341.ミヒェルダ
見開かれる青の中、映るペルデが苦笑する。
この後に続く言葉だって分かっているからこそ、その唇が開く前に振った首は軽いもの。
「分かってる。贖罪のためとは思っていない。あなたはただ、子どもである俺を心配していただけだ」
数百年以上生きた彼女にとって、当時のペルデは幼子も同然だっただろう。
それは今も同じ。何かの代わりになろうとしたのではなく、誰かに取って代わろうとしたのでもない。
それは、ただ純粋にペルデを案じていたからこその行動。
近くにいたからこそ放っておけなかった。ただ、それだけの話。
……されど、それはたしかに、彼女の意思で行われていた。
「司祭の仕事と、女王陛下の命令で、余裕のなかったグラナート様と俺を気にかけて支えてくれたことだって。任務の延長だとは思っていないし、罪悪感からでもないって分かってる。……あなたが、グラナート様との関係を心配していたのも、俺がどう思っているか気付きながら見守ってくれていたことだって」
半年前から今まで。探りを入れられたことはあっても、復縁を迫ったことはなかった。
それは、元通りになるという確信ではなく、ペルデの気持ちが落ち着くのを待っていたからだ。
ああ、そう考えれば。理解されていなかったわけでは、なかったのだろう。
だけど、自力では気付けなかった。あのまま、ただ日々を生きているだけでは拒絶だけで終わっていた。
だからこそ、今この胸にある思いに揺らぎはなく。榛色が揺らぐことはない。
「でも、もう選んだんだ。俺がこの先どうしたいかも、あの人との関係をどうするのかも。やっと、そうしようって決めれたんだ」
これまでのような、やけくそ気味の思考ではない。この決断が変わることはないと、ペルデは自覚している。
……これだって、きっと。あの時には答えが出ていたのだ。
半年前。グラナートと対話をした、あの瞬間には。
「ジアード王の影響がないって言えば嘘にはなるかもしれない。だけど、自分で考えた結果だ。……なんて言えば、どこかの精霊が喜びそうだけど」
それこそ、あの精霊だって気付いていたのだろう。
悩み、葛藤し、振り切れず。それでも、進もうとしていたペルデの足掻きを。人としての生き方を、あの薄紫は理解してなお、ペルデを止めようとしなかった。
それは、ペルデがどんな道を歩もうとも。あの精霊は助けることも、妨害することもない。
見守り、眺め。そうして満たされた男は、やがてあのバケモノを連れていくのだろう。
互いがあるべき場所へ。人ではないモノの居るべき、彼の地へ。
だからこそ、ペルデも自分の道を進まなければならない。
いつか恐れる日が来るとしても。これまでの生が、望んだ形ではなかったとしても。その先を選ぶのは、ペルデ自身であるはずだから。
「……もう、あなたが思うほど子どもじゃないよ」
だから、大丈夫だと。もう責任が取れなくなるほど幼くはないのだと、ペルデは笑う。
そう言っている時点で、まだ子どもかもしれない。その見通しこそが甘く、結局は絶望に打ちひしがれるかもしれない。
それでも、自分で決めたことだと。真っ直ぐ見つめる光を受け止めた青は、ゆっくりと閉じる。
漏れる息は静かに。そして、穏やかに。
「……それでもね、ペルデ」
伸ばされた指がペルデの手を握る。柔らかく、温かく。昔と変わらず、ペルデを慰める優しい力を拒む理由はなかった。
「私にとって、あなたが大切な人には変わりないわ」
「……うん」
「心配するなって言われても心配してしまうし、無茶をしたら怒りたくもなる。怪我をすれば悲しいし、辛い思いをしていたなら私も苦しい。あなたが私の身を案じてくれたように、任務や感情だけで割り切れるものではないわ、ペルデ」
ラインハルトに監禁され、サリアナに連れ出されようとした時。
ミヒェルダ自身に恐れを抱きながらも彼女を見捨てられなかったように、彼女もまた任務だけではない感情を抱いていた。
命令だけではない。義務だけではない。彼女自身の思いは、たしかにそこにあったのだ。
比較せずとも、グラナートも同じだと理解している。それでも、ペルデの中でもう、答えは出ているのだ。
同じでも違う。それは決して、重なることはないと、ペルデは知っている。
「だから、」
指に力がこもる。握られた熱は温かく、それでもペルデの中を焼くことはない。
思い起こさせる熱も、不快感も、そこに宿ることはないのだ。
……決して。
「なにを選んだとしても、無理はしないで。どこに行っても、なにをしようと。……あなたのことを心配していることを、忘れないで」
お願いだと、彼女は望む。ペルデの感情を察し、選んだ道の険しさを知りながらも。それでも、止めようとはしない。
今まで、ミヒェルダにここまで胸の内を明かしたことはなかった。
グラナートへの寂しさも、ディアンへの恨みも、教会そのものに対する感情も。それでも、確かに彼女は、ペルデにとって味方だった。
もし幼い頃に気付いていれば。まだあの教会にいたときに、心を開いていたのなら、なにかが変わったのだろうか。
……いいや。変わったとしても、それはペルデの内側だけ。
あの結末は避けられず。そして、この決断が変わることだってなかった。
それでいいのだと、ほどけた指の温度は冷たく。されど、心地良く。
「疲れているのに、こんな話をさせてごめんなさい。……だけど、ありがとう」
「……それを言うなら、俺の方だ。ありがとう、ミヒェルダ」
綻ぶ顔に覗く、少しの寂しさ。瞬き、立ち上がり、再び交わった青にはもう、その影はみえない。
「儀式の期間が終わるまではゆっくり休むよう、女王陛下からお言葉がありました。……少なくとも、明日の昼まではここにいて」
