354.☆かつての『花嫁』と王子様
今回と次回は、他者視点のお話です。
「……よし、今日はここまでにしよう」
終わりの合図と、本を閉じる音。
二つが揃えば、男の前に座っていた子どもたちが我先にと立ち上がり、駆け寄ってくるのはいつものことだった。
「勉強は終わりなんでしょ? じゃあ遊ぼう!」
「ニールはこの間遊んでもらっただろ! 今日は僕の番だよ!」
「ずるいよ! 私も先生と遊びたい!」
腰にしがみつかれ、子どもたちの明るい声が重なり合う。
初めの頃は戸惑い、時には苛立ち。だが、今では笑って受け止められるほどには慣れてきた。
それは、男にとっては良い変化であることは間違いなく。
「すまない。今日はまだやることがあるんだ。遊ぶのは、また今度にしよう」
「え~!」
「先生、前もそう言った~!」
「また大人たちに呼ばれてるんだろ? 先生は人気者だから、仕方ないよ」
「あ! 先生、俺が開けてあげる!」
時間に余裕があれば、実際に遊んだことも何度か。
だが、今日は頼まれごとがあったと思い出し、抱きついている子どもの頭を軽く撫でる。
拗ねながらも解放するあたりは素直だ。ここにいるのはいい子ばかりだと、もう一度謝罪を口にすれば、一人が駆け足で扉を開く。
その間に他の子どもが男の荷物を手早く纏め、鞄を持ってついてくるのも、すっかり馴染みの光景。
自分でも難しくないが、彼らの好意を無下にする必要もなく。お礼を言うだけで嬉しそうに笑う純粋さが眩しくて目を細める。
男は早々に手放してしまったもの。手放さなければならなかったもの。……だからこそ、惹かれてしまったもの。
「先生、さようなら!」
「さようなら。転ばないように気を付けるんだよ」
「――ああ、先生! まだいてよかった!」
言ったそばから躓きかける姿に焦り、顔を緩め。自分も急がなくてはと動かしかけた足は、呼びかけられた声で留まる。
眉が寄ってしまったのは、未だに慣れない呼び方のせい。
「先生はやめてください、ブッチさん。子どもたちは仕方ないにしても、皆さんからそう呼ばれるのは……」
「いやぁ、あの子たちのが移っちまって、ついな」
悪い悪いと言いながら、改善することはないだろう。
男が来た頃は名前で呼ばれることが多かったが……子どもたちに教え始めた頃から、先生呼びが大人たちにも伝播してしまったのだ。
単純に、彼が住民たちの悩みを解決し、その博識さを惜しみなく活用していることも関係している。
これも受け入れられた証拠かと諦めるしかない。
「どうしたんですか? また山羊に柵を壊されたとか……」
「違う違う、この間の礼をしようと思ってな! 店に運んどくから、みんなで食べてくれよ」
倉庫の片付けを手伝った時のことだろう。
と言っても、男がしたのは配置や棚を付ける提案で、作業の大半は彼自身で行ったものだ。
本来なら、若手である自分が率先して行うべきことだが……この腕では逆に邪魔になるだけ。
「大したことはしていません。力仕事ができない分は、せめて頭を使わないと。……でも、ありがとうございます」
できることと言えば相談に乗り、些細な問題を解決する手助けをする程度で、ここまで感謝されることではない。
だが、お礼を断っても押しつけられるのはいつものこと。
そして、いただける物もまた、今自分たちがお世話になっている家人たちへの謝礼になる。
なにより、この好意もまた、無下にする必要はないもの。
「先生たちが来てからもう一年だろう? あれから色々とあったけど、みんな先生に感謝してるよ。ありがとうな」
僅かに男の顔が強張る。
忘れていたわけではないが、改めて明確な時期を言われれば、嫌でも意識するというもの。
一年という、長くも短い月日。もうと称するべきなのか。それとも、まだと言うべきなのか。
「いえ、私たちの方こそ……快く受け入れてくれて、どれだけ救われたことか」
