352.最後の夜
「今日は予想できたからな。まぁ、ベッドに入っていないのはともかく、ゼニスと遊んでいるとは思わなかったが」
「すいません」
「馬鹿げた嫉妬はやめてください。今からでも追い出しますよ」
「おい」
呆れながらも身体は丸まったまま。本当に追い出す気がないのは、態度を見れば明らか。
こんな時まで小言かと睨むエルドに思わず笑えば、溜め息交じりに頭を撫でられる。
髪から頬に。添えられた手に上から指を重ね、自分からも擦りつけてしまうのは、もう癖なんだろう。
「僕が我が儘を言ったんです」
「これぐらい我が儘にも入らないだろ。まぁ、可能な限り叶えてやりたいが、寝ないのだけは聞けないな」
「眠気が来たら寝ようと思っていたんですが、つい……」
「眠くなくても横にはなっとけ」
柔らかな温度が離れ、惜しんだのは一瞬。手を取られて導かれたのは、整えられたままだったベッド。
てっきり自分だけが寝かされると思ったが、先にエルドが乗り上げたことで目を瞬かせる。
万が一もないだろうが、夜に二人きりになることは女王陛下からも禁止されていたはずだ。
エルドも最初の頃は渋っていたが、一度も決まりを破ることはなく。
ディアンから姿を探しに行くことはあったが、会うのは大抵部屋の外で、誰かしらの監視はあった。
「ロディリアから許可はもらっている。まぁ、添い寝するとまでは伝えてないが」
「添い寝って……」
「考えすぎて眠れない伴侶を落ち着かせるためなのは嘘じゃないし、あいつも今日まできて手を出すとは考えていないだろう」
他でもなく、この日まで耐えると決めたのはエルドだし、ディアンもロディリアも、その気持ちを尊重してきた。
覚悟を疑った訳ではなく、戸惑ったのは思わぬ提案に対して。
寝転がったエルドが腕を広げ、あけた空間を軽く叩く。
エルドと出会って一年余り。想いが通じ合う前にも過多な接触はあったが、腕枕は初めてだ。
思わずゼニスを見やっても蒼は絡まず。彼も黙認するとなれば、拒む理由もないのだが……。
「ほら、ディアン」
「ですが……」
「今さら恥ずかしがることでもないだろ? 添い寝もこれで二回目だし」
まだ家を出て間もない頃。部屋が一室しか取れなかった問答が、もう一年前の出来事とは思えない。
あの時にはもう信用していたけれど、今ほど心を開いていたかと言えば難しい。
少なくとも、無理矢理抱き上げられ、一緒のベッドに押し込められた怒りを抱く程度には懐いていなかった。
「あれは、あなたが無理矢理――」
「いいから」
「あ!」
繋がれたままの手を引かれ、抵抗する間もなく腕の中に。
あの日と同じように背中に腕を回されれば、諦めて力を抜く。
正面から伝わる温度と鼓動。ゆっくりと染みこんでいくエルドの魔力。
何度も自分を落ち着かせてきた優しさに、あんなにも遠かった眠気まで滲むかのよう。
「宿よりは広いから、窮屈じゃないだろ」
「比べるのは失礼ですよ。……腕、疲れませんか」
「ブラキオラスほどじゃないが、一晩ぐらいなら平気だ」
心配することはないと背を撫でられ、精霊だから腕が痺れないのかと抱いた疑問は些細なもの。
程なく筋肉のついた腕の上。落ち着く位置を探して首を動かしても、感じるのは枕とは違う感触。
「思っていたより寝心地はよくないですね」
「お前な……」
「冗談です。……凄く、安心します」
寝心地で言うなら、ゼニスを枕にした方が断然いいのは違いない。
でも、この安心感はエルドからでなければ得られないと。自分からも腕を伸ばし、頭はずり落ちて胸の中に。
結局抱きしめられる形になってもゼニスが咎めないのは、彼もこの状況を許しているのだろう。
普段ならば許されない我が儘。その事実がより、明日の現実を突きつけてくる。
「……本当に、あっという間でしたね」
「…………ああ」
家を飛び出して、エルドに見つけてもらって。聖国まで旅をして、嫁ぐまでに与えられた一年。
