383.悪魔の足音
翌朝になっても、メリアの怯え様は変わらなかった。
目覚めてすぐ、ディアンがいることに安心はしたものの、よほどダガンにされた仕打ちは恐ろしかったのだろう。
朝食もほとんど喉を通らず、説得して口にしたのは好物のスープだけ。それも、半分も残したのだから相当と言える。
父からも宥められたが、憂いが消えることはなく。見かねたゼニスが近くに寄っても、抱き上げないほどに。
仕事に向かった父こそ渋りながらも引き止めることはなかったが……少しでもディアンが離れようとすれば、途端に腕を掴んでくる。
どこへ行くのか、何をしに行くのか。一人にしないでと。
込みあげるままに不安を吐露し、怯える姿は普段の勝手な振る舞いが嘘のよう。
目の前にいるのは『精霊の花嫁』ではなく、襲われ怯えている、年相応の少女だ。
本当ならペルデの元に向かい、昨日の状況を共有したかったが……夢の中でも、彼女にとっては現実。
そんな妹を放置できるほどディアンも割り切れず、外出を諦め、今はメリアの部屋で精霊史の講義をすることに。
「失礼致します。その……お客様がお見えになっております」
恋愛が絡むフィリアかデヴァスとネロの夫妻はやはり気に入っているのか、最初は精霊と聞くだけで眉を寄せていたメリアにも徐々に笑顔が戻り、そろそろ手持ちが尽きかけた時に、その知らせは届いたのだ。
「……お客様?」
「父が不在の場合、追い返す決まりのはずだが」
ヴァンがいない際の来客は、基本的に騎士が対応することとなる。
先日来た遣いも、商会からの届け物も、基本的に先触れがある。
昨日の一件を考えれば、来たのは詳細を伝えに来た兵士だろうが……今のメリアに聞かせるには負担が大きい。
「昨日の事件であれば、父のいる場で改めてうかがうと伝えてくれ」
「いえ、それが……サリアナ殿下でございます」
「サリアナが!?」
ディアンの衝動より、メリアの反応が上回る。
失念していた。城からの帰りに襲われたなんて、彼女が知らないはずがない。
王家から遣わされた騎士やメイドが、追い返せるわけもなく。目的こそ明らかなら、ヴァンがいなくとも問題はない。
ゼニスと顔を見合わせ、視線だけで頷き合う。メリアが反応した以上、対峙は避けられない。
「ライヒも一緒?」
「サリアナ様のみです。昨日の見舞いに来たと……」
「……分かった。今は応接室に?」
「お通ししております」
自重したか、振り払ったか。ラインハルトがいないことはマシなのか、あるいは……。
普段なら駆け出すメリアも、今日ばかりはディアンの腕を掴んだまま。だが、早く早くと急かすように、その足取りは前へと進む。
早々に辿り着いた部屋の中、勢いよく立ち上がった影は、すぐにメリアの……いや、正しくはディアンの元へ。
「サリアナ!」
「メリア! 襲われたと聞いたわ。怪我は?」
手を取り、握り締めた腕は奇しくもダガンに掴まれたのと同じ側。
感触に記憶を呼び起こされ、収まっていた涙がみるみるうちに目を濡らしていく。
「わ、私っ……私……!」
「ああ、こんなに目が腫れて……可哀想に、ひどい目にあったのね」
ハラハラと泣き出したメリアを抱きしめる姿は、本当の姉妹のように。同じ精霊から加護を与えられた、という点では似ているかもしれない。
そもそも、フィリアから祝福された愛し子は彼女の姿に似るが……サリアナはネロの加護も賜っているので顔だけは似なかった。
そうでなければ、教会も早く気付いていたのかと。ありもしない可能性を考えたのは、一種の現実逃避か。
「わ、私、『花嫁』なのにっ……『花嫁』だから、って、お兄様が……!」
「ああ、そうね……メリアには、とても辛いことだったわね。でも、もう大丈夫よ」
痛々しく腫れた目元へ、柔らかな光があてがわれる。瞬く間に赤みの引いた目蓋はまだ濡れて、湿った睫毛が重々しく瞬く。
細やかなレースが施されたハンカチがあてがわれ、それから頬を包み。柔らかく微笑む姿は、知らぬ者が見れば美しく映っただろう。
絵画に描かれるような、精霊史の一場面のように。
先ほど、顔だけは似ないと言ったが……前言を撤回しよう。
その笑みは、間違いなくフィリアに酷似していたのだから。
「お城にあなたの部屋を用意したの。そこなら、もう襲われる心配はないわ」
ピリ、と走る痛みは首の裏から。嫌な予感が当たったと、僅かに詰まった息に気付く者はいない。
「お城に……?」
「殿下」
腕を差し込み、距離を取らせる。ああ、そうだ。この可能性も確かに考えていた。
これまでメリアが襲われなかったことを疑問に思っていたのと同じく、なぜ『精霊の花嫁』が城で保護されていないのかと。
