385.☆一つの崩壊
夜風が運ぶのは、温い空気と煩わしい喧騒。差し込む光はなく、月さえも雲に隠れたまま。
明かりのない晩を、精霊の機嫌が悪いと称したのは誰が始まりだったか。
しかし、この王都では星が見えずとも酒場の明かりは灯り続けたまま。
酔っぱらった者の声を聞きながら、目に痛いだけの光を眺める男に、眠りの安らぎは訪れない。
……ずっと、何かを忘れている気がする。
違和感はいつから始まったのか。気のせいだと忘れようとして、何度繰り返したのか。
胸の奥で燻り続け、剥がすことのできない痛み。ふとした瞬間に泣きたくなるような、形容しがたい衝動。
とても懐かしい気がするのに、やはり思い当たるふしはなく。どれだけ忘れようとしても、違和感が纏わり付いて離れない。
今だって。外はもっと静かだったはずだと思っても、なぜそう思うのかさえ分からない。
耳障りで、喧しくて。なのに、何かを期待して待ってしまう。
外はもっと明るくて、星は数え切れないほどに輝いて。風は冷たくとも柔らかく、胸を満たす空気は心地良かった。
だが……男には記憶のないこと。あるはずのないもの。どれだけ思い返そうと、重ならない記憶。
多忙すぎて、精神が参っているのかもしれない。あまりにも考えることが多すぎるのだ。
『精霊の花嫁』。己の使命。踏み外そうとしている親友。傷付けてばかりの息子。……そして、ディアン。
自身の贖罪のため、精霊王の盟約のため。そして、教会の司祭として。自分に与えられた任務を遂行する義務を、その覚悟を、グラナートは持っていた。
いよいよ時が近付き、気が焦っているのかもしれない。だが、燻る焦燥感は、そうではないと訴えかけている。
もっと大切な。成すべき事があったはず。自分にしかできないこと。
守らなければならなかった何かが。決して忘れてはいけなかったことが、確かにあったはずなのに。
握り締めた手の中、僅かな痛みを訴えたのは、小さな木の置物。
これを見る度に温かく、優しく。そして……無性に泣きたくなるのは、なぜなのか。
首を振り、机の上へ戻す。考えすぎだ。ただの、現実逃避。
全てを終わらすためにも、成すべき事をしなければ。
想いを断ち切るべく、窓に手をかけて――響いた音に、思わず身を乗り出す。
当然ながら見下ろした路地に人影はなく、乾いた笑いが漏れる。
そう、あり得ない。こんな場所で……聞こえるわけがない。
馬鹿馬鹿しいと首を振り、今度こそと窓を閉じて。だが、もう一度。今度は明確に、グラナートの耳を揺らす。
――外ではない。
振り返り、確かめた先。視界に入るのは扉だけ。
勘違いだ。気のせいだと、言い聞かせても足は止まらず、手はノブを捻る。
見慣れた廊下。見慣れた光景。聞こえるはずもない音は、再び。今度は階段下から響き、誘われるまま足は進む。
実際、グラナートは導かれていたのだろう。どれだけ追いかけようとも追いつかない音の行く先に気付いても、抑えることはできなかった。
眩しい光は、降り注ぐ月の光。雲に隠されていたはずの輝きは、ステンドグラス越しに聖堂を照らす。
おもむろに立ち止まり、あたりを見渡そうとも音の正体はいない。いなくて当然だ。あるはずがない。
分かっている。なのに、胸が苦しくて、悲しくて。震える息に対し、嘲笑うように幻聴が重なる。
見やった先。講壇に放置された本を手に取り、目を凝らす。
書かれた表題は、自室に持ち込んだはずの――。
「グラナート様」
聞こえるはずのない声に振り向けば、月明かりに照らされるのは紫の瞳。
この色に違和感を抱いたのも、一体いつからだったのか。
「ディアン? どうしたんです、こんな時間に……何かあったのですか?」
こんな夜半に来るなど、ヴァンと何かあったとしか考えられない。
いよいよ、学園に行かないことを責められたか、昨日のことか。その両方のも多いにあり得る。
このまま彼が助けを求めたなら保護し、聖国へ連れて行くことになるだろう。
そうして、その後は……いや、そもそもなぜ、その使命を賜ったのだろうか。
彼を保護する理由は――。
「その手にあるのは、動物に関連する精霊について纏められた本ですよね」
「あ、ああ……そうですが……?」
グラナートの問いには答えず、まるで日常の一部のように、淡々と問う声は静かで……なのに、胸が騒ぐ。
チリチリと、頭の一部を掠める傷み。真っ直ぐに見据える紫から目を逸らしたくなる衝動。
よぎるのは、精霊王と謁見した時と同じ圧迫感。同じ精霊でも彼女とは違う――そこまで考えて、息を忘れる。
……彼女、とは?
