02.精霊史
ノースディア王立学園。
入学金さえ払えるのであれば、身分の差は関係ない。下は平民から、上は貴族まで。剣術も魔術も、望めば大抵の知識を物にすることができる、若者たちが集う場所。
平民であればよりよい就職のため、貴族であれば必要不可欠な教養のため。
そして、十八を迎え成人してからは話す機会のない者との交流のために、この学園内に至ってはその壁は取り払われている。……というのが、表向きの名聞である。
平民が貴族へ話しかけることがあってもため口などあり得ないし、貴族も必要以上の敬意を払うことはない。それは当然であり、守られていないと騒ぐほうが異常だ。
貴族に対してもそうなのだ。その相手が王族で、それも第一王子となれば普通に接しろという方が無理な話。
他国であれば考えられない環境が実現しているのは、他でもないこの学園を設立した国王陛下の方針によるものだ。
国を支えるのは他でもなく民であり、そして未来を担うのは子どもたちである。その為にも必要なのは知識である。
庶民であればなおのこと、貴族であれば彼らの生活についても。要約すれば、共に学ぶことで見えてくるものもあるとお考えなのだ。
まだその狙いが形となってから数年。結果が分かるまで十何年とかかるだろうが、少なくとも言えることは一つ。
……この学園始まって以来、ディアンほど成績の悪い者はいなかった。
決められた席に座り、教本とノートを並べ、溜め息を押し殺す。たったこれだけの動作だというのに、鈍く痛む腹を押さえることは許されない。
模擬戦が終わってから十数分。服を捲れば赤黒く変色した皮膚が見えるだろう。当たり所が悪かった、だけでないことを証明されたところで痛みが和らぐはずもなく。
強い打撲だけで、内臓までは傷ついていないだろう。仮にそうであっても、模擬戦で受けた傷なのは全員が知っているし、罪に問われるわけでもない。
逆にディアンが傷を付けたとすれば大事になるかもしれないが、今までもそんなことはなく、そしてこれからも可能性は限りなく低いだろう。
それに、傷を負ったのはディアンが避けられなかったせいだ。受け流すなり、横に転がるなり、何かしら対処できなかったのが悪い。
伝えられる言葉は違うだろうが、自分の父親からはそう叱られるだけだ。
帰るまでにはマシになっていればいいが、今のディアンにできるのは時間が過ぎるのを待つことだけ。
そうしているうちに初老の男性が教室内に入り、賑やかだった室内が一斉に静まる。
真っ直ぐに伸びた背、規則正しく響く足音。この学園でもベテランと呼ばれている男は、その様子を一瞥すると早々に教本を開く。
「全員いますね。では、今日から新しい範囲に入っていきますが……簡単に創世記の復習から」
他の教師ならともかく、今さらそんな内容をと口に出さないのは、それだけ目の前にいる男が厳格であるからだ。私語などしようものなら、すぐに鋭い視線に貫かれることになる。
創世記。つまりは、この世界が造られた経緯について。人として生まれ、普通に育ってきた者なら誰もが知っている当たり前の内容だ。そして、それはディアンも例外なく。
幼い頃は昔話。成長すれば本。この世界に生まれ、生きていくかぎり聞き続けることになる。今のこれも、例外に漏れないということだ。
指名された生徒が読み上げる声と自分の知識を重ね、確かめる。
この世界には、かつて一つの光しか存在しなかった。
幾千、幾万。気の遠くなるほどの時間の中、いつしか光は自ら意志を持ち、形を変え、姿を持った。
それこそが創世主。精霊王、オルフェンである。
オルフェンはこの世界を造るため、まず自らの分身を二つ造られた。
その分身も各々の意志を持つようになり、姿を変え、名を変え。やがて宿す力も変わり、個として確立していった。
オルフェンは世界に様々な物を作られた。海、山、森、空。意志を持つもの、持たざるもの。動物、魔物、そして人間。
各々の祈りは精霊に通じ、その願いによって新たな精霊が産まれる。
そうして精霊同士が番い、子が生まれ……そうして、各々の役割を持つようになり、今も我々を見守ってくださっている。
「――そして、今もなお精霊たちの正確な数はわかっていない」
「よろしい。では後ろの者、今は概ね何人であると言われている?」
「はい、大精霊を含め八百です」
教師の許可がおり、生徒が座ると共に質問が飛ぶ。
そこまでの知識と思い浮かべた数字が合っていることを確認し、綴った文字を円で囲む。ここまでは、少し本を読んでいれば未就学でも分かる範囲のはず。
