347.最後の語らい
ペルデが次に目を覚ましたときには、全て終わっていた。
溢れた聖水の除去に、崩壊した石像の修復。実際に水浸しになったのがたった二部屋だったことも、不幸中の幸いと言えるだろう。
勢いを止められずに宮殿中が聖水に満たされるだけならまだしも、ガラスを突き破って街まで下っていたら大惨事になっていた。
ペルデの命も別状はなく、奇跡的に後遺症もほとんど残っていない。思考も鮮明で、身体の不調だって残っていない。
明確に失ったと言えるのは、この事件の首謀者であった男の命だろう。
罪を裁く機会は永遠に失われたが、こうなってしまえばもうやむを得ないこと。
聖水の供給は安定し、門の動作も正常。儀式は無事に全ての行程を終え、街でも日常が戻りつつあるという。
なにもかも無事に終わった。……ならば、残る問題はあと一つ。
「さて、どこから説明したものか」
最初に切り出したのは、全てを知りながら今までペルデに黙っていた張本人。
円形の机を取り囲むのは、そんな男を睨むペルデと、薄く笑うジアード。そして、同じく無言で睨めつけるロディリアの三名のみ。
もったいぶるような口調は、ペルデをからかうためのものだろう。
護衛の姿はあるが、それも形だけ。この席が設けられた理由を理解しているからこそ、ペルデも臆することなく声を張る。
「話せる範囲でお願いいたします」
……とはいえ、戸惑っていないと言えば、嘘にはなるが。
「今さら取り繕う必要もなかろう。そもそも、その口調は好まないと……」
「アンタじゃない。女王陛下に申し上げたんだ」
誰がお前に、と。一層強く睨み付けた後に、瞳は横の存在へと移る。
呆れた顔もほんの僅か。視線が絡めば、それはすぐに真剣な光となる。
「お前を呼んだのはその為だ。初めから全て話そう。……お前には、その権利がある」
微かに漏れた息は諦めか、ケジメか。あるいは、後悔であったのか。
単にペルデがそう認識しただけで、その音自体に意味などなかったのかもしれない。
どうであれ、ペルデに必要なのは、これから語られる真実。
始まりは儀式の前日。ジアードの弟が王宮に侵入したことから始まった。
そもそもの目的は、聖国の弱点を掴むためという馬鹿馬鹿しいもの。
精霊界と人間界を繋ぐ要とはいえ、蓋を開ければ中枢を担っているのは女王のみ。その上、王宮を守る騎士も全員が女だという。
純粋な精霊ならともかく、相手は自分と同じ愛し子。鉄壁の守りも、サリアナに作らせたローブがあれば探ることは容易。
元より、オルレーヌはアンティルダの土地であり、精霊によって奪われたも同然。盟約の縛りさえなくなれば、攻め入る正当な理由はあると、アンティルダでは常々騒いでいたらしい。
先王時代より私腹を肥やしていた者たちにそそのかされるまま。まずはジアードを王座から下ろし、その後に聖国を乗っ取る計画であったとか。
儀式の前に乗り込んだのも、準備で忙しない前日であれば警備が手薄だろうという、浅はかな考えからだ。
ローブの力を過信していたのもあるが、杜撰な作戦には変わりない。
案の定、その姿はペルデに見つかり、弱みどころか女王の姿すら見つけることもできずに、彼の企みは失敗に終わった……と、そこで終われば笑い話で済んだはずだった。
あとはジアードが内々に処理を済ませ、時を見計らって一掃するはずだったが、ジアードも想定していなかった誤算が起きた。
確かに弟の狙いは合っていたのだろう。実際、あの日のディアンはなにもかも無防備だった。
ジアードも、あの男も、どちらも同じ愛し子。されど、弟がその身に継いだ精霊の血はあまりに薄すぎた。
限りなく人に近い身。ましてや、アンティルダは魔力に乏しい地。いくら心得があったといっても、耐性だって無に等しい。
そんな男が真に精霊に愛された存在を直視して、正気でいられるわけがなかったのだ。
アンティルダとオルレーヌに交わされた盟約は、当時アンティルダを加護していた精霊と聖国の間で結ばれたものだが、それは双方に関わる事柄に限られたもの。
精霊の伴侶と知りながら手を出せば、精霊の怒りに触れることを。そして、それは今度こそアンティルダの消滅を意味することを、ジアードは理解していた。
ゆえに、それを知ったジアードも、王宮に足を踏み入れることとなった。