できる限り、普通の人間のように過ごさせたいという希望から屋敷に留まっていたが、価値を考えればもっと多くの護衛が必要はなずだと。
現実では、ヴァンの意向と両親と離れたくなかったメリアの意志で却下された提案だ。
……だが、この夢で母は存在すらなく、離れる寂しさよりも恐怖が勝っている。
メリアが城で過ごすようになれば、『花嫁』としての教育が中断される可能性が高い。
いや、サリアナの狙いはメリアの保護ではない。
この数日でメリアがディアンに懐いていることは気付いている。その上で、メリアが何を言い出すかも分かっているのだ。
「以前もお伝えいたしましたが、城への移住についてはお断りしたはず。改めての提案であれば、父のいる場で……」
「いいえ! ギルド長を待っていれば、また同じ事が起きるわ」
「今回のことは、メリアが一人で行動した結果です。単独行動さえなければ、」
「ここでは守り切れないと、あなたも分かっているはずよ、ディアン」
言葉に詰まった時点で、反論はできない。サリアナの指摘は事実であり、真っ当な意見だ。
むしろ、これまで許容されていた方が異常である。事が起きた以上、王家として寛容できないのは当然の流れ。
……だが、今は自身も異常者として振る舞わなければ。
「メリア、部屋に戻っていなさい」
「いいえ、これはメリアが選ぶべきことだわ。……そうでしょう? メリア」
優しく、だが振り払えぬ強さで握られただろう彼女たちの手を剥がすことはできない。
物理的にも精神的にも道がふさがれ、焦りが募る。
「今までは何事もなく。今回も未遂で終わった。でも、次は? 今度こそ、もっとひどいことをされてしまうかもしれないのに?」
「わ、私……」
「殿下、メリアが怯えます。ようやく落ち着いたところなのに……」
「これも『精霊の花嫁』を守るためよ? 元凶を取り除かなければ、ずっとメリアは怖いまま。グラナート司祭だって、今回の事でギルド長を説得されるはず。そして、教会よりも、この屋敷よりも、安全なのは城しかないわ」
メリアを守るためと、囁く笑顔がより深まる。されど、その青は彼女ではなく、ディアンに注がれたまま。
メリアを案じているのではない。言葉も、行動も、全てはディアンに繋げるための全て。
「それに、教会ほどではないけど精霊史の本もたくさんあるし、私の兄にも、いつでも会えるようになるわ。ね? メリア」
何度も名を呼ばれ、その度に瞳を震わせ。サリアナからディアンへ向けられた表情は、縋るもの。
「お……にいさま、と、一緒なら」
頭の中で響く耳鳴り。肌を掠める魔力の気配。精霊に比べれば弱く、されど人には過ぎた力はディアンの記憶から呼び起こされた幻覚なのか。
サリアナの笑みが深まる。美しく、柔らかく、少女のように。それこそ、フィリアのように。
――やはり、狙いはメリアではなく、自分。
学園で会えないのなら呼びつければいい。
そして、常にそばにおける名分が手に入るなら、利用しないはずがない。
本来平民のディアンが城に住むなどあり得ないが、『精霊の花嫁』が望めば話は別だ。
『花嫁』の身の安全と、一人の平民の自由。天秤にかけるまでもない。
ダガンの件で怯えたメリアにとって、サリアナの言葉はあまりにも甘美。
従者区間に置かれる……なんて希望はないだろう。実質的な軟禁。行動が制限されれば、夢から醒める手段を探せなくなってしまう。
昨日の妨害は、まさか、自分の範囲を狭めるための罠だったのか?
「ええ、大丈夫よメリア。ディアンの部屋も用意してあるわ」
「殿下」
名を呼ぶことでしか抵抗できず、その程度でなぜサリアナを止められるというのか。
手を握られずとも、その視線がディアンを捉えて離さない。深く、強く。どこまでも透き通った、彼女にとって揺るぐことのない真実。
どんなに離れようとしても、ディアンは自分のものだと。
「護衛騎士になれば同じだもの。少し来るのが早くなるだけ。訓練も、魔術の練習も、城でならもっといい設備があるわ。メリアは守れて、あなたは実力を付けることができる。ね? 良いことばかりだわ」
「……いいえ」
明確な否定は、可能であれば避けたかった。この発言の重さを理解しているからこそ、最後の手段に取っておきたかった。
だが、今だ。今こそ使わなければ、エルドの元に戻れなくなる。
あの人の元に帰るために。共に、生きる為に。
「殿下。私は、」
「――そいつは騎士にならない」
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