348.見送り
最後の扉を抜けるなり、真っ先に目に入ったのは正面に備えられた門でもなければ、取り囲むトゥメラ隊でもなく、一際目立つ白だった。
この期間中、姿を見かけなかったゼニスがなぜここにいるのか。そんな疑問も、すぐそばに立つグラナートの姿で消散する。
一瞬目が合い、反らしたのはペルデから。彼こそなぜここにいるのかと考えるのは、それこそ無駄だとジアードの背を眺める。
この見送りが終われば、また対話するように言われるのだろうか。それとも……無意味な謝罪を繰り返されるだけなのか。
考えただけで憂鬱で、込みあげる溜め息は喉の奥で殺す。
願いは後で聞いてもらうとは言ったが、居を別にしてもらうことはそのうちに含まれてしまうのか。だが、これ以上共にいたところでペルデの結論は変わらない。
彼はペルデを守ろうとした。だが、その行動は結局、ペルデを苦しめただけだった。
葛藤も、怒りも、責務もペルデは汲み取った。だが、その本質をペルデが真に理解できることはない。
そして……同じように。ペルデの苦痛も、怒りも、悲しみも。グラナートが理解することはない。
ただ、噛み合わなかっただけだ。そして、それを埋める手段はとうに失われた。
今さら時間を重ねようとも、それはあの時求めたものとは違う。
怒りを覆い尽くす虚しさは、誰に埋められるものでもない。この感情ごと、全て、ペルデのものなのだから。
ふ、と鼻で笑う音は目の前から。その対象はペルデか、グラナートか。あるいは、この一連を見届けにきたゼニスにだったのか。
それこそ答えは出ず、数日前の光景が再現される。
ただし、帰るのは女王と対面するジアード一人。
「さて、これで全ての約束は果たされた。この一時の関係も、門を通るまでのこと」
「此度の件、貴殿の協力に感謝する。そしてジアード王の言う通り、かつて交わされた盟約は未だ有効。これまで通り、聖国は貴国への干渉は行わず、貴殿らも我々に関与することはない」
門は直り、選定者を害そうとした罪人も裁かれた。半年前に裁けなかった罪も同様に。
あとは門を通れば元通りだと、互いに交わす言葉は区切りを示すためのもの。
「ああ、私の目的も果たすことができた。もはや頼まれたとて、この地に踏み入ることはないだろう」
「……そうあることを願おう」
合図を送れば、門に光がともる。あの時とは違う白い光は、今度こそアンティルダに繋がっているのだろう。
これで、本当に最後。……もうペルデがこの男と会うことは、ない。
「ペルデ」
いや、その方がいいのだと細めた目の中。映ったのは進む背中ではなく、振り返った赤黒い光。
「お前との一時、中々に愉しめたぞ」
呼ばれ、瞬く榛色をジアードは貫く。最後の挨拶と共に差し出されるのは、握手を求める手。
打ちつける鼓動は、門の魔力の影響か。それとも、頭によぎった可能性に対してか。
汗が滲み、息を呑む。葛藤は一瞬だった。
「……どうぞ、息災で」
伸ばした手が男の手に触れる。伝わる温度は高く、呼応するように左腕に熱が走る。
強く握り返す力も、その熱さも。ペルデはきっと、忘れることはないだろう。
これで本当に最後だと、刻みつけられるように強く、強く。……それは、ペルデが離れようとしても、なお、強く。
おかしいと、そう思った時には手遅れだった。
「――ペルデッ!」
駆け出す足。投げ込まれる身体。光に包まれる刹那、見えたのは叫ぶグラナートの姿。
悲鳴じみた自分の名前が聞こえていたのも、水音に消されるまでのこと。
バランスを崩し、倒れ込んだペルデを包み込むのは冷たい水の感触。咄嗟に突き出した手で起き上がり、四肢をついたまま目眩に耐える。
光はペルデの視界を奪い、耳鳴りは煩わしく鳴り響く。時間の経過と共に不快感が落ち着いても、ペルデの混乱までは宥めてくれない。
