31.見知らぬ男
やっと攻めが出てきました……長かった……。
出てきたのは一人の男だった。
いや、男だと分かったのはその声が低かったからであって、外見だけで判断すれば少々遅れただろう。
背中まである長い髪は女のように思えたが、肩幅も首の太さも女性とは似ても似つかない。
身長も高く、体格はあまりに良く……なにより、その顔に生えた無精髭を視認できれば、もう見間違えることはできなかった。
月明かりがなければ黒に見えたそれも、照らされた今は暗めの茶色だと理解できる。そして、前髪の分け目から見える瞳が……とても珍しい色彩であることも。
ディアンの父や、司祭。メリアのように、精霊から特に強く加護を授かったものは、身体の一部に特徴が現れる。
それは髪だったり、痣だったり。よくあるのは瞳の色が変わることだ。
ディアンの黒だって滅多にないが、先祖返りで変わった色を受け継ぐことは珍しくはない。
だが、目の前にあるその色は……その紫は、どう考えても加護を授かった者の証だった。
一日の始まり。太陽が覗くその間際。夜と朝が混ざり合う境界を切り出したような、薄く柔らかな紫。
縁取る目蓋が瞬きをしなければ模造品と疑うほどに。実在することすら信じられないほどに……それは、この世のものとは思えなかった。
呆然と見上げるディアンを、目尻の下がった目蓋が見つめる。
グラナート司祭と同じ垂れ目だが、彼のような柔らかさを感じないのは、相手への警戒心故か。
返事もできず、身動きの取れない中。先に動いたのは男ではなく、傍らにいた白い獣。
軽快な足取りで戻ったのは男の足元だ。……つまり、彼の飼い主は彼で間違いないらしい。
「急に走り出すからなにかと思えば、こんなところでガキがなにやってんだ」
盛大な溜め息が一つ。呆れを隠さぬ口調にますます柔らかさが消えていく。腰に手を当て、惨状を見つめる表情は険しい。
雰囲気が似ていると思ったのは、目元だけで抱いた印象だったようだ。
返事はできず、見上げたまま。素直に答えることも、偽ることもなく。突然現れた男への警戒心がどうしても薄れない。
いつまでも答えようとしないディアンに、再び吐かれた息は重く。頭を掻く仕草に混ざるのは苛立ちか、それ以上の呆れか。
「まぁいい。……で、怪我はないな」
「……は、い。ありがとう、ございました」
二度目の問いに、返せたのはそれだけ。答えながら確かめた全身に、違和感はますます強まっていく。
旅人、にしては荷物が少なすぎる。野宿地から離れた可能性は低い。もうあと少し歩けば王都はもうすぐだ、こんな場所で夜を越える必要などどこにもない。
服も靴も相応に汚れているが、その腰に剣もなければ魔術師が好んで使う杖だって見当たらない。
そしてなにより……都合が、良すぎる。
襲われたのは仕方ないとしても、あんなタイミングで助けにこれるはずがない。
王都への道から外れ、踏み入ることがほとんどない森の中。誰もが寝静まった、こんな夜中に。たった、一人で。
昼間なら見回り途中と言われても信じたかもしれない。迷い込む人間は一定数いるし、ギルドの依頼でも定期的に上げられるものだ。
だが、日付も超え、明かりも持たず、武器さえもない。
共にしている獣が強いのは先ほども見たとおり。だからといって、あんな姿でこの付近を歩いているなんて、普通の人間なら考えられないことだ。
冒険者に似た格好だが、魔術師にも見えない。よほど腕に自信があったとしても、体術だけでは敵わない相手はいくらでもいる。
……だが、無計画に飛び出し、無様に道に迷った男を押さえ込むぐらいなら、できるだろう。
革袋を握り締めようとして、力を抜く。足を捻ってしまった今、不意を突いたところで返り討ちにあうだけだ。
そもそも勝てるとは思わない。相手は一人と一匹、こちらは一人。あちらの獲物は分からず、こちらの切り札は革袋に詰めた石のみ。勝ち目なんてない。
「立てるか?」
差しだされた手を見つめ、小さく息を吐く。
少しでも意識すれば気付かれてしまう。一か八か。かけるのは僅かな可能性。
