364.二日目の朝
僅かな期待を抱いて開いた瞳が見たのは、自分を見つめる薄紫――ではなく、薄暗い天井だった。
夢を見ることもなく、眠気もなく。まるで定められたように迎えた二日目。ディアンはまだ、この世界に囚われたまま。
ペルデと別れてから眠るまでに特筆することはなかったが、それこそが異常と言える。
自分の知る父なら、まぐれであろうと殿下に勝ったなら話しかけてきたはずだ。
決して褒めることはなくとも、訓練を怠るなと。もっと精進しろと。
教師や他の者を通じ、ディアンの行動を把握していたのだ。
それなのに小言一つなかったのは、むしろ面倒でなくてよかったのか。あるいは、これも手がかりの一つなのか。
明確な変化と言えば、見逃せないモノも一つ。
「おはよう、メリア」
入室するなり顔を強張らせた妹の態度は、昨日に比べれば睨み付けてくるだけマシだ。
昨日は頑なに目を合わせようとしなかったのだ。会話できる状態ではなかったし、ディアンから話題を振ることもほとんどない。
ヴァンがいない今も同じく。
「……お父様は?」
「ギルドの関係で先に行った」
頻度は多くなかったが、会議や討伐の関係で時間が合わないことは記憶にも残っている。
基本的に揃って食事を取るのがエヴァンズ家での決まりだが、本来なら母が座っていた席はそもそも用意されておらず。二人きりの食事は初めてのこと。
メイドや護衛の冷たい視線だけはいつも通りかと笑いかけて、妹の機嫌を損ねるだけと表情を正す。
といっても、目つきを見る限り、もう手遅れのようだが。
「どういうつもりなのお兄様」
「……どうって?」
「その目! 昨日からずっとおかしいじゃない! なのに、なんでお父様もみんなも言わないのよ!」
突き刺さりそうな勢いで指を差されてもメリア以外には見えていない。
いや、メイドたちが気付いたとて今さらだ。夢の整合性を高めるためには、気付いていないフリを続けなければならない。
あるいは、他の目的のためにあえて無視をしているのか?
だとすれば、本当の狙いは?
「聞いてるの!?」
「聞いているよ。それより……」
流れるように嘘を吐いても、続けようとした言葉は途切れる。
普段……いや、当時の自分なら早く座るように言いつけ、余計に怒らせていただろう。
そうしてメリアがひどいと喚き、同席した母が咎め、夜には帰ってきた父に怒られる。
思い出すまでもない流れだ。フィリアの加護も大きいが、それだけのせいにはできない。
あの頃の自分は、メリアを『花嫁』に相応しい態度を取るように常に叱りつけていた。
今思い返しても言い方はともかく悪かったとは思わないし、指摘自体は適切だったと思う。
父も母も含め、誰も咎めないなら自分だけでも言わなければと、気が張っていたのもあるだろう。
口を噤んだのは、彼女が本当の『花嫁』ではないと知っているからか。
……あるいは、所詮夢だからか。
本来ならもう会うはずのなかった家族。繰り返すはずがなかった過去。彼女が本物であれ、偽物であれ、教育を施しても結末が変わるわけではない。
剥奪された加護が戻るわけでも、幼子のようになった精神が戻るわけでもない。すべては終わったこと。
諦めと共に抱く、懐かしさとは違う感覚の正体を、ディアンは分かっている。
薄桃色の光が煌めく金の髪。新緑を思わせる緑の瞳。その顔つきも、声も、よく似ている。
……いや、正しくは似ているのは彼女ではなく、メリアの方。
「なによ。なにが言いたいの」
「……いや、本当に似ていると思っただけだよ」
メリアが席を着くのを待たずにナイフを手に取る。
昨日も空腹は感じなかったが、逆に満腹感は得られるかの確認のために、目玉焼きが刻まれる。
「誰によ」
「フィリア様だよ」
「誰よ、フィリアって」