柔らかな言い方だが、実質的な命令だ。
半日以上、監視の目から逃れたうえに二人きりで行動していたのだ。警戒されて当然。
影響を受けていない保証がない以上、隔離するのは当然のこと。
少なくとも、ジアードたちがアンティルダに戻るまでは、この部屋から出してもらえないだろう。
……別れの挨拶は、やはりできそうにない。
「わかった」
「おやすみなさい、ペルデ。……ゆっくり休んで」
頷けばミヒェルダも納得し、扉が閉まればようやく一人きり。
吐いた息は深く、壁に跳ね返る音がいやに鼓膜に響く。
……これで、本当に、終わり。
繰り返しても事実は変わらず、これまでの出来事をなぞっても同じこと。
あれだけのことが起こっていたのに、あまりにも呆気ない。
だが、今回非があったのは聖国……もとい、精霊側にある。
門が通れないなんて異例の事態がなければ、ペルデも予定通りディアンのそばにいただろう。
逆に言えば、門さえ通れるようになれば、アンティルダを留める理由など一つもない。
狙いはあったにしろ、それらに関する証拠は……少なくとも、ロディリアたちが掴むことはできなかった。
不可侵条約も絡んでいる以上、憶測で裁くこともできない。アンティルダに拘束されていたトゥメラ隊も戻り、ペルデを確保できたなら、あとは追い出すだけ。
ジアードがペルデを指定したのも、あの時点で弱っていた人間だったから。暇つぶしにするには、ちょうどいいと判断されたから。あの数日で交わした会話も、今日の語らいも、意味などない。
そもそも、他国の王と一般人が同室で過ごすなんて、本来ならあり得ないことだ。
然るべき形に落ち着いた。ペルデは役目を果たし、ジアードはアンティルダに戻る。そうして、全てが元通り。
ペルデの心境に変化こそあれ、表面上はなにも変わらない日々を過ごすことになる。
いつか来る日まで。そうして、ペルデが進むその時まで。
…………本当に、そうだろうか。
捻じ伏せようとした疑問が、ここにきてペルデを阻む。
心の奥、引っ掛かるのは、最後まで明らかにできなかったアンティルダの目的。
聖国に直接害を成すのではなく、あくまでも過程の一つならば納得できる。
ペルデにその内訳は見当が付かずとも、すでに細工が施されている可能性は十二分にある。
アンティルダが聖国の土地であったことを暴露すれば、ノースディアの例もある今なら、聖国の根幹も揺らぎかねない。
だが、告げるだけなら、それこそどんな方法でも、いつでも構わなかった。わざわざ他国を陽動してまで聖国に来る理由にはならない。
儀式という、正統な方法で来なければ果たせなかった、なにか。
恨みでも怒りでもなく、されど確実に為さなければならなかったこと。
考えたところで意味もないのに。ペルデには伝えられないことなのに、どうしたって拭えない。
ジアードと、先に侵入していた弟の目的が一致しないことも確かだ。険悪に見せかけて騙している、と言われたらそこまでだが……。
もしジアードが命じたのだとしても、あのローブを使わせるとはペルデには思えなかった。
たとえそれが、あの弟がサリアナから渡されたものだとしても。その譲与に関与せず、聖国の目を欺くためなら使えると理解していても。ジアードは、使わせようとはしなかっただろう。
聖国だって馬鹿ではない。門の対応と並行し、それも調べていたはず。それこそ、ペルデよりも突き止めている情報は多いはずだ。
盟約があるとはいえ、こんなにもあっさり終わらせるものだろうか。
アンティルダにとって機会であったように、聖国もアンティルダを罰せる可能性があった。
それだけの証拠を掴めなかったのか。ただの、可能性に過ぎなかったのか。
罪人と確定したわけではない。弟たちへの尋問もできず、ジアードだって一切尻尾を出さなかった。
ペルデに語った内容も、アンティルダの罪を確証するには至らない。他国に示すための、揺るぎない証拠が必要だ。
そんなもの聖国まで持ち込んでいるはずがない。裁くためにはそれこそ、国内に乗り込むしか……。
ふと、疑問がよぎる。微かにあった違和感は膨れ、やがて二つの影を浮かび上がらせる。
……いたじゃないか。女王の隣に並び、帰還した事実を示した使者が。
死の淵を彷徨った後でも見間違えたわけではない。
投影越しだが、確かに担がれ運ばれる姿をこの目で見た。……だが、本当に彼女たちは捕まっていただけなのか?
そもそも、警戒すべき地に少数しか送っていない時点でおかしい。
いくらトゥメラ隊を信頼していようと、あまりにも少なすぎる。
それだけじゃない。ペルデが死の淵を彷徨い、ジアードたちが部屋に乗り込んだ後。なぜ、女王がすぐペルデの元に現れた?
彼女が来ること自体は問題ではない。ただ、あまりにも早すぎたのだ。
最初から近くにいたのなら、それこそ乗り込まれる前に気付いていたはずだ。
そう、あの振る舞いはまるで……最初から分かっていたのでは?
鼓動が早まり、汗が滲む。短く息を吸って、……全て、溜め息に変わる。
そうだとして、なんだというのか。
いまさら……いまさら突き止めたところで、ペルデにはもう、どうすることだってできないのに。
これ以上首を突っ込む必要はない。事態はもう、人間が関与できる範囲を超えているのだ。
ペルデができることは終わった。今回も巻き込まれただけで、最初から部外者だったのだから。
もう一度、息が部屋に溶ける。何度繰り返しても胸の内は軽くならず、冷めきったスープを勢いのままに煽る。
――そうして、ペチリと。顔に落ちてきたなにかに、目を見開いた。





