345.裁き
『……本当に、ここなのか?』
部屋を出て、どれほど歩いただろう。見慣れた道も隠れながらと考えれば長く、遠く。目的地が定かでなければなおのこと。
だが、いざ誘導された場所につき、安心よりも疑いが込みあげたのは仕方のないこと。
背後では水音が流れ、聖水は水路を伝って王宮内に張り巡らされている。
その源水は、まさしくペルデが立つ扉の先に。
『ジアード、ここ、いる』
なにかの間違いか、それとも勘違いかと。期待した答えは、明確な言葉で否定される。
聖国どころか、この人間界でも重要な場所だ。これがディアンやエルドならまだしも、警戒されている男が近付けるはずがない。
唯一目を盗めるローブは今、ペルデが着けているものただ一つ。
どんな事情があればここにいられるというのか。皆目見当がつかない。
『なにかの間違いじゃないのか?』
疑うわけではないが、素直に信じがたいと問い返せば、首元でゆるりと顔を振られる気配。
『ジアード言ってた。ここにいるって』
『……言ってた?』
『なにかあったら、泉のある場所にいるって。泉、ここであってる?』
違うのかと逆に問い返され、否定はできず。されど、素直に答えるにはまだ混乱している。
先ほどの留守番といい、今のといい。まるで、こうなることが最初から分かっていたようだ。
それこそ男の果たしたい目的が関係しているとして……違和感は、まだ他にある。
こうして扉の前に立っているのは、ペルデの姿がない以前に、見張りの姿がいないからだ。
ディアンが中にいなければ、ペルデが近づくことも禁じられている場所。
どんな緊急事態だろうと、この扉の前からトゥメラ隊が姿を消したことはなかったはずだ。
それ以前に……人が、少なすぎる。
自室からここまで、決して短い距離ではない。それなのに、すれ違った相手がほとんどいないなんて。
ただの偶然や幸運で片付けるには、あまりにできすぎている。それこそ、意図的に仕組まれたとしか思えない。
何かが繋がりそうで、繋がらない。答えがあるとするなら、それはこの扉の先だ。
強い魔力に浸されて影響を受けるのは、ペルデもこの妖精も同じ。……だが、ここまできて、引くことはできない。
ゆっくりと、扉を押し広げる。軋む音は静かな空間にやたらと響き、されど鼓動が跳ねるのは緊張だけではない。
隙間から覗いた先。見えた黒髪に言っていたことが本当だったと錯覚して、それが違うことにすぐ、気付く。
同じ黒髪でも、見間違えるはずがない。その短髪を。あの後ろ姿を。誰も連れずに泉の前で、あの像を見上げている姿を。
……なぜディアンがここにいる!
咄嗟に探した茶色は視界に入らず、白い影も同様に。
主要な儀式が終わったとはいえ、まだ期間中だ。アンティルダの連中も帰っていないのに、なぜ他に誰もいない?
あまりに無防備すぎる。いったいどうして、なにをとち狂った!?
いくら泉の前が安全とはいえ、今は最悪すぎると。迂闊な行動への苛立ちは、一瞬で焦りに変わる。
揺らぐ空間。目を凝らして見据えた先。バケモノの背後から近づく姿。
どれだけ見えにくくとも、ペルデには見えている。他の誰も気付けなくとも、それをペルデは見ている。
葛藤は一瞬だった。否、むしろ考えた時間すらなかったかもしれない。
影がディアンに触れるよりも先に。その指先が掠めるよりも前に、男の肩を掴む。
驚愕に歪む顔を力のままに殴りつければ、醜い声をあげて倒れる姿。
ローブが外れ、露わになった顔は、あの男が愚弟と呼んでいた男。
「っ……てぇ……!」
伝わる衝動はペルデも同じ。手首の痛みを誤魔化しながら、振り返るディアンを睨み付ける。
見開く紫を見据える榛色は、より鋭く、強く、睨む。
「っな、なんでっ……」
「――なんでアンタがあいつの恰好してんだ!」
地面から聞こえた疑問は、ペルデの怒号にかき消された。
瞬き、姿勢を崩し。強張っていた顔がみるみる笑みに変わる。それこそ、この数日で見慣れた、小馬鹿にする笑みと全く同じに。
「なんだ、もうバレたか」
模範した声は、言い切る前に元の響きに戻る。
声だけではない。ペルデよりも低かった背も、髪も、忌々しい紫も。骨が軋み、噛み合う音を立てながら。