……それでも、ディアンが逃げるには。成し遂げるためには、やるしかない。
「……ありがとうございます」
ゆっくりと伸ばした手。そしてしっかりと――手首を、掴んだ。
勢い良く引き寄せ、かき集めた土を投げつける。小さな呻き声は目に入った異物にか、肩を押された衝撃か。
ろくに反応も見ないまま反転し、足を貫く痛みに膝が曲がる。
捻っていたのを忘れていたわけではない。分かっていても、そうしなければならなかったからだ。
荷物の元まで向かうのは不可能と判断し、横の茂みへ飛び込むはずだった足が白に遮られて立ち止まる。
行く手を阻む獣に後退りするだけで、ジクジクと痛む足がこんなにも苛立たしい。
「っ、くそ……!」
吐き捨て、違う場所へ身体を向けても、その瞬間には白が割り込んでいる。行動を読まれているのではなく、それほどディアンの動きが遅いのだ。
飛びかかってくる気配はないが、無理に通ろうとすれば途端に餌食になってしまう。
視界を奪うしか方法はない。だが、もう魔力は。
葛藤は一瞬。だが、隙を与えるのには十分すぎる時間。
背後の気配に気付き、振り回した袋が男の鼻先を掠めても、それだけ。
「っ、と……おいおい、ずいぶんな挨拶だな」
確かに目元を狙ったはずなのに、痛がる様子もなければ焦っている様子もない。右腕から落ちる土塊。あの一瞬で庇ったのだと理解できて、それがなにになるというのか。
後ろは獣、前は男。足は負傷し、武器なんてないようなもの。
息が震え、血の気が引いていく。込み上げるのは焦りなのか、諦めなのか。そのどちらでもない、なにかだったのか。
逃げられない。でも、逃げなければならない。捕まれば終わりだ。家に戻されたら、もう二度とこのチャンスはやってこない。
終わってしまう。なにも始まっていないのに、まだなにもできていないのに!
「落ち着けよ、なにもしない」
それを信じるのは相当の馬鹿だ。距離は近い。少しでも踏み出せば、すぐに捕まってしまう。
構える腕が、逃げ場を探す足が、突破口を見つけようとする頭が、重い。重くて、鈍くて、苦しい。
どうして。なにも妨害されていないのに、されていないはずなのに!
やはり自分は臆病者なのか。対峙するだけで身体が竦み、動けなくなるような弱者だったのか。
それでも立ち向かわなければならない。
違う、離れなければ。離れて、逃げて。でも、の足では逃げられない。
でも逃げないと、逃げなければ全部、終わって――
「っ、あ!」
風が通り抜ける。切り裂かれた痛みは指先から。庇った先に握り締めていた袋はなく、視界に再び白が割り込む。
武器を奪われたと、そう判断するための代償は意識を獣に移したこと。ほんの一瞬。それでも、十分すぎる隙だったと。
知っていたはずなのに動けなかったのは、紫が間近に迫った、からで、
トン、と。押された腹部から広がる衝撃に崩れ落ちる。
殴られたのでも、叩かれたのでもない。ただ触れられただけ。そうだとわかっているのに力が抜ける。そうだと理解しているのに、息が、できない。
ちがう、できている。でも苦しい。力が入らない。逃げないと、にげなくちゃいけないのに、はやく、
「悪いが動きを止めさせ……おい、どうした」
男がなにか話している。聞こえている。だけどきこえない。わからない。苦しい。動かない。息を、息をしているのに、しているはずなのに。
「大丈夫か、しっかり――!」
首元を緩めたいのに指先さえも動かず、藻掻きたい四肢は這いつくばったまま。白く、黒く、点滅する視界が滲んで溶けていく。
苦しさと、悔しさと、恐怖。そのどれもが混ざり合い、ぐちゃぐちゃに溶けて、流れ落ちるのを止められない。
頭の中が痺れていく。ろくに回らぬ頭で最後になにを考えたのかもわからないまま。
……なにも掴めない指から滑り落ちていく意識は、呆気なくディアンの元から離れてしまった。
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