「これも精霊様の思し召しだ。実際、先生は俺たちの生活を良くしてくれたし、メリアちゃんもいい子だ。本当に、ライ先生には感謝してるんだよ」
繰り返し感謝を伝える男に、ライ――否、ラインハルトは、なにも言えずに笑うしかできなかった。
自分たちから加護が失われ、メリアが狂ってしまった日から、もう一年。
どうして自分たちがこの地へ辿り着いたか、ラインハルトは覚えていない。
メリアを助けたいと。その為なら、なんでもできると。彼女は、自分の全てなのだと。
そう強く抱いたことだけは覚えていて……気付けば、こうなっていた。
自分たちを助けてくれた老夫婦の話では、眩しい光に覆われ、気付けば地面に倒れていたらしい。
それこそ、精霊でもなければ説明がつかない現象だ。
他の地なら早々に追い出されていたが、ここはノースディアでも精霊信仰の深い地、エヴドマ。
皮肉にも、精霊に召された伴侶が集まったという山に構えたこの街で、『精霊の花嫁』と呼ばれていたメリアとラインハルトは、生きながらえることになったのだ。
全てが順調だったわけではない。
突然現れた自分たちに向けられる不審な目。
平民どころか農民としての生活。利き腕を失ったことへの不便さ。不定期に襲いかかる幻肢痛。
なにより……自分の存在を思い出せず、存在しない『精霊の王子様』を求め続けるメリアを宥め続けることは、ラインハルトの精神を削っていった。
それでも耐えられたのは、同時にメリアの存在があったからだ。
彼女が生きている。生きて、自分のそばにいる。
たとえ覚えていなくても、かつての姿を失おうとも、ラインハルトにとってメリアが生きているだけで、自身の存在理由になったのだ。
美しい金の髪を失おうとも、新緑を思わせる瞳が黒に染まろうとも、陶磁器のように白かった肌が浅黒く変わろうとも。
彼女がメリアである事実だけが、全てだったのだ。
旅の間に気が触れてしまった妹と、彼女を献身的に支えてきた兄という図は住民たちに受け入れられ、今では先生と呼ばれるまでにもなった。
最初に助けてくれた老夫婦が営む食堂で、メリアを働かせてもらえていることも助けになった。
まるで娘ができたようだと喜び、根気強く教えてくれた彼らには頭が上がらない。
通常なら、閑散としているこの町で、見知らぬ者を養う余裕はなかったはずだ。
急激な人口と需要の増加。むしろ人手が増えてよかったと感謝され、喜ぶべきことのはずだ。
だが……それは、あくまでも小さな視点でのこと。この国が崩壊したことは、紛れもない事実。
一年前。『精霊の花嫁』の一件が明らかになると同時に、誓約を破った精霊の怒りによって、ノースディア全域にある精霊門は閉ざされた。
ごく一部の、関わりの深い場所のみ解放されたが、それもエヴドマを含めて数える程度。
門が閉ざされれば、魔力の循環は止まる。魔力が供給されなければ、土地は死ぬ。
実際、まだ一年だというのに枯渇した地区があると囁かれているのだ。時間が経つほどに、民も噂ではなく真実と知るだろう。
再び門が開かれるのは、百年も先。解放されるまでは、聖国が統治を行うことも教会を通じて全世界に周知された。
そうさせないために。そうならないために、ラインハルトは王になるはずだった。
記憶に残っている限り、ラインハルトの父は確かに王であった。
悪政を敷かず、英雄として国を救い。何事もなければそれ以上の功績を立てることなく、粛々とラインハルトに王位を譲っていただろう。
民に聞いたなら、英雄であった以外の印象は聞かないはずだ。
かつての栄光が大きかったこともある。だが、サリアナが本性を見抜いたように、ラインハルトも彼の影を見ていた。
少なくともダヴィード王は、精霊に怯えていた。
本人は隠していたつもりだろうが、夜な夜な悲鳴をあげ飛び起きたことは数え切れないほど。箝口令が敷かれていたが、近しい者なら誰も知っていたことだ。
それほどまでに、精霊との対面は深い傷を植え付けた。