あの時点で弟を逃がしたのは、決定的な証拠を掴むための時間稼ぎ。わざとジアードが姿を現したのは、女王と交渉を行うため。
当然ロディリアも疑っていたが、結局は今回の取引を結ぶに至ったらしい。
現状、あのローブを着用して視認できるのは、王宮内ではペルデのみ。そのローブも処分したはずだが、まだ材料が残っているのか処理が追いつかない状況。
特例で滞在を許しているとはいえ、これ以上の騒動に一般人を巻き込むわけにはいかない。
なにより、半年前に捕らえられなかった罪人を裁ける……となれば、この機を逃すにはあまりにも惜しかった。
禁忌に触れた物証に、今後製造されないことの確約。
アンティルダに誘拐された愛し子について、ジアードが把握している限りの証拠と保護している者たちの解放。そして、選定者へ危害を与えようとする者の確保への尽力。
ジアードは、アンティルダを長く膿ませていた害を一掃するため。ロディリアは使命を全うするため。互いの利害は一致し、芝居が打たれていたというわけだ。
他にローブを着用した部下が紛れ込んでいる可能性を考え、一部の人間――中立者と、限られたトゥメラ隊以外には直前まで秘められていたらしい。
「本来なら門に不具合が出たことにし、潜入させたトゥメラ隊が証拠を集める時間を稼ぐつもりだったが……まさか、本当に異変が起きるとはな」
想定外ばかりだったと呟くそれは、疲労よりも面白さが勝っているように見えたのは、ペルデの気のせいではないだろう。
「では、あれは本当に?」
「おそらく、選定者が精霊王に謁見した際に起きた現象と同じだろう。今も調査を依頼しているが、回答はきていない」
「門を書き換えたから、ですか」
「いや、書き換え自体は門の開通を阻害させるだけだ。愚弟が選定者に魅了され、アンティルダに戻るまいと咄嗟に仕込んだものだが、それ自体は不発だった。落ちていた石も、書き換える際に使用したものだな」
「……僕とこの男を一緒にしたのは?」
「あの時点でローブの着用者を目視できたのはお前と俺だけ。そして、実際に追いかけられた愚弟もそれは知っていた。万が一監視から逃れた場合にお前が襲われる可能性があったからな、最初からその手はずだった」
結果として、治療に専念することができたと肩をすくめられ、吐息に混ざったのはなんの感情か。
トゥメラ隊が倒れた姿を見せたのも、弟たちを信用させるための演技。
投影の道具を渡したのは、調査を行うトゥメラ隊へ指示を出すため。
そして、ジアード以外を監禁し、ペルデたちを一カ所に留めたのも、安全を確保するためだった、と。
「無事に証拠も集まり、あとは決定的な状況を用意するだけ。で、あえて奴の監視を緩め、誘導し、あとは引き渡すだけだったというのに……まさかお前まで監視を抜け出すとはな」
「それはっ! そもそも、お前がこいつを俺の所に忘れていったから! 次の朝には出ていくって……!」
こいつ、と指差された妖精はきょとんとペルデを見上げたが、すぐに笑って指先を抱きしめてくる。
他の妖精も真似をして纏わり付いてくるのを、振り払うこともできない。
グラナートの訪問もあったが、そもそも部屋から出ようとしたのは彼女をジアードの元に帰そうとしたからだ。事情が分かっていたなら、ペルデだってそんな無茶はしなかった。
「忘れたんじゃなく置いていったんだ。あんな魔力の濃い場所に連れて行けるわけがないだろう。なんのためにこいつの事情まで明かしたと思っている」
「わかるわけないだろ!?」
あの状況で話を繋げろというのは無茶ぶりがすぎる。
むしろ、それを聞いていたからなんとかジアードの元に戻そうと必死になったというのに。
「まぁ、置いていったのはお前が来る可能性も考慮したうえで、お前の身を守るためでもあったが」
「俺の?」
「たしかに過剰な魔力はこいつにとっても毒だが、それでも妖精には違いない。多少苦しむこととなっても、死ぬほどではない。……お前と違ってな」
跳ねた指先に反応し、無邪気に喜ぶ様子はペルデには映らない。その脳裏にあるのは、一度ならず二度も死にかけた刹那の記憶。
崩壊した石像。決壊した供給源。押し寄せる源水に呑まれ、次に目を覚ましたときには白い天井。