天井から差し込む光に水面は煌めき、湧き出る水は波を打たせる。舌に感じる甘味、湿り気と共に纏わり付く魔力。勘違いで片付けるには、揃いすぎている状況。
まさか、これは、
「うまく機能しているな」
一つ、ペルデの背後で水音が増える。揺れる黒髪。見つめる深緋。振り返らずとも、それが誰かをペルデは分かっていた。
「報告は受けていたが、実際に目にするまで安心できなかったからな。ひとまずは問題なかろう」
「お前っ……!」
掴みかかろうとした身体は均衡を失い、すぐに尻をついて逆戻り。立つことさえもままならず、睨み付けるのがやっとのこと。
「無理をするな。いくらか耐性があっても、これだけの距離を通ってきたんだ。意識があるだけ上等」
「っ……どういうつもりだ! お前っ、なにを考えてっ……! なんでここに聖水があるんだ!」
「ああ、喚く気力はあるのか。それは僥倖」
「ジアードッ!」
怒りのままに水面を打っても、音だけで手応えはない。
勘違いではない。ペルデが浸っているのは、紛れもなく聖水だ。魔力に乏しいと言っていた地にあるはずがない。こうして湧き続けていること自体がおかしい。
いいや、それ以上に。なぜ、自分をアンティルダに連れてきたのか。
混乱するペルデに対し、これ見よがしに振られる首は、それこそ呆れるかのように。
「そもそも、俺がなんの見返りもなく奴らに協力したとでも? なんのために周辺国を焚きつけ、わざわざ儀式を起こさせたと思っている?」
言われ、思い返し。そうして、気付く。
前日に乗り込んだ理由は明かされたが、それは起こったことに対処しただけ。それは、儀式を起こさせるものとは無関係であったこと。
「お前にも語った通り、アンティルダは魔力に乏しい地だ。土地に含まれる魔力は元々少なく、供給されるべき魔力は雨が降らぬせいで与えられず、魔力を循環させる妖精が来ることすらない」
本来なら、精霊界から聖国へ。そうして山を下る内に人間界の濃度にまで循環された水が海に流れ、それが雨となって供給される。雨の少ない土地でも、各地にある門を通じて行き交う妖精によって魔力は保たれる。
今の人間界は、そうして魔力を供給されているのだと、イズタムから教わったのはいつの話だったか。
「当時の精霊が供給を絶たせた理由こそともかく、先王も当時の恨みを知る民も既にいない。された仕打ちこそ忘れはしないが、その因縁を今の民に背負わす理由にはならん。この地に精霊の加護は不要だが、俺はアンティルダとして民を守る義務がある。魔力に恵まれぬというのならと、直接引いてきたまでよ」
門の魔術も、俺のローブも、全てはこの為に用意してきたのだと男は言う。
かつてこの地を守った精霊の代替として。これからこの国を導く王として。その胸に根付く怒りを燻らせながらも、今を生きる者たちのためにすべきことをしたのだと。
「直接、って……」
「源泉からとはいかなかったが、王宮内であれば濃度に差はない。今さら気付いたとて、奴らでは取り除くどころか見つけることもできないだろう」
確固たる自信は、繰り返してきた検証から得られるものだ。
ローブの前例がある以上、ないとは言いきれない。だが、それよりも……いったいいつ、それを仕込んだというのか。
ペルデが眠っている間も監視の目はあった。仕掛ける隙があったとすれば……。
「まさか、あんたが前日にいたのは……!」
「お前が疑っていた時点で、俺の目的は果たされていたというわけだ。必死に疑っている姿はなかなか面白かったぞ」
それはもう面白かったことだろう。一体どれだけペルデが神経を磨り減らし、少しでも疑問を晴らそうとしていたか。
結局、最初から最後までこの男に転がされていただなんて。
