32.洞窟
――固い感触に、目を開く。
剥き出しの岩肌。なにも敷かれていない地面。投げ出されている手。壁に映る、自分の影。
瞬きを繰り返し、何度も見つめ返す。当然ながらどれだけ眺めようと景色は変わらないし、状況が変化することもない。
なぜここにいるのかと記憶を漁っても答えは出ず。無意識に吐いた息は深く、重く。ただ、息苦しくないと思ったことに……なぜか少し安心した。
「……起きたか」
身体が跳ね、上体を起こす。一人しかいないと思っていた空間にもう一人と一匹。白と紫。映った色で全てを思い出した身体が立ち上がろうとして、響く痛みに呻き、蹲る。
そう、そうだ。自分はこの男に、襲われて、
「元気そうでなにより。だが、いい加減そろそろ落ち着いてほしいもんだな」
ディアンが吐いた以上に深い溜め息と呆れた表情。たき火で逆光になっているが、淡い光はそれらを照らすだけで隠すことはない。
火元から立ち上がり、近づいてくる男を睨み付ける。武器はない。だが、どれだけ気を失っていたかはわからないが、魔力は僅かに回復している。
威嚇を込めて手に圧を溜めれば、男の足が止まる。視線だけ動かし、認めた男の溜め息は今度も深い。
「なにもしねぇって」
「……殺そうとした男を、信じろと」
「あれに関しては事故みたいなもんだろ。まさか遅延魔法をかけただけでああなるとは思わねぇだろうが」
呆れか、苛立ちか。どちらであれ信じられるはずもない。遅延魔法なら、それこそ今まで嫌というほど受けてきた。自覚はなくとも、あんなに苦しかった記憶は一度だってない。
今度こそ息の根を止められるのか。いや、それならそもそもここへ連れてくる理由なんて……第一に、この男は殺そうとしたのではなく連れ戻そうとしたのでは……。
片や震え、片や動じず。ディアンは混乱し、男は冷静なまま。どちらが優勢か、誰の目から見ても明らか。
「ったく……ほら」
実際に見つめ合っていたのは数秒だったのだろう。
おもむろに懐を探った男が掲げたなにかを投げ寄越し、思わず受け取ってしまったのを後悔する。痛みも変化もないことに安心したのは一瞬だけ。
握り締めた手をひっくりと開けば、鈍い光がディアンの瞳へ跳ね返る。収まっていたのは、丸く加工された鉱石だ。
一見すると銀に見えるが、メダルのように薄く加工されたそれは、たき火に反射していくつもの光を放っている。
薄いピンクのようにも、水色のようにも見える。角度によれば赤や緑も。少しでも鉱石について知っているなら、これが銀でないことは明らか。
素材もそうだが、溜めていた魔力を散らした理由はそこに刻まれた紋章だ。太陽を模した円。この世界に住むものなら、誰もが知っているシンボル。
それを持つことが許されているのは、ただ一つ。
「……教会の?」
「落ち着いたか?」
肯定はされない。だが、この紋がなによりの証拠だと男が肩をすくめる。その外見はどう見たって冒険者にしか見えない。
教会の関係者だと示すための証。それも、一定以上の階級でなければ所持できない。
基本的に配属された教会から出ることはないが、それでも離れなければならない場合、自分の身分を証明するためのもの。
闇市では模造品が売られていることもあるが、希少な鉱石……オリハルコンなんて、そう簡単に手に入るものではない。
指で叩き、裏返し、何度も光を確認して。素人目にはやはり本物にしか見えず、遠い記憶を思い起こす。
そう、確か……これが本物と確かめる方法は……。
「少なくとも俺はなんの罪もないやつに危害をくわえたりしない。ほら、そんだけ元気ならこっち来れるだろ」
返事も待たずに、男は焚き火の元に戻る。メダルと男を交互に見るディアンの足は、まだその場に残ったまま。
偽物、とは思えない。自分を騙すためだけに作ったとも思えないし、そんな時間なんてなかったはずだ。
「……その格好だと寒いだろ」
動かないのを拒絶と取ったか。眉を寄せた男が手招きし、隣の空間を指差す。その反対にいる獣は眠っているように見えるが、耳の動きから起きていることを知る。
逃げようとしても先ほどと同じだ。