「栞を挟んでいるページを見ました。あまり有名な精霊ではありませんが……『花嫁』の相手でしょうか」
「いや、そういうわけではありませんよ。ただ、少し……気になって……」
そう、見つけたから。目についたから。何かを、思い出せそうだったから。
気のせいでも、元に戻すことができなかったから。ただ眺めていただけだ。
理由なんてないはず。それなのに、本を持つ手に力が籠もるのは、なぜ。
「そうですか。愛し子がいないと聞いていたので、てっきりそう思われたのかと」
「いや、彼女の愛し子は――……?」
否定が、止まる。愛し子はいる。いや、いたはずだ。だが、いなかったという事実が覆い被さってくる。
自分の意志ではない否定。生じるはずのない矛盾。だが、確かに愛し子はいたのだ。
彼女の唯一は。永遠を願うほどの相手は、間違いなく。
「どこで、それを知りましたか?」
「どこで……? ……本、本に、書いてあるはずです……そうでないと……」
「いいえ」
縋るように紡ぐ声を、否定する声が突き放す。紫は光を増し、容赦なく男を貫く。
鼓動が増し、耳鳴りが響く。疑問と共に湧き上がるのは、覚えのない恐怖。
その姿は、守るべき教え子ではなく……まるで、裁きを与える、精霊のように。
「その本のどこにも記載はありません。……女性とすらも、書かれていません」
「……ど、うして」
疑問は、自分自身に。そして、答えも自分の中にしかない。
わからない。だけど知っている。だって、彼女が泣いている声が聞こえるのだ。
ずっと自分を呼ぶ声が。待っていると泣き叫ぶ声が。ずっと、ずっと。
なのにどうして、自分はそれを……覚えている?
「司祭としては問題でしょうが……個人で考えれば、無数にいる精霊のうち、たった一人の正誤なんて問題ないはずです」
「……ち、がう」
「愛し子がいてもいなくても、女性でも男性でも、記載を正しく直すだけでいい。どれだけ興味があろうと、あなたには関係の無い精霊だ」
「違う……」
「あなたに加護を与えたのはデヴァス様だ。他の精霊は――」
「――違うっ!!」
叫び、否定する。その声を、その言葉をこれ以上聞くなど耐えられない!
他の精霊ではない。彼女だ! 彼女だけが!
「私は彼女のっ――!」
――私の、なんだ?
取り落とした本が姿を映す。似ている。だけど、違う。彼女はもっと温かかった。
よく笑い、よく泣いて、いつでも私のそばに。ずっと、一緒に居たいと。
その身が死にかけてもなお、傍にいようと……だから、だから……僕は……!
「グラナート様。……いいえ、もうこうお呼びするべきでしょう」
違う。その名前は、違う。その声だって違う。
僕の名前を呼んだのは。
僕を、選んでくれたのは――!
「カルーフ様は、ずっとあなたを待っていましたよ。――エパ様」
ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね等。いつもありがとうございます!
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。
発売中の書籍も、よろしくお願いいたします!