「とはいえ、すぐに実用とはいかん。薄めて与えるにも、今の民には耐性がなさすぎる。土地に馴染むにも時間がかかるが、ほんの何十年のことだ。じきにこの国も豊かになる」
解決すべき問題も、それに伴う困難もある。
だが、和らぐ瞳に映っているのは、いつか見える光景だろう。
本来の目的は明かされた。……だが、それでうやむやになどさせはしない。
「それと俺を連れてきたのに、なんの関係がある」
「関係はない。俺がそうしたいと思ったから、そうしたまでだ」
「はぁ!?」
掴みかかろうとした身体は、やはり地面に落ちる。
あっけらかんと言い切った男は、藻掻くペルデを見つめるばかり。謝罪もなければ、罪悪感の欠片すらもなく。
「ふっ……ざけんな! 俺を帰せ!」
「既に門は閉ざされ、こちらから繋ぎ直すことは不可能。奴らもこの程度で門を繋ぐことはしない。そもそも、ここに来るつもりだったなら、それが今になっても問題はないだろう」
「あるに決まってるだろ! アンタこれまでなに聞いてたんだ!?」
たった数日。されど、男からアンティルダを明かされたように、ペルデもまた己の内情を明かされた。
どんな思いでペルデがあの場所に留まったのかも、どうして恐れながらもあの男の最後を見なければならなかったのかも。
これから先、ずっと纏わりつく恐怖から逃れるための唯一の手段だったことも。ペルデが隠していたかったことを全部、この男が引き摺り出して、認めさせて。
なのに、今でも問題ない? それこそ冗談じゃない!
「俺はあのバケモノをっ……!」
「人としての終わりを見届けようと見届けまいと、お前が解放されることはない」
もう一度、立ち上がろうとした身体が強張る。
身を蝕む魔力のせいではない。突きつけられる現実に、反論できなかった時点で認めたも同じ。
「っそれ、は、」
「旅立った姿を見て、一時の安心は得られるだろう。だが、その後も怯えると分かっていたからこそ、お前はこの地に逃げようとした。精霊との繋がりを持たぬこの場所だけが、その縁を完全に断ち切れるとわかっていたからだ」
否定できない。……できるはずがない。
この目でいなくなったことを確かめて、安心して。生きている間に戻ることはないと思っても、信じられなくて。
また、いつあの光が。あのおぞましい紫が自分に向けられるかに怯えて、離れたくて。
「たとえ姿を見せずとも、戻ってきたと知る可能性すら許しがたいほどに、お前はアレを恐れていた。長年お前に植え付けられた恐怖は、聖国の奴らには理解されん。……お前の、残りの生から安寧を奪った怒りも、その苦痛も。同情も謝罪も償いも、お前を救うことはない」
わかっていただろうと、男は投げかける。問うのではなく、認めさせるために。隠すことはできないと、見通すように。
唇を噛み、息を吐いて。それでも、剥がすことのできない執着は、植え付けられた恐怖か、魅入られた者と同じ心理か。
ペルデには、わからない。……わかりたくはない。
「そもそも、俺の手を取った時点で、こうなると期待しただろう?」
「馬鹿を言うな! 誰がそんなっ……」
「あんな顔をしておいてよく言う」
だから無駄だと、男は笑う。見通していると。分かっていると。
それを含めて、男の手を取ったことだって。誤魔化すことは、できない。
「あんな顔って」
「見たいのなら水面でも見ればいい。ああ、だが……義父へのあんな意地の悪い笑顔は、なかなか再現できんだろうがな」
いよいよ返す言葉もなくなり、強張りさえもほどける。
否定できないのは、ペルデの胸底にその感情があるからだ。
怒りと混乱の奥。隠しきれないのは確かな喜びと……ようやく得られた開放感。
それは、半年前のあの時とは違う。今度こそ、確かに与えられたペルデの自由。
もう怯えることはなく、煩わされることもない。今度こそ、地獄は終わったのだと。





