386.真実と続く夢
世界が歪む。比喩ではなく、現実として。
見下ろす精霊王。ステンドグラス。月明かり。天井から床に至るまで、何もかもが歪み、淀み、揺らぎ。唯一、うずくまり叫ぶ男だけが正されたまま。
いや、その姿もまた、みるみるうちに変わっていく。
鷲色に近かった髪はクリーム色に近く、丸みを帯びた短髪へ。消えていくと錯覚したのは、実際に身体が縮んでいたからだ。
世界が元に戻っても、彼の……エパの姿だけは戻らず。響くのは、彼の荒い呼吸とディアンの深い息。
「……やはり、そうでしたか」
ペルデから伝えられた情報があっても、戸惑わなかったわけではない。
本来なら、千年以上前に存在した人間。それも、伴侶とならならなかった愛し子がグラナートの中にいるなど……これだけの情報が揃っても、簡単に信じられることではない。
だが、その姿も、その声も、半年前に出会ったカルーフとうり二つ。いいや、まさしく彼女は忘れていなかったのだ。
彼の仕草、彼の姿。その声に至る全てまで。
「ペルデから話を聞いて、あなたではないかと思っていました。……カルーフ様に関係している人間は、僕の知っているかぎり、あなたしかいませんでしたから」
膝をつき、視線の高さを合わせる。今のエパを占めるのは困惑と疲労だろう。
この夢が歪むほどの変化だ。ダメージも相当なもの。今、こうして意識があるのも不思議なほどに。
カルーフの記載されたページ。羊の木彫り人形。そして、昨日助ける際に用いた投擲器は、羊を狙う獣を撃退する際に用いたもの。
扱いに癖がある武器を、初めて触れたグラナートが扱えるはずがない。それも、メリアに当たるかもしれない状況でなど。
咄嗟だからこその行動。考えるよりも先に、身体が覚えていた習慣で動いたのだ。
そして、古代文字で綴られた日誌。エパが生きていた時代には普通に使われていた言語だ。
そこに記載された葛藤と、思い出せないことへの苦痛。全てが結びつき、答えに導いたのだ。
数千年前の魂が、今、目の前に存在していることに。
「なにが、起きて……っ」
立ち上がろうとして、崩れる身体を咄嗟に支える。その感触も、汗ばんだ肌の湿り気も、現実と変わりない。
間違いなく、エパはここに。目の前に存在している。
カルーフが待ち続けた唯一の愛し子は、ディアンの夢の中に。
エパ同様、ディアンの中にも疑問が渦巻く。なぜ、彼がグラナートに擬態させられていたのか。なぜ、とうに死んだはずの彼の魂が残っているのか。
だが、今は明かすことはできないと、なおも立とうとするエパを座らせる。
<!-- 一定のクォリティたもつには、実際の魂が必要? -->
「詳しい事情は、後ほどペルデからお伝えします。……今は休んで下さい」
「教えてくれ……カルーフは…………彼女は、本当に……僕を……?」
掴む指が震え、縋る。否定か、肯定か。彼が望んだ答えは、どちらであったのか。
それでも、ディアンに伝えられるのは真実だけ。
「……はい。今もずっと、あなただけを待っています」
「――あ、あ」
腕が落ち、頭が下がる。支えようとも溢れる涙までは止められず、吐き出されたのは、深い後悔。
「なんて、ひどい……ずっと、僕は……僕は……っ……」
「……エパ様」
「さみしがり屋だって、知っていたのに、」
最後は、音にすらならず。脱力した身体をそっと横たえる。
聞こえる寝息に生きていると確かめ、もう一度吐いた息は深く、静かなもの。
「本当に違う人間だったとはな」
「……ペルデ、無事か?」
見守っていたペルデが陰から現れ、しっかりとした足取りで向かってくる。
あれだけの変化があったにも関わらず、本人は肩をすくめて見下ろすだけ。
「驚いたけど影響はない。……今のところは」
ディアンから、横たわるエパへ。
本物ではないとは分かっていたが……それでも、全くの別人だったとは。
ディアンでさえまだ信じがたいのだ。疑惑が真実となる様を目の当たりにした心中は、計り知れない。
だが、ペルデに動揺した様子は見られず。淡々と、目の前の事実を受け入れているように見える。
元より、彼は確信していたのだろう。そうでなければ、ディアンに伝えるはずもないのだから。
「さっきは聞けなかったけど、どうして彼が違うと?」