それに……本当に彼が父の命令により追いかけてきたのであれば、そんなことをしなくても捕まえられるし、こうする必要性だってないはずで。
歩けないので四つん這いで進み、指された場所より少し離れた位置で座り直す。
『まだ警戒しているのか』と言われると思いきや、苦笑する顔に浮かぶのはどちらかと言えば安堵。
「……ここは」
「俺らの今日の野宿場所。さっきの場所から十分ぐらいだな。で、お前が気絶してたのは半時間。まだ朝は来てない」
先回りして答えられるのは、全て知りたかったことだ。
半時間……そうなると、まだ夜明けまでは余裕がある。道さえ分かれば、今からでも村には間に合うはずだ。
「あなたは誰で、どうしてここに?」
「さっき見せただろ。教会のもんだ。で、ここにいるのはちょっとした野暮用のためだ」
思わず眉を寄せるのも当然だ。この回答で納得できる者がいれば教えてもらいたい。
教会の所属者が、こんな場所で、どんな野暮用というのか。それも野宿だなんて。突っ込み所しか存在しない。
やはりあのメダルは偽物だったのかと、自分の目を疑っても答えは出ない。
「それだけ警戒できるなら馬鹿じゃないんだろ。家出なんて止めて戻ったほうがいいぞ」
不意に響いた心地良い音は、枝を折ったものだ。火元に差し込まれた先が瞬く間に包まれ、燃えていく様を男は見つめたまま。
そうでよかったと思ったのは動揺してしまったからこそ。慌てて平然を装っても、この男には見通されているのだろう。
「……戻るつもりは、ない」
「武器もなし、資金もなし、魔力も言うほど高くなし。ついでに実戦経験もないときた。訓練こそ積んできたかもしれんが、そんな状態じゃあ死ぬぞ」
理解していたつもりだが、断言されてしまえば二の次は言えない。
分かっていたつもり、知っていたつもり。……だが、結局はこの様。
助けてもらえなければ、今こうして傷つくこともなかった。悔しさを抱くことだってできなかった。
なにもかもが足りない。ただ突っ走るだけは勇気ではなく無謀だ。
……それでも。
「……かまわない」
「じゃあ、また狼に襲われて今度こそ生きたまま食われるか? あるいは餓死か、そこいらのならず者に適当に殺されるか」
いくらでも方法はあるぞと、弄られる火がパチリと爆ぜる。
挙げられたどの方法でもディアンは抵抗し、その末に死んでしまうだろう。今のままでは。今の、ままだったら。
「死ぬつもりはないし、死にたいわけでもない」
「若いなぁ。だが、そういう勇気は別のところで使うべきだ」
「経験も知識も足りていないことは分かっている。資金だって、あなたの言うとおり十分じゃない。全部売ったところでたかが知れているし、その先だって……だけど、」
一度、息を吐く。否定の言葉はない。ただ、薄紫は静かにディアンを見つめるだけ。
いつもならここで誰かに遮られただろう。父にも、妹にも、殿下にも、姫にも。いつだって、最後まで紡げたことはない。
だが、ここには二人だけ。
名前も知らぬ男とディアンの……たった、二人だけ。
「……それも含めて、僕の選択だ」
だからこそ、それは音になった。言葉として意味を持ち、響き、意思となって男の耳に届いた。
「あのまま訳もわからないまま生きるぐらいなら……僕は、僕の意思で、選びたい」
「意気込みだけで生きていけるほど甘くないぞ」
「……既に、思い知ってます」
じくり、動かしてもいない足が痛む。唸る獣の声が木霊し、飛びかかってくる牙が脳裏を掠める。
あの瞬間、浮かんだのは死だ。対策も、後悔も、すべきこともなにも考えられなかった。
本能が抱く恐怖。為す術もなく血肉となり果てることを待つしかできない、形容しがたい感覚。
思い出すだけで身が震える。拳を握り締め誤魔化しても、一度湧き上がった寒気は引かない。
紫はそんなディアンを見つめるだけだ。睨むことも、哀れむこともなく。ただ、真っ直ぐに。
なにを考えているか、その表情から読み取ることはできない。だが、その目から逸らしてはいけないことだけは確かで。
数秒か、数分か。長いようで短い交差は、男の瞬きによって終わる。そうして伸ばされた手に仰け反り、止まった指先を凝視する。