「結構。ではペルデ。大精霊の概要と、精霊王の除く大精霊の正式な数を」
激しく椅子が擦れる音と、裏返った返事。ペルデ、と呼ばれた少年は、その外見だけでは同い年とは思えなかっただろう。
色素の薄い茶色の髪。真っ直ぐに切られた前髪と、首に沿うように寝かせられた短い後ろ髪。あと少し髪が長く……そして、背があんなにも高くなければ、それこそ少女と見間違っていただろう。
いや、男らしく突き出した喉仏も誤魔化す必要があるか。
呼ばれると思っていなかったのか、垂れ目の中で瞳がひどく揺らいでいる。定まらない視線を持て余しながら、震えた声で紡がれる答えは可哀想に思えるほど。
「だ、大精霊とは、主に、六大元素を含み、わ、我々人間と関係が深い精霊で……」
六大元素。つまりは、火、水、風、土に光と闇をくわえた属性。そして、その六元素の他、人の生活と繋がりの深い者も同じく大精霊と呼ばれている。
どもる口から呟かれた数字はディアンの思っていた物とは違う。
自分の知識が間違っていたかと考えたのは、男からの訂正が飛んでくるまでの僅かな間だけ。
「基本中の基本だ、正確に覚えなさい」
「す、すみませんっ……!」
「では次の……大精霊全員の名称を」
「……はい」
恥ずかしさか、恐ろしさからか。勢いよく座る音に続いて、威厳のある声が響く。
知らず漏れる息は周りから。今だけその視線は、目の前の教師ではなくラインハルトに注がれていることだろう。
炎、水、風、土……淀みなく告げられる名は、ディアンの記憶とも相違ない。その数も、属性も、名前も。やはり間違ってはいないのだ。
「――以上です」
「結構。今述べられた大精霊も含め、彼らは精霊界から特別な門を通じて我々に加護を与えてくださっている」
一人も間違うことなく言いきった彼は、別段変わったところはない。他者が苦労して覚える内容も、ラインハルトにとっては常識と変わらないのだ。
そんな当たり前のことを褒められたところで、嬉しくもなんとも無いのだろう。
私語が許されているなら、また黄色い声が聞こえていたに違いない。
門、というのは精霊門のことだ。人間界と彼らの棲まう世界を繋ぐ入り口。各地に点在するそれは、特別な許可がなければ近づくことさえ許されない。
一番近くにあるのは城内にあるので、誤って罰せられることはないだろう。
通ったところで精霊界に着くのではなく、別の門まで移動するだけだ。使用できれば便利だろうが、緊急事態でもなければ使用することは許されない。それがたとえ王族であったとしてもだ。
そう、城内にあろうと、使用できる許可を出せるのは彼らではない。
「では、この門の使用権を持っているのはどこか」
教師と視線が絡み、すぐに逸れる。その意図を汲むまでもない。
「次は……では、アルフ」
「……はい、聖国オルレーヌです」
聞き慣れた嗤いがどこかから響く。順番でいけば、次はディアンが問われるはずだった。
飛ばされることも、そうして嗤われることも慣れたこと。それがディアンでも分かる内容でも、そうなるのが決まっている。
誰が教師でも、どんな科目でも。それは、この空間における暗黙の了承だった。
「どうせ答えられないものね」
「……そこ、私語を慎みなさい」
指摘が飛んでも音のない嗤いは止まない。
答えられるか、答えられないか。その二択であれば答えられる。実際頭の中に浮かべた回答は間違っていないし、続く補足も記憶の通りだ。
……それでも、試験で万年赤点を取っているのは変えようのない事実。
合っているはずなのに、いつだって及第点にさえ届かない。どこが間違っているかを確認したくとも、解答用紙も返されないので反省しようもない。
書く場所を間違えているのか、根本から間違えているのか。それすらわからないからこそ、この評価なのだろう。
それでも、合っている。合っているのだ。自分ではない口から述べられる回答全てが、ディアンの知識と相違ない。
「オルレーヌは最も精霊界に近く、そして繋がりが最も深い国である。そして、諸国でも数少ない女王陛下が治めている国でもある。建国から五百年以上、その統治が乱れることなく今に至るまで代は変わっていない。……ここまではいいな?」
幼い子どもならば嘘だと思うだろう。だが、実際かの聖国は初代から統治者の名が変わったことはない。
人間であればとっくに死んでいる年月だ。だが、治めているのが人間ではなく……精霊と人の間に産まれた唯一の混合種であれば、その理由も納得できるだろう。
