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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
~擬似転生編~

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353.???

 目蓋越しに感じる、温かな朝の日差し。耳を揺らすのは、心地のいい小鳥の歌声。

 寝付けなかったのが嘘のように穏やかな起床でもまだ目は重く、開くにはもう少し時間がかかるだろう。

 誰かが起こしに来なかったということは、準備の時間には間に合っている。最後に失態を晒さずに済んでよかったと、無意識に伸ばした手の先に触れる温もりはなく。

 当然だ。朝まで一緒にいたら、それこそ女王陛下に怒られていただろう。

 あるいは、本当にゼニスに追い出されたか。どちらにせよ、次に会うまでにそう長くはかからない。

 感傷に耽りそうになるディアンの耳を、愛らしい小鳥の声が擽り続ける。

 随分とお喋りなことだ。なにをそんなに囀っているのか。

 でも、向こうに行けばこの音もしばらく聞けなくなるのかと受け入れかけたディアンを、違和感が襲う。

 ……そもそも、なぜ鳥の声が聞こえている?

 雪の深い山。その山頂に位置する王宮の外は極寒だ。

 あまり出歩くことはなかったが、記憶にあるかぎり一度も見かけた記憶はない。

 いたとしても鳥の声など……そもそも、太陽の日差しすらわかるはずがないのだ。

 だって、この部屋に窓はないのだから。


 違和感が形を帯び、目を開く。容赦なく瞳を焼くのは、窓から差し込む眩しい光。

 半開きのカーテン。空きの目立つ本棚。質素な机。

 白に馴染まず明滅する視界でも、ここが自分に与えられた部屋でないことを理解するには十分だった。

 見知らぬ、とは到底言い難い。むしろ、ディアンはこの景色をよく覚えている。

 十数年間ずっと見続けてきた。何度も何度も繰り返し、最後には全てを置いて飛び出した場所。

 もう二度と見ないと思っていた、かつて自分が過ごしてきた部屋。


「――お兄様!」


 理解するよりも先に、幻聴が耳をつんざく。

 いや、確かな質量をもって鼓膜を震わせた声は、確かにディアンのすぐ傍から聞こえた。

 それこそ、小鳥の歌と称された甘く、愛らしい音だって、ディアンは覚えている。

 忘れていない。まだ、忘れ去るにはあまりにも浅すぎる。

 鼓動が嫌な音を立て、まるで強制されるように顔が動く。ベッドの横、自分を見下ろす光。糸のように細い金色に混ざる、薄い桃色。

 フィリアの加護を授かった者にだけ現れる特徴。今の彼女にはないはずの……かつての、メリアの姿。


「もうっ! まだ起きてなかったなんて、随分とお寝坊さんね!」

「めり、あ……?」


 掠れた声は、間違いなく自分の喉から出たものだ。

 皮膚の張り付く痛みも、違和感も。まるで本物のようで、それでも違うと理解している。

 そう、これは夢だ。夢でなければ説明がつかない。

 自分がこの部屋にいることも、メリアが目の前にいることも。彼女が加護を授かったままの姿でいることも。

 過去の模範ではない。メリアが自分の部屋に来たことはなかった。ましてや、朝に起こしに来るなんてこと、過去に一度だって。


「まだ寝ぼけているの? もうみんな待っているんだから、早く起きて!」


 腰に手を当て、頬を膨らませる姿も。混乱するディアンの手を取り、早く早くと急かす姿も、記憶と重ならない。

 手首に食いこむ細い指。伝わる温度。素足に触れる床の感触。肌に纏わり付く空気の感覚。

 混乱し早くなる心臓の鼓動だって、夢とわかっているはずなのに、現実と見分けがつかない。

 これも、精霊に近付いた故の幻なのか。いいや、いいや。精霊はそもそも眠らない。ならば、夢を見ることもないはずで。

 ならば、今自分が見ているこれは……この光景は、なんだ?