「違和感が重なった結果だ。最初は、アンタの勝手な補足からの行動と思っていたけど……夜に窓を閉めないのも、書庫の本を部屋に持ち込むのも、俺の記憶を参考にしてるのならあり得ない行動だからな」
長年一緒に過ごしたからこそ気付いた相違点。ディアンでは絶対に気付くことはなかっただろう。
どれだけ注意深く見ようと、染みついた習慣やこだわりを見抜くことはできない。
「なにより、昨日の襲撃だ。あの人が咄嗟の対応で武器を使うはずがない。本物なら、間違いなく殴りかかっていたからな」
「……え?」
「やっぱりな。アンタ、知らなかったんだろ」
グラナートと結びつかない行動は、ペルデにとっては呆れるほどに当然だったのだろう。
「あの人の現役時代の武器は、魔法でも剣でもなくて拳だ。でも、司祭が魔物を殴る殺してたなんて外聞が悪いだろ。復興の混乱に生じて印象操作はしたが、知らない武器を手に取るぐらいなら真っ先に殴りつけてる。それも、『精霊の花嫁』共々アンタが襲われてるならな」
「ほ、本当に……?」
「今は続けているか知らないが、俺が一緒にいた頃は維持程度には鍛えてた。俺たちの記憶を無視してまで武器を手に取らせたなら、相応の理由があると踏んだ。……実際、大した原因だったようだし」
榛は再び落とされ、グラナートに扮していた男を見つめる。
あの反応を見る限り、エパも精霊に巻き込まれた側だろう。本来の記憶を上書きされ、ディアンに親しい人間を演じさせられていた。
敵ではないはずだ。……だが、なぜ彼がディアンの夢にいるのか、なぜ巻き込まれたのか。そもそも、なぜグラナートの皮に詰められていたのか。
今はまだ、事情を聞くことはできない。
「で? 本当にその人が、カルーフ様の愛し子だって?」
「精霊界で姿を見たから間違いない。……正確には、彼を忘れないために、カルーフ様が模範した姿だけど」
半年前、ほんの少しだけ言葉を交わした姿を思い出す。
人と変わらぬ姿。精霊らしかぬ雰囲気。数千年前、人間界と精霊界を別つ際に離れてしまった愛し子の姿。
カルーフを守るために伴侶になることを拒み、再会を約束した彼を忘れないためにその姿を模してまで待ち続けていた相手。
数千年。気の遠くなるほどの月日を、再び会えることだけを願って。
亜麻色の髪も、目元を隠した前髪も、柔らかな雰囲気すらも同じ。
露見する際、夢の世界が歪んだことからも、この姿がディアンの記憶から補った架空の存在とは思えない。
信じがたいが、この男が本当にエパなのだ。カルーフが待ち続けた、唯一の存在。たった一人の、愛し子。
「精霊が人間界にいたのなんて、何千年も前の事だろ。なんでアンタの夢にいる」
「……わからない。でも、この件は僕たちが思っているよりも複雑なのかもしれない」
今を生きている存在だけではなく、過去に実在した者まで巻き込んでいるのなら。単にディアンを夢に留めるのではなく、他に目的があるとすれば。
もっと巨大な陰謀が。想像もつかない理由が存在している可能性がある。
「どちらにせよ、今後のことはエパ様が起きてからになるだろう。……僕もそろそろ戻らないと、気付かれたら面倒になる」
夜を待っていたのは、人目を避ける為でもあったが、他に抜け出す隙がなかったからだ。
ゼニスを身代わりに置いてきたが、いつメリアが起きるかもわからないし、他に影響が及んでいても不思議ではない。
「監禁されたら、こっちに身を寄せるしかないな。……移り住むか?」
「いや……メリアの件がある。名ばかりの教育でも、いま離れたら台無しになる可能性がある」
ペルデから提案が出たのは意外だが、得策とは言えない。
あの程度の勉学で『花嫁』になれるとはディアンも考えていない。あくまでも近付けるだけ。もし、もっと興味を抱くのであれば、より本格的に教育ができる。
ディアンの拒絶感が増すほどに、この夢から出られるのなら、メリアの教育は継続するべきだ。
今の状態でディアンが離れれば、それこそ全てをやめかねない。
「それに……メリアが怯えているのは、事実だから」
そうでなくても、この夢でメリアが襲われたのも、恐怖を覚えているのも事実。
本当でなくとも。目が冷めれば全てなかったことになると分かっていても、メリアを放っておくことは、今のディアンには難しい。
偽善と言われるだろうか。それでも、やはり苦しんでほしいとは思わないのだ。
「ひとまず、エパ様のことを頼む」
落ちた榛は、静かに頷くだけだった。