精霊に怯えていると、そう知られること自体に怯え。誰に零すこともできず。
実質的に聖国に支配を受けている以上、教会を否定することもできず。
王として。愛し子として。畏れる存在からの支配を甘受するしかできなかった。
だからこそサリアナの力に怯え、数々の愚行に及んだ。
畏れるあまり、サリアナを女王へと推す声を強固に退けたことだけはラインハルトも評価できただろう。
もしあの女を即位させていれば、それこそ……否、滅んでしまった今となっては同じこと。
この世界は精霊信仰主義だ。
精霊の思し召しで生かされ、殺され。生殺与奪の権を握られている以上、彼らを崇めることを強要された世界。
加護を授けられたと言いながら、恩恵を感じることは無に等しく。結局は、選ばれた者だけが栄光を浴びることが許される。
在り方に疑問を抱こうと、口にすることすら許されない。精霊の目は常に自分らを監視し、人間を支配しようとしている。
それはもはや、家畜も同然ではないか。
だからこそ、ラインハルトは王位に就く必要があった。
どれだけ苦しくとも、いかに辛くとも。その全てが、愛する彼女に繋がると信じていたからだ。
いつだってラインハルトは比べられ続けてきた。
自分よりも優秀だと囁かれ、実際に叡智を得ていたサリアナ。
今はその面影はなくとも、英雄と呼ばれた父の、過去の栄光。
どれだけ努力しようとも、後には決まって妹の名を囁かれる屈辱。失意に落ちる日々を、唯一助けてくれたメリア。
本当は、彼女こそを助けたかった。民でも、国でもなく。
盟約に縛られ、自分の意思とは関係なく精霊界に連れて行かれる彼女を。彼女が幸せである日々を守りたかったのだ。
許されないとわかっていた。結ばれようとは思ってもいなかった。
自分だけが愛していることは、最初から理解していた。
愛に溺れようと、王族としての理性は失っていない。仮にメリアが『精霊の花嫁』でなくとも、平民と結ばれることは許されない。
元より、王族としての立場が、ラインハルトを許すことはなかった。
それでも、取り得る最善を。最大の努力を。
民が望む理想の王となり、精霊界から見守り続ける彼女に恥のない国を築くのだと。
――だが、結局は聖国の思い通り。
ノースディアは故国となり、歴史は失われ、英雄たちの栄光も嘲笑と怒りに呑まれた。
大半の民は他国に避難しているが、一部の地域では門は設置されたまま。
このエヴドマも、避難民が集まった結果、町と呼ぶに相応しい規模にまで発展した。
幸いなことに、エヴドマに集まった避難民は地方の者ばかり。
名前は知られているが、実際に顔を見た者はおらず。また、メリアに至っては外見が異なりすぎるため、同一と思われることもなかった。
全てが重なった結果、ラインハルトたちは生き延びることができたのだ。
もちろん、全てが幸運だけとは思っていない。
エヴドマにも教会はあるし、批難に伴って聖国から遣わされた騎士も多い。
正体を知りながら言ってこないのは、ラインハルトたちの存在を黙認しているのだ。
実際、利き腕を失ったラインハルトと、幼子のようになってしまったメリアが、なにかできるわけでもない。
精霊自ら罰を与えたことも、彼らの制止となっているのだろう。
とはいえ、彼らにとってラインハルトたちは罪人。監視と引き替えに見逃されている事実に、苛立ちを抱かないと言えば嘘にはなる。
だが、ここを出て生きられるとは思えない。元より……どんな状況であれ、メリアさえ無事なら、ラインハルトはよかったのだ。
確かに思い出すことはある。今後一生、忘れることはないだろう。
所在も知れぬ父親のこと。精霊によって罰せられたというサリアナ。そして――あの、紫の瞳。
かつて加護なしと罵り、蔑んだ存在。メリアを虐げ、努力もせずに成果を欲していたと思っていた、あの男。
当時の異様なまでの苛烈さこそ薄れている。抱いていた感情が、幼い頃の嫉妬やサリアナの当てつけもあったことも否定しない。
