34.二度目の洗礼
「よし、いい返事だ」
胡座から足を下ろされ、自由になってもそれどころではない。
傍らで眠っていた獣さえも吠えて止めるぐらいには訳の分からないことを言われた気がする。
「いや、そういう意味では……というか、今なんと?」
「ここで受けりゃいいだろ、洗礼」
「話聞いてました?」
靴を戻しながらも否定はしっかりと。だが、さも当然と言わんばかりに返ってきた答えに耳ではなく相手の正気を疑うのは許してもらいたい。
洗礼を受けたくないと言って、じゃあ洗礼を受けよう……とはならないはずだ。普通なら、普通であれば。
いや、この男が普通かどうかはさておき、許容しがたい状況なのは間違いない。
「聞いてたからやるんだろ。……しー、吠えるな吠えるな」
なおも否定され、矛盾する答えに頭が回らなくなる。いや、どう考えても繋がらない。一体なにがどうしてそうなったのか。
もう一度吠えた獣を息の音で制しつつ、積み上げていた枝から太いものを引き出す。そのまま取り出したナイフで掘り始める動きに迷いはない。
「これでも資格持ちだからな、洗礼ぐらいはできる。それに、本来なら受ける場所も時間も決まっちゃいないんだ」
「……そう、なんですか……?」
そんなの、司祭様からも聞いた覚えはない。いや、教会が設立される前はそうだったかもしれないが、それでも最低限の決まりがあったからそう定まっているはずで……。
「教会側で決めとかないと延々に終わらないからな。ひっきりなしに来られても対応できんだろ。それに、聖像がある方がイメージしやすいってのもある」
「それは……そう、ですけど」
地方ならともかく、王都なら人足は途絶えない。隔てなく受け入れるとはいえ、人間である以上限度がある。
ただの祈りだけならまだしも、洗礼には手続きも伴う。来て受けて終わり、というわけにはいかないのだ。事務的な面で決められているのは、確かに納得はいく。
「日が沈んでいようが昇っていようが、精霊側には関係ない……っと、ほら」
とても教会関係者とは思えない発言が出たところでなにかを差しだされる。
手のひらサイズの木彫り。ナイフで付けられた凹凸は、よくよく見れば人のように見えなくもないが……。
「聖像の代わりの精霊王だ」
「罰が当たりますよ?」
……まさかと思ったが、やはりそうだった。
即席にしてはよくできているが、こんなの教会の者が見たら激怒ものだ。
いや、作ったのは同じ従事者だが、それにしたって扱いがひどい。これならない方がマシではないだろうか。
「まだダメか? ……あぁ、髭が足りなかったか」
否定を不満と捉えたか、木彫りと睨み合った男が更に業を重ねていく。どう見たってそこは口とは思えないし、やはりただの凹凸にしか見えない。
これが精霊王だと言われて何人が納得するだろう。いや、売り物でないから許されるのか?
それとも、聖国では実はこういうのが主流……?
「これでどうだ。今なら火も付けるぞ」
「いや本当に怒られますよ!?」
前言撤回。一体この世界のどこに、精霊王に火を放つ聖国従事者がいるのか。
似ていないし信じられないが、精霊王だと断言した後でそんなことをすれば本気で罰が当たる。むしろよく今無事でいられるものだ。
これが教会上部……女王陛下のそばにいる者だからこそ許されているのか……許されるほどの地位にいるのか……。
……そんな相手が、本当にどうして、こんな場所にいるのだろう。
「まぁそう堅く考えるな。ようするに仮だってことだよ」
更なる改良、もとい改悪を重ねる男の手元に狂いも迷いもない。焦りはディアンの中だけ。冷静なのは、目の前の男だけ。
「ここに名簿はないし、名簿士もいない。お前が洗礼を受けたことを証明できる者だっていない。……だが、気分は味わえる」
ふぅ、と吹き付けた息で木くずが舞う。改めて見せられた像は、先ほどよりも確かな輪郭を持ってディアンを見ている。
造られた表情に威圧感も尊厳もなく……故に、ディアンが恐怖心を抱くこともない。
「こんなもんでも受けたって考えりゃ、お前の罪悪感も薄れるだろ。気休めだよ、気休め」
どうする、と問われても即断はできない。
こんな方法。こんな場所。なにもかもがちぐはぐで、誰が聞いたっておかしいと答えるだろう。
雑に造られたオルフェンの像。月明かりも届かない洞窟の中。いるのは怪しい教会関係者と獣だけ。普通なら納得できない、憤慨して当然の状況。
こんなものでは加護などいただけない。これで受けたって、精霊には届かない。
……そう、加護を与えられなくて当然。だから、なにも怖いことはない。
「最低限の作法だけ守りゃあいい。説明はいるか?」
「……宣言だけすればいいと?」
「そういうこった。で? 受けるか?」
宣言だけでいい、なんて。そんな簡略された洗礼なんて前代未聞だ。