「危害はくわえない。治療するだけだ」
一度は解いた警戒も、触れると宣言されればそうもいかない。
大丈夫だと思うが、その油断こそが命取りでもある。判断できるのは自分の感覚だけ。信じるには……やはり、この男はどうも怪しすぎる。
「襲うつもりなら最初からそうしているし、わざわざここまで運ばない。金が目的ならあのまま放置すりゃ勝手に片付けられてた。俺が手を出す必要性は全く無い」
「……だとしても、あなたが僕を助ける理由はない」
ここまで運んだのは獣に襲われる恐れがあったにしたって、わざわざ治療まで施すこともないだろう。正体も怪しければ、目的だって不鮮明。
警戒しすぎていると自分でも思う。だが……自分を守れるのは、自分だけ。
「お前、目の前で転んだガキがいても助けないタイプか?」
固めた決意に対し、返ってきたのはそんな例え。転んだガキ……というのは、ディアンしかいない。
「いや、それは……」
「大抵の人間は、ガキが危ない目にあってりゃ自然と助けるもんだぞ?」
「だから、」
「それともなにか? お前は木の棒片手に熊へ立ち向かおうとするガキを見て見ぬ振りするような冷酷な男だって?」
畳みかけられては抗議もできない。なにが言いたいかは分かるが、それにしたって他に言い方はないものか。
「いや、そうじゃなく! たとえがちょっと……」
「分かりやすくていいだろうが。……ほら、触るぞ」
知ったことではないと伸ばされた手を、今度は避けることなく。しかし、その指先が触れたのは足ではなく頬。
ヒリ、と走る痛みに、殴られていたことを今さら思い出す。
自覚すれば口の中まで痛い。このままでは口内炎は避けられないだろう。
「派手にやられてんな。襲われでもしたか?」
否定も肯定もしないのは、説明したくないからだ。父親に殴られたなんて素直に答えようものなら、ただの親子喧嘩と思われてしまう。
その内情がいかに複雑で、そんな言葉で片付けられないものだとしても聞いてはくれないろう。無駄な労力を使う気はない。
「だんまりな……まぁ、ある程度予想はできるが」
男も素直に答えるとは思っていなかったのだろう。諦めてくれたと安心すれば、すぐに光が溢れだす。
ほんの一瞬、瞬きの間。光はおさまり、痛みは嘘のように引いていた。
あまりにも早すぎる。グラナート司祭でも早くて数秒だった。治癒魔法を専門にしている者だって、ここまで早くはないはずだ。
「……本当に、教会の人なのか」
「まーだ疑ってたか。聖国から野暮用で王都に行くところだったんだよ」
思わず呟けばジトリと睨まれるが、あまり怖いとは思えない。それ以上に、答えられた内容があまりにもおかしかったからだ。
「……こんな夜中に? 馬車も使わず? 一番近い村で泊まってから来ればよかったんじゃないか?」
「こいつがいたからな、馬が怖がる」
そもそも教会には専用の馬車がある。長距離の移動になればそれを使うのが通常だが、確かに獣が同伴では怯えるのも仕方ない。
知能は高そうだが、大人しく後を付いてくる保証がない以上、一緒に歩くしかなかったのか。
「それに、夜明けまでに着く必要があったからな。お前も似たようなもんだろ」
不満そうに揺れる尻尾を一瞥し、答えられた理由に我に返る。
そう、そうだ。まだ夜は明けないが余裕はない。道がわからない以上、正しい場所へ出る時間を考えても足りるかどうか。
「だから落ち着けって。足の治療がまだだ」
立ち上がるよりも先に膝を押さえられ、そのまま足首を奪われる。中途半端な姿勢をなんとか正すも、片足は歪に上げられたまま。胡座をかいた足の上で固定され、仕方なく上体を維持する。
靴も靴下も脱がされ、露わになった部分に外傷はない。ただの捻挫だが、これから先を考えれば放置しておくのは得策とは言えない。
ほんの数秒の我慢。……そう思っていたのに、光こそ満ちても痛みは引かず。わざと遅くされていると理解しても、どうすることもできないまま。
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