苦痛を感じる間もなく意識を失ったのは、不幸中の幸いと言える。
……つまり、助かっていなければ、あれがペルデの最期だったということ。
「近くにいれば、魔力を吸収するなり緩和させるなり、身を守る術はそいつにもできたからな。身を預けるほど気に入った存在なら、俺がなにを言わずともそうしただろう。まぁ、そんな俺の心遣いも誰かが無駄にしたわけだが」
「それこそっ……!」
今度こそ、深い溜め息は呆れから。あらゆる最善を尽くしたというのに、当の本人がそれを台無しにしてしまったと。責める視線の理由は理解できても、納得までできない。
だが、張り上げた声は途切れ、落ちる。
そう、理解している。伝えられなかった事情も、行動の意味も。言動はどうであれ、自分を守ろうとしてくれたことも。今から言うのが、ただの八つ当たりであることだって。
跳ね上がった怒りは息を吐くことでなんとか留めても、言葉までは呑み込めず。
「……それこそ、あんたが言ったんだろ。こいつは、あんたにとっての唯一だって」
そっと持ち上げた小さな姿を、本来在るべき場所へと戻す。伸ばされた手、受け取られた存在もまた、彼を見上げて微笑む。
「だから、帰すべきだと思ったんだ。……どんな手を使ってでも」
それこそ、呑み込まれる前。死の淵が迫ろうとしていても。
あの時伸ばされた手が、本当はペルデを掴もうとしていたと気付いていても。もうあの時には、身体は勝手に動いていたのだから。
なぜ、そうしてしまったかなんて。どうしてそう思ったかなんて、ペルデにも分からない。説明を求められたって答えられない。
……だが、少なくとも。あの瞬間をペルデは悔やまなかった。それだけは、事実。
「だとしても、お前はあそこで手放すべきではなかった。……だが、俺も言葉を誤ったようだ」
導かれるように見上げた先。緩む深緋に、これまでの嘲笑はない。
「こいつを守ってくれたことを感謝する、ペルデ」
柔らかく、温かな光に見つめられた榛色は瞬く。あまりにも素直な言葉にむず痒いような、慣れないような。
だが、決して嫌な気持ちではないと、ペルデの唇もまた、柔く弧を描く。
「ペルデ。事情があったとはいえ、我々の事情に二度も巻き込んだことを改めて謝罪したい。……本当に、すまなかった」
「女王陛下……」
「なにかを望むのなら、全力を以て応えよう。お前にはそれを要求するだけの権利がある。……いかなる願いであろうと、聖国が咎めることはないと約束しよう」
それがせめてもの償いだと、下がる頭を見つめる。
ただの一般人に、一度ならず二度までも謝罪し、さらにはその願いまで叶えるという。
本当になにもかも異例だといえる。ペルデだってそうなる覚悟でここにいたことには変わりない。
……だが、差し出された機会を捨てるほど馬鹿でもない。
「叶えていただきたいことはあります。……ですが、願うのは選定者様が精霊界に迎えられた後に」
「……わかった」
扉が開き、トゥメラ隊が彼女の元へ。帰還の準備が整った知らせに、先にロディリアが席を立つ。
「貴殿らは遅れてくるといい。……そう長くならぬようにな」
釘を刺された男が鼻で笑う間に、彼女と護衛の姿も扉の向こうへ。
外で待機しているトゥメラ隊はいるだろう。だが、部屋の中にいるのは……今度こそ、二人きり。
「道は決まったようだな」
「……それより、伝えてよかったのか。あんたの妖精のこと」
柔らかな深緋に慣れず、意図的に話を逸らしたことも気づかれているだろう。
吐いた息に混ざる笑い。そこに微笑ましさが含まれているのを、ペルデは気付かないふりをする。
「これも信用を得るためだ、仕方あるまい。そもそも、双方同意の下で作られたのであれば禁忌には抵触しない。それに、俺からあれを取り上げるためには妖精をどうにかするしかないからな。聖国に留まらせれば魔力過多で衰弱すると知って、奴らもそこまではできん」
あのローブが禁忌と言われたのは、人間が妖精を害した結果生まれた産物だったからだ。
ジアードが所有しているのは、自分の妖精から落ちた羽を再利用しただけ。となれば、罰を下すことはできない。
そこまで想定して、彼は対談に及んだのだろう。……そうだとしても、伝えたくなかったはず。
だが、この男は迷うことなくそれを選んだのだ。守るべき場所のために。己の国のために。