これで満足できるかはさておき、気休めになるなら受けない理由はない。罰がおりなければ、の話にはなるが……そもそも、加護も与えたくない相手を見ているとは思えない。
息を吸って、大きく吐き出す。それから片膝を立てて座り、手は胸元へ。顔は、下へ。
「そんな堅苦しくなくてもいいだろ。雰囲気だけだから」
目を瞑れば、呆れたような声が降ってくる。目の前に置かれているのは偽像か。いくら似ていないとはいえ直視する勇気はなく、頭は項垂れたまま。
「気休めとはいえ洗礼でしょう。それに、こうした方が受けたという実感を得られますから」
「まぁ、受け方は人それぞれだからな。別に構わないが……さて」
足音が遠ざかり、数歩前で止まる。
本来なら司祭が立つべき場所についた男が見下ろしているのを感じ取っても、気は緩んだまま。
「始めるぞ」
そうして定文通り読み上げられ、ディアンは宣言し、終わる。
適当でもいいから言っておけと茶々を入れられることも想定し、なにを誓うべきかと考えて、
――その全てが、背筋に走る震えで吹き飛んだ。
音が、消える。甲高い耳鳴りのような、低く唸るような、それでもそれは音ではない。音ではないなにかが鼓膜を揺さぶり、支配する。
座っていなければ地面に這いつくばっていただろう。それほどまでに身体は重く、頭の先から押さえつけられているような錯覚は気のせいなんかではない。
寒くもないのに震えが止まらない。熱くもないのに汗が噴き出る。喉元を直接掴まれているように息苦しくて、なのに開いた口から吸える息は僅かにも満たず。
組んだ指が硬直したまま動かない。聞こえているこれは耳鳴りか、血潮か、奥歯の擦れ合う音なのか。
目が焼かれる。光が満ちている。髪がなびいていないのに風が吹き荒れ、炊かれた火はとうに消えてしまったはずなのに。まるで白昼のように、世界が白に侵されている。
疑問すら抱けない。苦しいのに、意識が遠のきそうなのに、気を失うことはできない。違う、それすらも許されない。
繋ぎ止められている。なにかわからないものに、その言葉にできないものに!
『第二の生を歩む者よ。汝、その使命を何と心得る』
声が聞こえる。聞こえたはずだ。でも、声だと認識できない。言われたはずなのに、聞こえているはずなのに。
あの男の声だとわかっている。わかっているのに頭が拒絶している。違う、違う、違う。これは、こんなのは、違う。
これが洗礼なものか。こんな苦しいものが、こんな眩しいものが。
一度目と違う。なにもかも違うのに。なにが雰囲気だ、なにが気軽だ。そんな文句さえ出てこない。
息を、吐く。吸ったのか。それともなにか言おうとしたのか。
そう、そうだ、問われた。問われたから答えなければならない。
嘘は許されない。そうだと理解している。それだけは分かっている。この場凌ぎではダメだ。
誓わなければ。自分がどのような人生を歩むのか。自分が、どうしたいのか。
誓うのだ、嘘偽りなく。それ以外には許されない。それしか、自分には許されていない。
「……ぼ、くは」
声は出ているのか。言えているのか。それは確かに音になったのか。震えてはいないか。
わからない。一つだって確かめられない。
それでも紡がなければならない。言わなければならない。そうしなければならないと本能が訴えている。そうでなければ許されないと、自分の中のなにかが訴えている!
最初の洗礼も、昨日までの願いも、騎士になることを誓っていた。英雄である父に恥じぬ騎士になり、姫をお守りし、妹が精霊へ嫁ぐまで見送る。
それが全てだった。それが、ディアンに課せられた全てだったのだ。
他は許されなかった。そうなるように言われ続けていたから、そうなることを求められていたから。
だが、今は。今は違う。
もうあの場所には戻らない。騎士にはなれない。姫のそばにもいられない。妹を咎めぬまま見送ることだって、できるはずがない。
知ってしまった。気付いてしまった。もう戻らない。戻りたくない。あの時の自分には、もう。
自分は、自分はもう!
「――悔いの無い人生を、全うすること」
影が差す。眩しい世界の中、導かれるように顔を上げ、目を開く。
眩しい洪水の中、あの紫が、男の同じ光が、僕を、僕を見て、見下ろして、みて、
でも、なにも、みえ、な、?
『しかと聞き届けた』
なにかがふれる。ふれている。苦しくて、辛くて、なのに、温かくて、柔らかいなにか。
わからない。わからないけれど、いやじゃ、なくて、
『……汝に、――の加護があらんことを』
全てが白に攫われる刹那。その声は、待ち望んでいた瞬間は……確かに、ディアンの元に訪れたのだ。
閲覧ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。





