々と通り抜けるだけ。
「努力を怠り慢心する者が、サリアナ様の騎士になれると思っているのか!? お前はサリアナ様への誓いを破るつもりか!」
「幼少の頃、本人の自覚無く強いられた誓いになんの意味があると?」
胸ぐらを掴まれ、踵が浮く。締まる首元に苦しさを覚えても、瞳の光は鈍ることはない。
「本気で言っているのか」
「嘘を吐く理由もありません」
「お前は英雄の子、私の息子だ。お前自身にどれほどの期待が寄せられているか、分かっているはずだ」
「……ええ、そうでしたね」
何度も言い聞かせられてきた言葉だ。英雄の子。落ちこぼれ。出来損ない。加護なし。
世界を救った父の栄光に恥じぬよう鍛錬を積み、努力を重ね、サリアナの騎士になる。それが自分の義務であると分かっていた。
そう、分かっていたのだ。もはや、それは終わったことだと。
「ですが、私にはもう、関係のないことです」
引き寄せる力が強まる。意味の無い否定。意味の無い言葉。この夢そのものに、意味などない。
ここで否定をすれば、自分の行動範囲を狭めるだけとも理解している。それでも譲れないのだ。
「この問答に意味はないでしょう。私の言葉にも、あなたの言葉にも。……それでも」
自分が選んだ道。自分の望んだ未来。己の意志で立てた誓いを。
「私は騎士にはなりません。私の誓いは、ここにはない」
振りかざされた腕。来るだろう衝撃に歯を食いしばり、目を伏せる。
「お兄様っ!」
だが、空気を切ったのは拳ではなく、甲高い声だった。
「……メリア?」
「ひどいわ! 眠れるまで一緒にいてくれるって、約束したじゃない!」
先の怒鳴り声で起きてしまったのだろう。ひどいひどいと喚きながら駆け下りるメリアに、先に胸元が開放される。
伸びた服を整える間もなく、今度はメリアに腕を掴まれ、引っ張られるままに傾く身体は階段の方へ。
「メリア、今は大事な話を……」
「嫌! 眠れるまでお話ししてくれるって約束したもの!」
「メリア……!」
彼女がここまでヴァンに拒否を示したことはなかったはずだ。
大抵は早々にヴァンが折れるので、見る所まで行かなかったのが正しいだろう。
事例は少ないが、本当に駄目な時は泣いてでも止めに入った。再度名前を呼ぶ声は、彼女にとってはひどい事、に入る部類の怒鳴り声だ。
だが、腕を掴む力は弱まるどころかますます強まり、絶対に離すまいと締めつけている。
……だからこそ、その指先の震えは鮮明にディアンに伝わってくる。
「嫌! お兄様と一緒に寝るの!」
「メリア、いい加減に……」
「ごめん、メリア。そうだね、部屋に戻ろう」
「待てディアン! お前っ……!」
腕を取り、手を繋ぎ直して。なおも呼び止めようとする父を見る。
冷たい眼差し。怒りに満ちた色。一方的に怒鳴りつけ、相応しいと言われた道に進ませようとした存在。
……思い返せば、なぜあんなにも、ディアンをサリアナの騎士にすることに執着したのか。
本当に、洗脳だけだったのか。英雄の息子としての、相応しい地位を求めたのか。この夢に入れられなければきっと気にすることもなかった。
……そして、真相を明かす日はない。
やはり、ディアンにとって、全ては過去の出来事。繰り返す必要も、やり直す必要も、一切存在しないのだ。
「話なら明日にでもできます。……ですが、私の意志は変わりません。それでも従わせたいというのなら、教会に話を通してください」
これ以上語ることはないと、階段を上がる。騎士に囲まれながら廊下を進み、戻ってきた部屋で待ち呆けていたゼニスと再会しても、メリアの力は緩まない。
再びベッドに寝かし、シーツをかけて。だが、指先も瞳も震えたまま、長い睫毛は、一向に伏せる様子はない。
「……部屋にいるって、言ったじゃない」
「うん、ごめん。起こしてしまったね」
宥めるようにシーツに入り込んだゼニスを抱きしめながら、ディアンの手も離すことなく。緑色は枕に落ちて、重ならない。
「今度こそ朝まで一緒にいるから、大丈夫だよ」
「…………お兄様」
「うん?」
「騎士にならない、って、本当に?」
迷うように、戸惑うように。
あれだけの騒ぎだ。聞いていない方がおかしい。だからこそ、一瞬止まったのは問われたことではなく、その理由から。
「……サリアナ様には伝えていないが、そのつもりでいる」
「学園じゃなくて教会に行っているのも、騎士にならないから……?」
「そうなるかな」
「じゃあ! ……もっと家に、いられるのよね?」
弾んだ声が沈む。昨日のダガンが、よほど精神に来たらしい。
この怯え様は一過性のものか。それとも、他に原因があるのか。
……ディアンの瞳に気付いたように、彼女にしか気付いていない違和感が、他にも存在しているのか。
「ち、違うわ。お兄様が、あんまりにもできないから、私がちゃんと教えてあげようと思って……」
最近はその建前も忘れかけていたくせにと、笑う息は呆れではなく微笑ましさ。
むしろ最近は素直に強請ることが増えた方だと、頭を撫でる指に絡まるのは、薄桃色の光。
今はもう失われた加護。……今、メリアに施す全てが、無意味と分かっているのに振り払えない。
この夢から出るためだけではない。兄として慕われた記憶がなくとも、ディアンにとって彼女は妹に変わりない。
……やはり、苦しんでほしいとは思えなかった。せめて、この夢の中だけでも、正しくあってほしいと、望んでしまった。
偽善。自己満足。最後には傷付くと分かっているのに、それでも……。
「うん、ありがとう、メリア。明日も、用が終わったらすぐに戻ってくるから。それから、色々教えてくれるかな」
「……嫌」
「すぐに終わらせるよ、約束する」
「…………さっきも、嘘吐いたじゃない」
罵る呟きに苦笑し、もう一度だけ頭を撫でる。
「眠れるまで、お話をしてあげるから。……そうだな、フィリアと婚姻を結んだ人間の話をしようか」
「……フィリアの?」
分かりやすく目の色を輝かせ、見上げる大きな瞳に微笑みかける。
嘘を吐いたのは事実だ。……今日ぐらいの夜更かしは、許すべきだろう。
考えることは多く、どれも答えは与えられない。
だが、今のディアンにできるのは待つことだけだと、聞かされた精霊記を頭の中でなぞる。
「昔々――」
そうして語り出す声は、子どもに読み聞かせるように柔らかく、優しい声色だった。