 答えを与えられないまま抜けた扉の先に広がる内装も、記憶に残っている通り。

 壁に飾られた絵画、後からついてくる護衛の顔、階段の手すりについた古傷だって。

 絨毯の短い毛が足裏で擦れる感触さえも現実味が強く、境目が曖昧になっていく。

 階段の半ば。ホールが見えてくるようになって――立っていた影に、足が、竦む。


「起きたか、ディアン」


 低く唸るような声。何度も聞いてきたはずの……それでも、記憶にない声色。

 柔らかく名を呼び、微笑みかける男の名前を、ディアンは覚えている。忘れていない。忘れるはずがない。

 それは、何十年、何百年経とうとも、絶対に。

 だが、知らない。知るはずがないのだ。だって、こんな声で呼ばれたことも、こんな顔を向けられたことだって、一度もなかったのに。

 それなのに、なぜ。


「と、う、さん」

「お兄様、早く!」


 引っ張られ、留まることは許されず。縺れる足は、かつて父と呼んだ者の前へ引き摺り出される。


「寝過ごすとは、少し気が緩んでいたんじゃないか」


 無意識に見上げた先。見つめる金色は、やはり記憶に残っている通り。もう今はないはずのその光は、確かにディアンを咎めているのに、どうしたって重ならない。

 いつだって、この瞳は冷たかった。どれだけ認めてほしくても、一度だって緩むことはなかった。


「緊張して眠れなかったんでしょう?」

「殿下の前では気を引き締めるように。……だが」


 咎められなかったこと以上に、肩に手を置かれたことに戸惑い。伝わる体温に抱くのは、それ以上の困惑。


「本当に、よくやった。――お前は、俺の自慢の息子だ」


 もし、あと少しでも触れていたなら、自分から振り払っていただろう。

 肌が粟立ち、呼吸が止まる。夢と理解しているからこそ、今投げかけられた言葉を理解することを拒絶し、されど脳は咀嚼する。

 噛み砕いた中から溢れ出すのは、耐えがたい不快感。

 満足げに頷く顔も、誇らしいと笑う表情も、温かな瞳も。全てが、気持ち悪い。


「ディアン!」


 理解の追いかないディアンを、夢が待つことはない。

 喜々として自分を呼ぶ声の抑揚も、駆け寄る足音も、記憶に残っている。

 だからこそ息が止まり、顔が強張る。それこそ、夢でなければ出会うはずのない姿。

 まるで少女のように笑いながら、目の前に来たサリアナが手を取ってくる。

 その体温は、やはり、生温く。


「ディアン、おめでとう! やっとこの日が来たのね!」


 不思議と恐怖はない。ただ、困惑と不快感がせめぎ合い、喉までせり上がっている。


「でん、か、」

「ずっと信じていたわ! あなたなら絶対になれるって! 私との約束を、守ってくれるって!」


 キラキラと輝く瞳の中。フィリアの光を垣間見て、幼い頃の記憶が洪水のように押し寄せる。

 約束をと、怒鳴りつける声がこだまする。取り囲まれ、約束を交わすことを強要されて、それすらも忘れていて。

 自分の意思であるように洗脳されて、苦しんで。

 そうして自分は、全てを捨てたはずなのに。


「きゃっ……!」


 握られた手を咄嗟に振り払う。気持ち悪い。

 なんだ。なんなんだ、これは。

 境目が曖昧になる。現実じゃない。違うとわかっているのに、終わらせることができない。


「どうしたの? ディアン」

「これは、なんの夢なんだ」


 ただ思い出しているだけなら、苦い記憶で済んだ。辿らなかった道を垣間見ているだけなら、不快なだけで済んだ。

 でも、違う。なにかわからないが、なにが違うと訴えている。

 受け入れてはいけない。この違和感を、不快感を、無視することはできない。


「もうっ、お兄様ったらまだ寝ぼけているの? 夢なんかじゃないわ!」

「そうよディアン。あなたはあなたの実力で、私の騎士になったのよ!」

「……違う」


 目の前から、すぐそばから。もう出会うことのない彼女たちの声が響く。

 これは夢だ。そして、自分は騎士になれなかった。

 ……違う。ならなかったのだ。他でもない自分の意思で、自ら手放した。その選択を惜しんでなんかいない。

 後悔なんて、していない。


「僕は、騎士にはならなかった。だから僕はエルドの、ヴァール様の伴侶に、」

「なにを言っているの、ディアン」

「これは夢だ! だから――」

「ヴァールなんて名前の精霊は、存在しないでしょう?」


 目の前が明滅する。白く、黒く。

 彼女たちが知らないのは当然だ。彼の名は、聖国にしか残されていない。教会でも限られた者だけが知っている。他でもないエルドがそう望んだから。

 なのに、理解する。 なぜかはわからない。説明もできない。それでも、本能で理解させられる。

 彼が本当に、この世界には存在しないのだと。


「な、にを、言って、」

「ほら、しっかりしてディアン。みんながあなたを祝福しているわ!」


 爪先が視界に入ったことで俯いていたと自覚し、映り込んだ床に反射する七色に気付いた瞬間、歓声が耳を劈いた。

 柔らかなステンドグラスの光。席どころか壁までも埋め尽くした人たち。自分を見下ろすオルフェン王の像。

 まるで、初めて洗礼を受けたときと同じ。加護をいただけずに、失望されたあの日と、一緒で。


「さすが英雄の息子――」

「ディアン様――!」

「サリアナ様の専属騎士に――」


 だけど、記憶に重ならない。こだまも。表情も。記憶にはない。想像だって、したことない。

 群衆の中に紛れるペルデやラインハルトまで、笑って祝福している。

 それは、像の下に立っていた人も同じ。


「っ……グラナート司祭!」


 サリアナを振り払い、彼の元へ走り寄る。

 ヴァール様が、エルドがいないなんて。理解させられても納得できるはずがない。受け入れることなんてできない。

 彼女たちは知らなくても当然だ。でも、彼は知っていなければならない。

 エルドの存在は、司祭になった者が知るべき秘匿なのだから!