浅黒い肌も、赤い瞳も。全てがあるべき姿へと戻っていく。
「やはりお前を騙すのは厳しかったようだ。……そこの馬鹿は、まんまと引っ掛かったが」
「なっ、な……なん、なんでっ、お前がっ……!」
最後に肩を鳴らしたジアードに呼応するようにローブが消える。姿を現したペルデと、正体を現したジアードを交互に見やる姿は、本当にこの状況を理解できていないのだろう。
否、それはペルデだって同じこと。
「それにしても……やはり、大人しくしていなかったか」
大袈裟な溜め息は、ペルデに向けてのもの。想定していた通りだと呆れられても、未だ状況は呑めず。そもそも、説明してもらえるとも思っていない。
視線は既にペルデからも弟からも外れていたのだから。
「それとも、これもわざと見逃したか?」
「よく言う。そのローブを与えたのはお前だろう」
威圧感が増し、鼓動が跳ねる。淡々とした響きは、ジアードのすぐ隣から。
月明かりに反射する銀髪も、周囲を取り囲むトゥメラ隊も、最初からそこにいたのだろう。気付かなかったのはローブの効果ではなく、彼女たちの魔術の高さを示すもの。
「女王陛下……!?」
「俺の妖精がしたことだ、仕方あるまい。とはいえ、ここまで気に入られていたのは想定外だったがな」
ジアードがディアンに扮していたことも、愚弟と呼んだ男がここにいることも、女王が待ち構えていたことも。
なにより、妖精とローブの存在を明かしていることだって。なにもかもついていけていない。
この場で一番理解できていないのは、未だ転がったままの男だろうが。
「さて、女王陛下もご覧頂いたとおり、我が愚弟は精霊の伴侶と知りながら危害をくわえようとした。幸い未遂に終わったものの、こうなってしまえばアンティルダとしても庇いきれぬ罪だ。処刑も免れまい」
「処刑だとっ!? ふっ、ふ……ふざけるなっ!」
立ち上がろうとすれば、トゥメラ隊に切っ先を向けられ、怯んだのはほんの僅か。
喚き立てる口から飛び散る唾がその必死さを現す。
「盟約がある限り、裁けるはずがっ……!」
「それはあくまでも、聖国と我がアンティルダの間でのみ交わされたものだ。精霊の領域にまで踏み入れておいて、免責されるわけがなかろう」
なにを今さらと嗤う声と、それ以上に突き刺さる冷たい視線。
当然だ。選定者は、そう名付けられた時点で精霊の伴侶も同然。
決定権が当人にあるとしても、その扱いは精霊と同等。そんな存在に手を出したならば、それは人が裁ける範疇を超えている。
なにかの過ちならばともかく、奴はディアンが選定者であると認識しながら悪意を向けた。
もはや、言い逃れはできない。
「くわえて、各国の愛し子の誘拐と監禁、妖精を加虐し禁忌を犯したともなれば、いくらアンティルダといえ引き渡すのが相応であろう」
「でたらめだ! 俺じゃない! お前がやったことだ! あの女を利用してっ! しょ、証拠だってあるはずがっ……!」
「いやはや、さすがは女王の誇る直属部隊だ。俺の部下の力添えがあったとはいえ、ほんの数日で誘拐された愛し子の解放と関係者の制圧、さらには全ての証拠を集めきるとは」
見事なことだと手を打つ男に、ロディリアの目は冷ややかなまま。
「アンティルダの投影技術もなかなかの物であった。おかげで、こちらも指示を出しやすかったからな。……想定より戦力が低かったのも嬉しい誤算ではあったが」
「ふざっ……ふざけるな! ふざけるなぁっ!」
血の気の引く音は、ペルデにも聞こえそうなほど。
監禁されている間に全てが詳らかにされたと知り、逃げられないと気付いた男はなおも吠える。
「聖国と手を組んだだと!? 勝てないと思って属国に成り果てるつもりか!? 俺たちの土地を奪ったこいつらの味方をするなどっ……! こ、こんな! こんな女しかいない国に怖じ気づいて、それで王を名乗るつもりかぁっ!?」
「…………まったく」
もはや面白みを通り越し、呆れしか込みあげないのだろう。深い溜め息の意味は、手もつけられない愚者への、せめてもの情けであったのか。