完全な精霊ではないが、しかし人でもない。女王がなぜこちら側の世界に残り統治を行うようになったかは聖国の者でも知らないが、精霊に関することで問題があった場合は必ず聖国へと報告する義務がある。
一部を除き、各国に点在する協会はオルレーヌ聖国から派遣された者で、彼らはどの権力にも従うことはない。問題があれば協力はするが、基本的に中立の立場にある。
政治が絡めば更に複雑な話になるのだろうが……理解する必要があるのは、門を使用するにはオルレーヌ聖国の許可が必要である点だけ。
「お前たちも記憶にあるだろうが、規定の年齢を迎えた者は教会にて洗礼を受ける慣わしがある。これもオルレーヌ聖国と結ばれている協定の一つだ。次の者、規定の年齢は?」
「一度目が六歳、二度目が十八歳となります」
「そう。まず六歳で洗礼を受け、そこで加護を授かる。そうして成人を迎える十八の日に再び洗礼を受け、頂いた加護が相応しいかどうかを見極められる」
僅かに、心臓が跳ねる。責められているのでも、なじられたわけでもない。ただ、当たり前の事を当たり前に説明されただけだ。
この世界に住む者は、ほとんどが例外なく教会にて洗礼を受ける。主神オルフェンの像の前で跪き、祈りを捧げ。そうして、精霊の声を聞くのだ。
そして、囁かれた精霊の名を教会に告げ、自分がなんの加護を授かったかを伝えてもらう。
相手が大精霊なら名前だけで分かるが、必ずしも知っている精霊が加護を授けてくださるとは限らない。
中には存在すらも知らなかった精霊が、思わぬ加護をくださることもあるのだ。
だからこそ、教会に名を伝える必要があり、教会は何の加護であるか伝える義務がある。そのために、協会にはそれぞれ最低一人、精霊の名を一定数把握している者……精霊名簿士がいる。
他の役職と兼用していることもあるが、何百人といる彼ら全ての名を覚え、そして洗礼を受ける者の手続きも考えればそれだけでも重労働だ。
照合にくわえ、教会が保有している名簿に本人の名と精霊の名が刻まれるため偽ることもできない。
閲覧こそ協会の者と本人でなければ許されないが、改ざんもできないし、各地にある名簿にもすぐに共有される。これも精霊だからこそ成せる力であろう。
そうして加護を受けてからの十二年間で、真にその加護を授けるに相応しいかを精霊が見極め、第二の生……つまり、大人としての生を歩むことになる。
一度目の洗礼と違う加護を授かることも珍しくはないし、中には二つ同時に授かる者もいるようだ。
少なくとも一つ、最低でも一人の精霊から。どんな内容であろうと人間は加護を授かり、そうして生きていくのだ。
……だが、何事にも例外は存在する。
「洗礼を受けたのに加護を授からないということは、最初からその資格がないという解釈でいいんでしょうか?」
クスクス、耳を擽る不快な音。相手の口を塞ぐことも、自分の耳を塞ぐこともできない。そうするのは簡単だろう。だが、この話題はこの一時だけでないことを、ディアンはいやというほど知っている。
それこそ、最初に洗礼を受け……そうして、加護を授からなかった、あの日から。
「……授業に関係のない質問は慎むように」
「では、二十年前の戦争についての説明はあるんでしょうか」
「今回のテストの範囲外だ。話す必要はない」
恐れ知らずか。いや、教師もこの話には強く出られないと知って聞いているのだろう。
あからさまに寄せられる眉。だが、静止の声は心なしか覇気がない。
「ですが、精霊史としては関連性は高いかと。それに、関係者もいるのですから」
わらいが広がっていく。
間違っていない。間違っていないからこそ、咎めることはできない。
それが本来あるべき目的ではなく、ディアンを貶めるものであるとしても。それは、彼に止められるものではないのだ。
「……残りは問題を解く時間とする。全員問題集の五十二ページを開きなさい。以後、無駄話をした者は罰として精霊創世記についてまとめたものを提出するように」
授業の終わりが近いことに感謝したのは教師か、それともディアンだったのか。
収まったはずの声はこびり付いたまま。知らず吐いた息は重く、無数の筆記音の中に溶けていく。
……だが、終わりを告げる鐘の音が聞こえるまで、その幻聴が消えることはなかった。
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