「アンタの弟が持っていた道具を取り上げなかったのも、計画のうちだったのか」
「あの時点で確認できたものは全て取り上げたとも。……だが、奴の妖精が隠し持っていたことまでは想定していなかった」
とうに消失しているものだと思っていたと呟くそれは、本当に疑っていなかったのだろう。
「それって、あんたの妖精のローブと同じように?」
「元が身体の一部だったものと、全くの異物を取り込むのでは負担が違いすぎる。門の細工に使った媒体の他に、作らせたローブも持たせていたのだろう。……実際、奴が死して間もなく、その身体も消えてしまった」
それは、どれだけおぞましいことだっただろう。
他の妖精の死骸で作られた服を持たされ、強い魔力に冒され、苦痛に苛まれながら、それでも耐え続けた最期がそれだとは。
そうまでして、その妖精はあの男のそばにいたかったのだろうか。
……それこそ、ペルデにはわからないこと。
「奴が俺の目を盗んで聖国に転移できたのも、聖国の障壁を抜けることができたのも、妖精が手を貸した可能性はあるが……今となっては終わったことだ」
「……最後に、一つ聞いていいか」
話は終わりだと、ジアードが席を立つ。その背が扉に向かう前に呼び止めたのは、今でなければ聞けないこと。
聞く必要はない。……それでも、大事なこと。
「あんたが俺を傍に置いた理由はわかった。なら、なんでアンティルダのことを俺に明かしたんだ。保護するだけなら、説明する必要はなかっただろ」
「必要性はともかく、お前の疑問は晴れたんだ。それでは不満だと?」
「誤魔化すなよ」
ただの気まぐれ。ただの暇潰し。それだけで内情を明かすほど馬鹿な男ではないことをペルデはもう理解している。
聖国の成り立ち。その手で殺めた先王。そこにいたはずの精霊。自身の妖精。
どれもアンティルダにとっては機密事項だ。
それなのに見返りも求めず、口止めもしない。あまりにリスクの高すぎる行為。
ロディリアと交渉していたのを考えても、ペルデに明かす必要はなかったはずだ。
見つめるペルデに対し、男は深く息を吐く。そこには呆れも笑いも含まれず、ほんの少しの諦めは自身に対するもの。
「気まぐれというのは嘘ではない。強いて言うなら、俺にもまだ欲が残っていたらしい」
「言っている意味がよく……」
「あんな顔をした子どもを見捨てられるほど、俺も冷酷じゃなかったという話だ」
歪む唇に対し、寄せられる眉はより狭まる。
あんな顔とは。いったい、どんな表情をしていたというのか。
というか、そもそもそれは、いつの話で、
「全てを無駄と諦め、自棄を起こして人生を投げ捨てようとしていた顔だな」
聞く前に与えられた答えに、ペルデの眉はこれ以上なく近付き、男の喉からは音が出る。
正直、なにも言い返せない。というより、言い返せばそれ以上に言いくるめられるだろう。
まだ吹っ切れたとは言いがたいが……だが、確かに。この男に会ったときに比べれば、多少マシになった自覚はある。
たった数日。ほんの僅かな期間。それでも、この男が与えた影響は、確かにペルデを変えたのだから。
「これまでのことを考えれば無理もないことだ。だが、もうお前は道を定め、己の意思で進むと決めた。……今後巻き込まれるか、犠牲になるかも、お前の意思次第だ」
距離が近づく。伸ばした手は腕に触れ、それから胸へ。ト、と押された心臓は、熱を吹き込まれて脈打つ。
「忘れるな、ペルデ。お前を繋ぎ止めた唯一を。お前を生に結びつけたものは、お前だけのものだと」
血が巡る。熱が。怒りが。衝動が。
これまでペルデの中に渦巻き、抑え込んでいたそれが。死にかけたペルデを呼び覚ました唯一の感情が、巡る。
思い出せと、投げかけられた声を忘れない。……忘れることは、できないだろう。
そうして蘇った記憶が。植え付けられた怒りが。そうして、投げかけた声こそが、ペルデをこの世界に引き戻したのだから。
「さて、これ以上長く待たせる訳にもいくまい」
熱は離れ、背を向けられる。そのまま見送るはずだった男は、数歩歩いたところで再び振り返る。
「見送らないつもりか?」
薄情者めと笑う深緋を直視できず、されど目を逸らすこともできず。熱は、胸の底へと沈み込んだ。





