329.ペルデの願い
『そう、精霊は身勝手だ。これまで己の人生を狂わされてきたお前ならば、もう理解しているだろう』
強張ったのは囁かれた言葉か。それとも、触れた場所から与えられる熱が一層高くなったからなのか。
『だからこそ、お前は私の元に逃げようとした。……いや、正確にはお前の言うバケモノから逃げたかったんだろう?』
喉が詰まる。実際に言葉を交わしていなくてよかったなんて思えない。容赦なく核心を突かれ、開いた口に行き交ったのは酸素か、諦めか。
なぜ、と。問うことさえも手放した。
『決意したのは、サリアナの刑が施行された頃か』
逸れる視線。交わらない榛色。だが、そこに宿る光と無言は、何よりも強い肯定になる。
半年前。サリアナの罪が明かされ、グラナートとの対話を強要されたあの日から、それはペルデの中にあった。
女王にも、イズタムにも、ミヒェルダにも。グラナートにも、エルドにも、ゼニスにも。
……そして、あのバケモノにも。
誰にも言わぬまま、ずっと秘め続けていた。
その選択の重さを理解しながらも求め……そして、その方法しか自分が救われないことを、確信している。
『あの伴侶が精霊界に行ったのを見届けた後に来るつもりだったのだろう?』
『……本当に、アンティルダの王というのは暇らしいな』
もはや、ここまで知られて何を警戒する。
最初から知られていたのだ。ペルデの企みも、恐怖も、なぜその地を求めるに至ったのかも、全て。
脱力した身体を包み込む熱から苛烈さが失せ、穏やかな温もりが染みこむ。漏れた笑いは吐息となり、瞬いた瞳の裏に映るのは当時の覚悟。
……全て、ジアードの言う通り。
半年前。雪で遊ぶディアンに告げた言葉は皮肉ではなく、ペルデの本心だった。
バケモノが正しくバケモノであったと認められ。然るべき場所に向かうと知り。それでも、ペルデは安心できなかった。
ペルデは既に思い知っていたのだ。彼がいなくなった喜びも、目の前から消えただけでは意味が無いと突きつけられた絶望も。何一つ変わらなかった現状も。
結果を見れば良くなったのだろう。ノースディアは滅んだが、教会の根本は揺らがず。フィリアの加護を得て民を惑わし続けたサリアナは裁かれた。
『精霊の花嫁』と謳われた少女の脅威は失せ、ディアンはあるべき場所に収まった。
グラナートは長年にわたる任務を終え、罪を清算し。これで、全てが丸く収まったのだ。
ペルデも例外ではない。これまでの行いは洗脳によるものだと認められ、グラナートとの誤解もとけた。これからは関係を修復できるのだと。そう望まれたことだってペルデは知っていた。
……そうとも、ペルデは知っている。自分が求めたものが、そこには無いことを。
誰にも理解されない。理解してもらおうとも思わない。
どれだけ心を砕こうとも、どれだけ信頼を寄せたとしても、ペルデは人であり、奴らは人ではない。
たとえこの身体が、どれだけその道から逸れることになろうとも。結果として、同じバケモノに堕ちてしまっても。この感情だけは、決して歪む事はない。
あのバケモノが消えたことをこの目で見なければ。ペルデは永遠にこの恐怖から解放されない。
あの精霊が今更ディアンを手放すなんて考えられない。間違いなく、ディアンは精霊界に迎えられ、正しくバケモノとなる。
頭では分かっている。もうあの男はこの世界には戻ってこない。戻ったとして、その時にはペルデはもうこの世にはいない。
それでも、確かめなければならなかった。あのバケモノが自分の前から消えた事実を、今度こそ、この目で現実にしたかったのだ。もう脅かされることはないのだと。
そうでなければ。
……そうでなければ、耐えられなかったから。
その未来があるからこそ、今、ペルデは耐えられている。
夢に見るほど苛む記憶からも、日々纏わり付く違和感にも、それに侵されていくことへの恐怖にも。
人の道から踏み外すなんて、最初から分かっていた。それでも、ディアンから離れることはできなかった。
見届けるためには留まらなければならなかった。それこそが、ペルデが犠牲にしてきた半生で得た唯一の権利。
教会の従事者も、ましてやグラナートだって関係ない。この半年間ずっと、ペルデはそれだけを願い続けてきた。
そうだと希望を抱かなければ狂っていた。違う、もう既に狂っている。
そうでなければ、教会の禁忌を知った今、命を狙われる覚悟でアンティルダに逃げようなんて、考えるはずがないのだから。
『その為だけに、人の道を踏み外すか』
噛み締めた唇は、熱によって弛緩する。添えられた指、僅かに込められた力。
顔は自然と上を向き、男の表情が嘲笑ではなく哀れみを持つと気付かされる。
『であれば確かに、お前はあのバケモノらとは違う。そして、その覚悟は到底奴らには理解されんだろう。……だが、アレはお前が思うよりも早く戻ってくるぞ』
突き刺さるのは、見透かされてもなお隠したかった予感。咄嗟の否定は形にならず、熱に溶けて消える。
叫べば衝動は満たされる。駄々を捏ねれば、真実になるかもしれない。
だが、それらに何の意味があるだろう。ペルデはもう知っている。知っているからこそ、言われたくなかったのに。
『何事もなかったように笑い、再会できた喜びに浮かれるまま。そうして、再びお前に絶望を突きつける。……お前が恐れたのは、それだな?』