「愚かとは思っていたが、ここまでとはな。いったい何千年前の話を持ち出すつもりだ? ここまで精霊信仰の染みついた土地なぞ、我がアンティルダには不要。差し出されたとて受け取る気にもならん」
「なっ……!?」
目を瞬かせたのはペルデも同じ。吐き捨てる言葉は、心の底からの侮蔑。
必要ないと言い切った言葉に嘘はなく、ただただ呆れかえるばかり。
奪われたと称したのと同じ口で、いらないと言い切る男の瞳に宿るのは、覆らぬ意志の強さ。
「第一に、当時の怒りを知る民は土に還り、正しく起源を知る者も存在しない。そうやって正当性を主張し、強襲すれば女ばかりの国など奪えると思ったんだろうが、動機としてこじつけるにはあまりにも弱い。既に盟約の交わされたことに対していつまでもウジウジと引っ張り続けているお前の方がよほど女々しいではないか」
「ジアアアァァドオオォオオオ!」
いよいよ図星を貫かれ、逆上した男は呆気なく組み伏せられる。男と女、同じ精霊の血を引いていたとて、力の差は明らか。
無様に足掻く姿を見下ろす瞳に愉悦は覗かず、ただ冷たい光が差すばかり。
「先王の怒りだの、精霊の嘆きだの……そんなもの、盟約を交わした時点でとうに昇華されている。そもそも未練があったとて、お前の幼稚な策に利用される道理もなかろう」
「黙れ黙れ黙れぇっ! お前など王などではないっ! 誰よりも相応しいのは俺だっ! お前が親父を殺さなければ俺が王になっていたのにっ!」
目を血走らせ、唾を飛ばし、なおも吠える男は本当にそう思っていたのだろう。
もはや骸と変わらぬ王がいれば、いずれはアンティルダを手中に収められると。そうして、聖国までも手に入れられるのだと。
……ペルデに政治の話はわからない。だが、それがあまりにも稚拙な考えだとは理解できる。
たとえ先王が生きていたとて、いずれはこうなっただろう。ただ、その時がズレていただけ。
そして、決してその定めからは逃げられなかっただろう。
「その暴走が国内で留まっていれば内々に済ませたものを。乗り込んだ挙げ句ただの人間に魅了されて破滅する者が王を名乗るとは。これ以上は聞いてられんな」
「同感だ。……連れて行け」
巨体が引き摺られ、喚く声がより一層、やかましく響く。
もはや当事者たちの間では終わったことと認識したのか、なおも足掻こうと床を引っ掻く踵から、向き合った二人へとペルデの視線も移る。
「約束は果たした。ようやく取引も終わりだ」
「多忙なる聖国に、我が国の茶番に付き合わせたことを詫びよう。おかげで、こちらとしても手間が省けた」
「……とり、ひき」
思わず零してしまった言葉に、深緋が交差する。緩む瞳。笑う唇から呟かされるはずだった響きは、けたたましい叫びで打ち消される。
――否。それは耐えがたい程の耳鳴りと、痛みを伴うもの。
まるで空気そのものが震え、打ちつけるように。咄嗟に頭を抱え、うずくまる中で捉えたのは、なにかを投げつけた男の姿。
それが、光を通さぬ黒い塊と認識した瞬間、光が溢れ出す。
強い目眩と、込みあげる嘔吐感。酩酊感にも似たそれを、ペルデは知っている。
これは、門が開いた時と、同じ――!
「馬鹿か! ここでそんなものを使えばっ……!」
怒号が耳鳴りに掻き消される。喉まできた酸味を噛み殺し、痛みに耐えようとしがみ付くペルデの耳に届くのは異音。
軋み、ひび割れる音。それはペルデの中ではなく、ジアードたちの背後。
対となる石像。重ね合わせた手。溢れる水の量が音と共に増える。
聖水の源流。精霊界にある湖の底から、直接流し込んでいる魔力の源。
人間界になければならないそれは、されど源水のままでは人の身を侵すほどに強いもの。
理解していても、足が動かない。こうして見ている間にも音は軋み、あと数秒ももたないだろう。
死が迫る一瞬。ペルデに込みあげたのは恐怖でも混乱でもなく、自分がしなければならない行動。
「ジアード!」
伸ばされた手に届くよう、掴んだ存在を投げつける力は、ペルデが振り絞った全てだ。
羽がなくとも舞い散る光は、あるべき場所に受け止められる。
届いたという事実。見開く深緋。何かを叫ぼうとして、開かれた口。
――それが、水に呑まれる前にペルデが見た、最後だった。