ぷつ、と破れた黄身がシミを広げ、瞬く間に皿の上が汚れていく。誤った手元から顔を上げたディアンの紫がパチリと瞬いて、思考すること、数秒。
いや、そうだ。不思議なことではない。ただ、ディアンが忘れていただけだ。
メリアは最初の精霊の名前すら覚えていなかった。なんなら、オルフェン王ですらわからない可能性もある。
読み書きはできるが、精霊学も魔術も、学園で教わる範囲だって彼女は覚えていないし、そもそも学んですらいない。
勉強を嫌がる彼女を叱りつけたことは覚えていたのにと、忘れていたこと自体に衝撃を受けて。思い出せば、浮かんだ疑問だってすぐにほどけていく。
自分を加護する精霊すら覚えていない、なんて批難も消え失せた。この頃はまだ、誰から加護を授かっていたか知らなかったのだ。
だから、どんな精霊でもいいようにあらゆる知識を備えておくべきだと咎めて……結局、覚えることはないまま。
「精霊王の作られた最初の分身の一人である、愛の精霊だ。その美しさで様々な存在を虜にした逸話が残っている。有名な精霊だから、メリアも読んだことがあるはずだ」
「あ、あたりまえでしょ、知ってるわよ!」
「そうだね。『精霊の花嫁』であるメリアなら、僕よりもよく知っているだろう」
次に来る言葉は予想できている。
ひどいと喚いて責めるか、馬鹿にしていると怒るか。どう返事をしても怒らせるだけと、パンを千切って黄身に浸す。
「そっ……そうよ! どうせお兄様はライヒやサリアナから聞いただけでしょ! 私の方が知ってるんだから!」
僅かに口に運ぶ動作が止まり、すぐに舌に乗せて思案する。
記憶とは違う返答。予想と異なる動作。明らかな虚勢も、見える焦りも、これまでとは違う。
……いや、違うのは自分の対応の方だ。
いつもの自分だったら、ここで彼女を咎めていたはずだ。
『精霊の花嫁』なのだから覚えなければいけないと。そうでなければ、嫁ぐに値する知識は備わらないのだと。
だが、責められることをなによりも嫌う彼女が怒る流れは、ディアンの小さな諦めによって変わっている。
今の彼女は、知らないことを言い出せなくなった小さな子どもと同じ。
そんな子どもの嘘を指摘するのは大人げないことだ。
……ああ、そうだ。まさしくメリアは、幼子と一緒。
身体が成長しても、その中身はずっと楽しいことだけをしていたかった少女のままだ。
そう思うと、今度は困惑する。小さな子どもの相手なんて記憶にない。
ノースディアにいた頃は元より、旅の間も実際に対応していたのもエルドの方が多かった。
そのエルドは、どうやって子どもたちに接していたか。
「…………なら、僕が帰ってきたらメリアに教えてもらおうかな」
「はぁっ!? なんで私がそんなことしなくちゃいけないの!?」
「僕よりも知っているメリアなら、誰も知らないことも教えてくれると思ったんだけど。……それとも、本当は知らない?」
「し、知ってるわよ! 当たり前でしょっ!?」
反射的に声を荒げたメリアに対し、ディアンの声は穏やかなまま。普段なら煽るような発言も控えているが、今回はそれで合っていたようだ。
これも、ディアンの願望が反映されたのか、整合性の力であったのか。
騒がしくとも、普段の癇癪に比べればマシなのは間違いない。
「そうか、よかった。じゃあ、僕は行ってくるから」
無意識に触れていた首飾りから指を離し、メリアの返事も聞かないまま席を立つ。
記憶が正しければ、フィリアの逸話も書庫に揃っていたはずだ。調べる方法はいくらでもあるが……メリアがそこまでするとは考えにくい。
ただの一時しのぎだ。帰ってからこの話題を掘り返すつもりもない。
そう、本当に子ども騙し。エルドならもっとうまくできただろうにと笑う唇は、狭まる眉のせいで歪なものだった。
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