「ディアン」

「司祭様ならご存知のはずです! 『中立者』様はっ……ヴァール様は……!」

「おめでとう、ディアン。君の努力が報われて、私は本当に嬉しい」


 炎を思わせる赤が緩み、微笑む。記憶通りの、いつも自分に語りかけてきてくれたのと同じ。

 彼だけは同じで……だけど、肩に触れた手はやはり気持ち悪くて、違うもの。

 問いかけには答えてくれない。会話が、成り立たない。


「君の夢が叶ってよかった」

「……僕の、夢?」

「騎士になって、父親に認められるのが、君の夢だったんだろう? そのために、あんなにも辛くて苦しい訓練に耐えてきたんじゃないか」

「そうよ、ディアン」


 離れようとした身体が、何かに遮られる。絡みつく細い腕の力は弱いはずなのに、振り払うことができない。


「あなたはやっと認められたの。ギルド長も、あなたを馬鹿にしてきた人たちも、蔑んできた人たちも。もう誰も、あなたを加護なしなんて呼ばないし、傷付けることなんてないわ」

「ち……がう……」


 肩が重く、身体を支えきれずにうずくまる。それでも身体は解放されず、まるで泥のように纏わり付く。

 より深く沈むように、埋め尽くすように。歓声はディアンに降り注ぎ、祝福を吐きかける。

 これがお前の望みだったのだと。お前の夢が叶ったのだと。これこそが、お前のあるべき道だったはずだと。


「違う、違う……違うっ……!」


 頭を抱え、歯を食いしばり、それでも夢が、悪夢が終わらない。

 こんなこと、望んでいない。望むはずがない。後悔していない!

 縋るように首を掴み、手繰り寄せた首飾りを握り締める。血が滲む程に痛く、少しの変化すら見逃さないように。

 なのに、なにも感じない。

 温もりも、あの人の魔力も。いつだって自分を助けてくれたエルドの存在が、感じられない。

 肩越しの体温が気持ち悪くて、エルドがいないと認めたくなくて、苦しくて、息ができない。


「どうしたの? ディアン」

「違うっ……こんなの、違う……!」

「なにがちがうの? これガ、あなタの望ミでしょウ?」


 声が歪む。男と女が混ざり合ったような歪な、異様に優しい声が。頭の中に直接囁きかける、おぞましい音が。

 

「これガ、あなたが望ンだ――」

「違うっ! 違う、違う、違うっ! 僕はっ……!」


 耳鳴りがする。目蓋の奥、点滅する光に脳が焼き切れそうになって。それでも、叫ばなければならない。

 たとえ夢でも。現実ではないとわかっていても。この未来を望まなかったと、これまでの選択を悔いていないのだと!

 これまで、何度も伝えてきた言葉に偽りがないことを! エルド自身に、誓ったのだから!


「こんなことっ、僕は望んでなんかいないっ!」

「――ディアンッ!」


 目を見開く。視界を認識するよりも先に咳き込み、抱き上げた腕の温もりを自覚する。

 伝わる体温。背中から伝わる、溢れるほどの魔力は、紛れもなくディアンが求めたもの。

 滲む汗の気持ち悪さも、周囲のざわめきも聞こえない。

 涙に滲む視界に映ったのは、誰よりも会いたかった姿で。


「エル、ド……っ……」

「ああ、俺だ。大丈夫だ、ここにいる……!」


 手を握る力は痛いほどなのに、その痛みが遠ざかっていく。

 感覚だけじゃない。意識が微睡んで、思考さえもがままならなくなっていく。

 眠りたくない。眠っては、いけない。

 理解しているのに、纏わり付く眠気を振り払えなくて、縋る力すら抜けてしまう。

 嫌だ。嫌なのに。どうして……っ……。


「ダメだ、ディアン! 寝るな! くそっ……!」


 意識が落ちる恐怖よりも、エルドが泣きそうなことの方が辛くて。その顔すらも、もう暗くて見えない。

 おぞましいほどに優しくて、温かい微睡みに引き摺り込まれる。


「え……る……ッ」

「ディアン! 必ず助ける! だから――――!」


 ――ふと、支配されていた気怠さから解放され、飛び起きる。

 薄暗い部屋。閉めきられたカーテン。肌に纏わり付く冷たい感覚。

 記憶通りの、何度も見続けてきた光景。だが、ディアンはこれが夢だと覚えている。

 ただの夢ではない。精巧な幻覚。精霊であるエルドでも遮れないほどに、強力なもの。

 誰が仕掛けたのか。目的は。なぜ自分を狙い、あまつさえこんな悪夢を見させているのか。

 汗が滲み、鼓動が嫌な音を立てる。首元に縋り、引っ掛かった首飾りを握り締めても、エルドの魔力を感じることができない。

 だが、今も彼はそこにいる。自分の目覚めを、待っている。

 何一つだってわからない。それでも……今の自分がすべきことは分かっている。

 エルドの元に、戻ること。

 握り締める手に力がこもる。たとえ求めた反応がなくとも、開かれた紫は揺れることなく、力強く煌めいた。

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発売中の書籍も、よろしくお願いいたします!

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