初めは遠いと思っていたのに、今はもう数える程の時間しかない。
伴侶として十分な学習をしきれたかは定かではない。足りない分は、精霊界で補うことになるだろう。
他の伴侶に比べれば精霊の理解も進んでいるが、実際に過ごさなければ見えてこないものもある。
不安がないと言えば、嘘にはなる。
だが、ディアンの中にあるのは……。
「……すまない、ディアン」
「エルド?」
抱きしめる腕の力が少しだけ増して、落とされた謝罪に首を動かしても顔は見えず。
だが、その声だけで浮かぶ表情は想像と違わないのだろう。
「本来なら、精霊に嫁ぐ者は成人を迎えるまでに数年の猶予がある。仕方がなかったとは言え、一年はあまりに短かっただろう」
「そう決まったのはマティア様の代からです。それ以前は、選定を受けてすぐ迎えられるのが通例でした」
「それでもだ。人でなくなることは、そう簡単に割り切れていいものじゃない」
まだ人間と精霊の婚儀に規制がなかった頃は、数え切れないほどの人間が迎えられたと聞く。
トゥメラ隊だけでも、犠牲になった数がいかに多かったか知ることができる。
悲劇を繰り返さないために婚儀を伴う選定は数百年に一度と定められ、教会も伴侶の心身を守るための法を整えた。
エルドの言う『本来』が適応されたのは、前回の婚儀から。まだ慣例と言えるだけの回数はない。
それでも言ってしまったのは、彼の中にある罪悪感からだろう。
本来ならディアンにも与えられるはずだった権利が奪われたのは、エルドだけが原因だったわけではない。
……だが、非は確かにある。
「エルド、僕は」
「わかってる。お前が気にしていないことも、お前の強さも。……それでも、」
「エルド」
なおも続けようとする言葉を遮り、少しだけ離れて上を仰ぐ。
ようやく見えた顔は、ディアンの思い浮かべていた通りの表情。
「確かに不安もありますし、備えも十分できたとは言えません。覚悟は固めてきたつもりですが、向こうに行けば覆されるかもしれません。精霊界に謁見に向かった時も、色々と衝撃的でしたし」
言うほどに狭まっていくエルドの眉に比例するように、ディアンの表情が緩む。
優しくて、柔らかくて。いつでも自分を助けて導いてくれるこの人は、いつまで経っても変わらない。
何度伝えても不安になって、何度言っても反省して。愛しているからこそ割り切れないと、その度に伝えてくる恋人を可愛いとさえ思いはじめていることを、ディアンの愛しい人は知っているのだろうか。
ほんの少し歪んでいるような。あるいは、愛しているからこそ、まともなのか。
どこかの精霊を指摘できないなと自身に呆れながら、伸ばした手はエルドの両頬を包む。
「でも、やっぱり後悔はしていないんです。思い出すことはありますけど……少なくとも、やり直したいなんて思えません」
外の世界を知り、成長したからこそ、想いを馳せることはある。
自分にもっと余裕があれば。妹への接し方を変えていれば。違和感にもっと早く気付いていたなら。
グラナート司祭に助けを求めたら。なにか一つでも、違っていたのなら。
どれも、当時の自分には選べなかったことだ。耐えて、耐えて、最後には限界を迎えて。希望に縋って、聖国へ向かおうとして。
今思えば、本当に無茶をしたとも笑ってしまう。エルドが見つけるのが遅ければ、死んでいただろう。
……でも、もし過去に戻れたとしても。ディアンは選択しない。
正しく評価されたとしても、父が自分を認めたとしても。かつて自分が望んだ全てが手に入ろうとも、戻りたいなんてどうして思えるだろう。
全ては必然だったのだ。ディアンが生きる為に。そうして、彼がエルドと生きていくために。
その出会いも。過程も。今を過ごすために必要だったこと。
ディアンが求めるのは、かつての栄光ではなく、エルドと過ごす未来。
