35.??? ★
「――本当に娶るつもりですか」
先ほどまで周囲を暖かく照らしていた光は消え、刺すような冷たさが満ちる洞窟にグル、と唸る声が響く。
僅かに差し込んだ月明かりに反射し輝く毛皮は、猟師から見れば垂涎ものだろう。汚れ一つない白。艶やかな尻尾。手触りもさぞいいだろうと、競って矢を向けるに違いない。
その程度で捕まるような存在なら、男のそばにいることも許されなかっただろうが。
なぜ獣が喋れるのかと、疑問に思う者もいない。
音もなく火がともり、消えたたき火が再び熱を吹き返す。
問いかけられた男の返答はなく、その視線はすぐそばで倒れた青年に向けて。
圧迫感に耐えかね、気を失ってしまったその顔に浮かぶ汗を拭う手つきは優しく、慎重に。表情こそ険しいが、それだけでも労っていることは十分に。
「……しかたないだろ、見かけちまったもんは」
「見かけて助けるだけなら、洗礼を受けさせる必要はなかったはずでは」
己を見ようとしないのは、それが失策だと自覚しているからだと。無理矢理視界に入り込む獣の表情は、今にも男を食い殺さんばかり。
わざと吐き出した息は大きく、大袈裟な態度はそれ以上の追求から逃れるためのもの。
だが、その程度で許せるなら、そもそも怒ることもないのだ。
倒れた青年を守るよう、身体の下に匿う獣がもう一度唸る。再び吐き出された息は演技ではなく心の底から。
乱暴に掻いた頭に引っかかる髪は多く、長さもそう意識していなかったせいで不快だ。清潔さこそたもっていたが、手入れをサボっていたツケがここに来たらしい。
今まさに、獣に守られている青年が最初に男を警戒したのも……この外見が関係していないとは言いきれない。
「……迎えるか迎えないかはともかく、こうなっちまった原因はこっちにもあるだろ」
「負い目があったなら聖国まで同行するだけでよかったでしょう。適当に言いくるめて護衛するなり、教会に身元を渡すなり。いくらでも方法はあったはずでしょう。迎えだって来ていたのに、それを逆に追い返すとは……」
正論は突き刺さり、息さえ出ない。その選択肢が浮かばなかったわけではないし、その方がいいとも男は理解していた。
少なくとも、こうして洗礼を受けさせ……自ら加護を与えるのが最善だったとは思わない。
「正式に洗礼を受けさせれば、他の者が相応しい加護を――」
「そして、一度目と同じ過ちを犯せと?」
火が揺らぐ。感情で物質が動くはずもないのに、その怒りに反応するかのように。
咎めた口が噤み、見下ろす紫は冷たさを増す。
十数年。人にとっては長い時間は、彼らにとって一瞬も変わりない。だからこそ鮮明に覚えている。
誰も加護を与えることを許されず、自身も拒み、その結果この少年――今は青年となったこの子が、どれだけ傷ついたことか。
誰もが平等に加護を授かる権利がある。どれだけ濁った魂であろうと、不確かな形であろうと、例外は存在していなかった。
いつものように拒否すれば、誰かが加護を与えると。それで父も折れると……それがここまで拗れてしまったのは、全ては男たちの事情でしかない。
勝手に婚姻を結んだ父親。残された方が可哀想だと過剰に加護を与えた妹。いつも通り流せば終わる話だと、意地になって加護を与えなかった自分。
……これらのどこに、この青年の落ち度があったというのか。
「二度目こそは誰かが与えるなんて、そんな保証はどこにある?」
「贖罪のつもりならば、洗礼など関係なく無理矢理にでも授ければよかったのです。今、ここで、こんな形で与えてしまうぐらいならば! これがどういう意味が、あなたが一番理解しているはずでは!?」
唸る声は足元から。声に反応したか、獣の発する圧に耐えられなかったのか。
途端静まり、上から退いた青年の顔は苦しそうに歪められたまま。
「……分かっている。だが、今さら取り消すこともできん」
取り出した布で汗を拭い、張り付いた前髪を払う。そっと流し込んだ魔力に身体は弛緩し、寄せられていた眉がそっと距離を離す。
揺れることのない目蓋。その奥で男を見上げていた光を思い出せば、抱くはずのなかった感情がじわりと込み上げる。
そう、言われたとおり。加護を与える必要はなかったはずだ。あれやこれやと並べているのは全て言い訳。正当性などなく、言いくるめようとしているだけ。
抑制しきれなかった欲望は、男自身も想定していなかったものだ。なぜ今さらなのかと、そう問いたいのは自分自身に。
男はただ、様子を見に来ただけのはずだ。自分たちの都合で加護を与えられなかった少年が成人を迎えるから。自分たちの都合で巻き込んでしまった彼が、どのように過ごしているか確かめたかったから。
どうであろうと助けるつもりはなかった。様子だけ見て、万が一加護を与えられる様子がなければ仕方なくと。そのはずだった。そうするつもりだったのだ。
……まさか、こんなにも悲惨な状態になっているなんて。思ってもみなかったのだ。
否、予想はしていた。けっして幸せな人生は送れていないことなど。何かしらの迫害を受けていることは、一度目の洗礼の時から分かっていたはずだ。
人並みの人生は送っているはずだと。そんな、都合のいい考えで今日まで放置していたのは……誰でもない、男自身。
いっそ来なければよかったのだろうか。それとも、己に付き従う従者の言うとおり、もっと早く来ればよかったのか。
答えは出ず、穏やかな呼吸が戻ってもその身体から指は離れないまま。そっと頭を撫でる手つきは、労るものとはまた違うもの。
「それに、こいつも言っただろ。悔いの無い人生を送ると。なら、どう選択するかはこいつ次第だ」
「加護を与えておきながら、娶るつもりはないと?」
「……無理強いするつもりはない」
青年から離した手が枝を折り、たき火の中へと突っ込んでいく。パチリと爆ぜる音は、心地良ささえ与えても獣を納得させることはなく。
「……お父上が納得されるとは思いません」
蒼が見つめる先、適当に造った像が男の手の中に戻る。雑に削られた表面は、記憶と照らし合わせても全く似ていない。髭はうまく表現できているが、そこに男を見下ろす威圧感もなければ五月蠅い小言を発することもない。
……だからこそ、その化身を炎に放り込んだって、怒られることもなく。
「納得しようがしまいが、俺はこいつの意見を尊重するし、それに異を唱えることは許さない。どちらにせよ、もうこの国に置いとくわけにはいかないしな」
「どこかの無責任な男のせいで、ですね」
「そうでなくてもだろ」
返される声がないのがなによりの肯定だ。どのような経緯でこうなったか、推測こそできても真相は未だわからず。
揺るがないのは、この青年を聖国へ連れて行くことだけだ。別の国に行きたいと言われなくてよかった。そうなれば、本当に教会へ引き渡すことになっていた。一番早く、確実な手段で。
……だが、せっかく手に入れた自由を早々に手放させてしまうのは、あまりに酷ではないか。
「暫く見逃せ、ゼニス。……ほんの数ヶ月だけだ」
口調こそ柔らかくともそれは命令であると。名を呼ばれた獣は理解し、小さく息を零す。それは飲み込んだ怒りか、呆れか。あるいは、諦めだったのか。
「……初めての愛し子に、現を抜かさぬよう」
絞り出した苦言も、青年を見つめる視線の柔らかさには到底敵わず。たき火の前で伏せ、文字通り目を瞑った獣がもう言葉を発することなく。
安らかな寝息が響く中。燃え盛る像の様子を、薄紫は静かに見つめていた。
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