『……そうだ』
吐ききった息の代わりに与えられるのは、苦味の強い香り。微かに鼻腔をくすぐる花の気配は、ペルデを慰めるよう。
ああ、目に浮かぶ。十年、二十年。あるいは、この生を手放す直前だろうか。
伴侶としてではなく、中立者として。今日と変わらぬ姿で、だけどそれ以上に恐ろしい光を纏って、バケモノは帰ってくるだろう。
いいや、きっと今より質が悪くなっているはずだ。
その時には人の皮を被るのだってうまくなって、それでも人ではない違和感だけは強く纏わせて。
ペルデは理解している。この恐怖を、この衝動を、あの瞬間に抱いた絶望を、誰にも理解されないことを。
サリアナに強制され、聖国に連れて行かれたあの日。望まずして再会したあの瞬間。
子を抱き、微笑み、祝福を与えるディアンの……あの、形容しがたい恐怖を。
正しく、バケモノはバケモノであったと確信した、あの衝動を。
あの時も、今も。これから先だって、永遠に。
ならば、いつかその日が来たときに。ペルデがどれだけ絶望するかだって、誰にも分かるはずがないのだ。
精霊に関わっている限り、逃れることはできない。全ての国が加護の元にある限り、いつか、その事実はペルデの元にまで届く。
だからこそ、ペルデはアンティルダを欲した。加護のない国を。精霊に脅かされない、自分が救われるための場所を。
『アンティルダは、聖国の干渉を受けない唯一の地だ。入国さえできれば、少なくともあいつの情報は入らないと思った』
ひっそりと、人里離れた場所に閉じこもることも考えた。誰からの干渉も受けず、たった一人で。
だが、生きていく限り少なからず誰かと接触するだろう。そもそも、ここまで関与したペルデを、聖国が許容するとは考えられなかった。
ならば、最初からディアンから離れればよかったのか? ……それができたのなら、ここまで苦しむことだってなかった。
ペルデはただ解放されたかった。あのバケモノの存在からも、わかり合えると強要される現状からも。ただ、全てを忘れたかっただけだ。
いつか戻ってくるとわかっていても、それを知らぬまま終わりたかった。
これから先、ずっとその恐怖に脅かされるとしても、知る方法さえなければいつかは報われると信じている。その希望に縋り付いている。
たとえ、一生忘れられなかったとしても。最後にはやはり、その絶望を突きつけられるとしても。
この恐怖も、希望も、胸に抱く願いだって。人ではない彼らに理解できるはずがないのだから。
重罪と理解している。最悪、死ぬまで幽閉される可能性だって。ペルデは被害者ではあるが、全てが許容されるわけではない。
……それでも、ペルデに残された希望は、もうそれだけしかなかったのだ。
『あんたが俺を傍に置きたがった時は、チャンスだと思った。禁書だけの情報で乗り込むほどバカじゃない。あと半年の間に、少しでも情報を集めて向かうつもりだった』
『教会の関係者だと判断され、拒否されるとは?』
『認定を受ける前なら、まだ可能性があると考えた。……実際、ディアンが迎えられた日には動くつもりだったし』
入国を拒否されたときのことは考えなかった。必要なのは、少しでも可能性を高くする方法。
ディアンが精霊界に行き、全員の気が緩んだ当日。この地を去る算段はついていた。
帰国する観衆の中、人混みに紛れ。海を渡る手段だって。
あとは、ペルデの覚悟だけだった。あと半年。ディアンがこの地を去るまでに、どれだけ準備が進められるか。加護のない地でペルデがどうやって生きていくのか。そもそも、無事に入国できるのか。
全てを天秤にかけても釣り合わないリスク。それでも、行動しない選択なんて、それこそなかった。
解放されるために。本当の自由を得るために。
『仮に入国できたとして、最悪は死に至ったとしても?』
『……これから先、この地で暮らすことに比べれば、ずっとマシだ』
死にたいはずがない。自ら命を落とせるほど、愚かでもない。
ただペルデは逃げたいだけだ。あのバケモノから。あのバケモノが自分の前に戻ってくる未来から。
だからこそ、ペルデは今日まで耐えたのに。耐えられるはずだったのに。
見上げる深緋は変わらない。細められたまま呆れることもなく、嗤うこともなく。されど同情も慈しみもない。
『それで? 俺の秘密を握っていると明かして、女王陛下に黙秘する代わりに協力しろと?』
『協力? お前のような子どもに、何を頼むという』
肩をすくめ、唇から熱が離れる。抱え直された身体は、自覚しないうちに力が抜けて、支えらなければ座ることもできない。
末端から滲むのは、あらがいがたい眠気。
内側から燻られ続け、熱で意識を手放す錯覚を抱く。もう、目を開いているのだって、難しい。
『言っただろう。私はお前を拒まない。むしろ、優秀な子どもが私の元に来るのは喜ばしいことだ。それも、精霊から逃げたいというのならな』
『どうしてこの話を、俺に』
『もうあまり時間がないからな』
子どもではないと、どういう意味だと。言い張る気力は気怠さに呑まれ、問いかけすらも微睡んでいく。
沈み、浮かび。制御できない意識が、より深い場所に落とされる合間。見下ろす深緋だけが、こびり付いて剥がれず。
「……子どもは寝る時間だ」
ひどく、優しい響きが鼓膜を打った。