正しく評価されていたなら、それこそ……かつて恐れていた通りになっていたかもしれない。
サリアナにも、あの男にも劣ると。王としては相応しくないと。
そうして、メリアに失望されると。
実際、ラインハルトはあの男に勝っていたかわからない。あるいは、最初から鱗片は見えていたのか。
あれは人ではなく、バケモノだと。だからこそ、同じくバケモノであるサリアナが欲したのだと。
だが、今となってはどうでもいいことだ。
確かに言えるのは、最後の最後までメリアを苦しめたあの男を。
身勝手な恨みと自覚していようと。ほんの僅かに残った理性が正気を訴えようとも。
ラインハルトは決して、ディアンを許さないということだけ。
「先生? 腕が痛むのか?」
話しかけられ、掴んでいた腕から手を離す。
本来触れるはずの感覚がないと確かめる度に、嫌でもラインハルトは思い出すだろう。
自分たちの行いも、ディアンへの怒りも。そして、メリアの幸福を。
「……いえ、大丈夫です」
「無理はしないようにな。子どもたちだって、先生に何かあったら――」
「――イ! ライ!」
この町で名前を呼ぶのは、住まわせてもらっている食堂の夫婦と、今は冒険者をやめて故郷に帰ってきた彼らの息子たちのみ。
彼が騒がしいのはいつものことだが、普段と異なる様子に胸が騒ぐ。
今日は恋人と一緒に食堂を手伝っているはずだ。そして、そこにはメリアもいる。
勘違いであれと、逸る気持ちを抑えつけ。されど、伝えられた言葉はライヒの予感を肯定するものだった。
「大変だ、メリアが倒れた!」
「メリアちゃんが? な、なにがあったんだ!?」
「わかんねぇよ! 普通に歩いてたらいきなり――あっ!」
頭部を殴りつけられたような衝撃は、呼吸すら奪うほど。
駆け出した足に纏わり付く空気が重い。
一秒でも早く、彼女の元に向かいたいのに。
彼女のそばに。自分の唯一の元に。
メリア、メリア。メリア!
なぜ、どうして! ああ、ああ!
自分にはもう、彼女しかいないのに! 彼女さえ幸せであれば、それでよかったのに!
地位も、名誉も、加護も。なにもかも失ってなお、絶望しなかったのは彼女が生きていたからなのに!
「メリアッ!」
床に伏せた黒髪。折れそうなほどに華奢な手足。白い肌は、まるで本当に血が通っていないように青く。血の気が引く音が、鼓膜を撫でる。
「ダメですライさんっ! お、落ち着いてっ!」
踏み出した足が、ミルルに腕を掴まれて遮られる。
「様子がおかしいんですっ! 黒い靄が纏わり付いててっ、近づいたらライさんも――」
「うるさいっ!」
喚く声も、誰かの制止も、すべてが雑音でしかなかった。
彼女を助けないことへの苛立ちと、なおも近づくことを妨害された怒りと。
感情のままに振り払ったライヒを誰も止めることはできず。
抱き起こした身体の冷たさに息を呑み、まるで死人のような表情に鼓動が止まる。
されど、聞こえる安らかな寝息に生きているのだと理解した身体から力が抜けた。
……いや、それは紛れもない眠気であった。
重くのしかかる、抗いがたい倦怠感。
異常だと理解する思考すらも溶けて。なにが起きているのかと、抱いた疑問すらもほどけていって。
光が奪われ、まるで夜が降りてきたように。穏やかな眠りに引き摺り込まれる。
閉じていく視界の中。映るのは忌々しい蒼と、愛おしいメリアの姿。
聞こえるのは、誰かが自分を呼ぶ声と、彼女の安らかな寝息。
「あなたも、一緒に――」
……そして、穏やかで優しい、誰かの囁き。
それが、ラインハルトが認識した最後だった。
<!-- メリアの加護がなくなった関係でちょっと穏やかにはなっているけど、根本にあるものまでは変わらないですよねという話です -->
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