「僕がしてきたことは、あなたに会うために全部必要だったんです。あなたと過ごす未来が消えるかもしれないのに、戻りたいなんて思うはずがないでしょう? それに……もう何度も誓いましたから」
そう、一生をかけて証明すると、ディアンはエルドに誓ったのだ。
何度でも誓える。この想いこそが、ディアンがエルドに示せる最大の愛なのだと。
「あなたと一緒に生きるって。もし後悔しても、あなたと一緒に生きるんだって」
あの時と同じ。強い光がエルドを貫き、眩しさに薄紫が細まる。
目蓋の向こう。同じだけの反射を受け止めて、蘇るのは最初の選定。
もう視界が白くなることも、耳鳴りがすることもない。それでも、瞳の強さだけは変わらず。
「これじゃあ、どっちが慰められてるのかわからないな」
「ふふ。明日になったら、やっとあなたを安心させられますね」
「それはこっちのセリフだろうが」
「うわっ!」
無造作に頭を撫でられ、髪がぐしゃぐしゃになってしまう。
こんな触れ合いだって久しぶりだし、明日からは当たり前になるんだろうと思えば笑いが止まらず。それは、エルドも同じこと。
不意に動きが止まり、じっと見つめられる。
ディアンを導き、守り続けた薄紫が、笑う。
「……ありがとう、ディアン。俺を選んでくれて」
「僕の方こそ。一緒に生きると選んでくれて、ありがとう」
何度伝えても足りないし、きっと満たされることはない。
それでも伝えずにはいられないと声にすれば、指は頬から首に滑り、互いの間に転がっていた首飾りへと移る。
誕生祝いに渡された、彼の愛し子である証拠も、すっかり握り癖がついてしまった。
「これも、生活が落ち着いたら、ちゃんとしたのを作らないとな」
「もう十分もらってます」
「結婚式で玩具の指輪を贈られてるようなもんだぞ?」
「玩具でも、僕にとっては宝物ですよ」
エルドにとっては恥ずかしいかもしれない。他の精霊にも、稚拙と思われているかも。
だが、ディアンにとっては替えの効かない宝物だ。
もし新しい贈り物を渡されたとしても手放せそうにない。
愛する人から、初めて貰った誕生日プレゼントなのだから。
もうこれだけで、ディアンにとっては十分すぎる。
「あなたと一緒にいられるのが、僕にとっては一番嬉しいですから」
「……ディアン」
自然と、顔が近づいていく。引き寄せてられて、吐息が触れ合う距離に。
目蓋が閉じて――瞬間、柔らかいなにかに顔中を覆われた。
視界に映るのは、白一色の世界。長い毛先の正体を、わざわざ述べる必要はないだろう。
「調子に乗らないでください」
「…………ゼニス……」
「あなたもですよ、ディアン。これのどこが添い寝ですか」
咎めるようにバシ、と尻尾がエルドの顔を叩き、ディアンの額も前足で叩かれる。
痛みはなくとも怒られているのには変わらず、見下ろす蒼に苦笑するしかない。
「ごめん」
「お前、まさか明日も止めるつもりじゃないだろうな」
「そこまで野暮じゃありませんよ。初夜を覗く趣味もありませんし、終わるまではデヴァス様と待たせてもらうことにします」
当たり前でしょうと鼻で笑われ、言葉を遅れて理解する。
そう。婚儀のことばかり考えていたが、すなわちエルドと初めて身体を交わすということ。
性交まで含めて一連の儀式なのだと思い出し、わかっていたはずなのに頬が熱くなる。
隠そうにも腕の中では逃げ場もなく。かといって胸の中に顔を埋めれば、墓穴を掘るのと同じ。
「……これでもダメだっつうのか」
「本気で追い出しますよ」
再び一撃を見舞われ、不満げに睨むエルドと怒るゼニスの姿はいつもと同じ光景。
笑うディアンにもう不安はなく、ただただ、幸福だけが胸を埋め尽くしている。
これまでも。今も。そうして、明日からの日々も。
どんな困難があったとしても、自分がこの選択を悔やむことはないと。かの愛し子は改めて実感したのだった。
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