320.儀式 三日目
「知っていた」
響いたのは、間違いなく自分の声だった。それまで自分が何をしていたのか、なぜここに座っているのか。そんなのは、些細なこと。
白く統一された部屋。冷め切った紅茶。手を付けられない茶菓子。俯いていた顔が勢いよく上がり、見開かれる赤に映る自分の顔。
いるはずのない相手。交わすはずのない言葉。だから、これは今ではなく、かつてあった出来事。
そう、ペルデは理解している。……これは夢なのだと。
「いつ、から」
動揺しすぎて詰まる問いかけ。強張る目蓋、揺れる赤。ペルデに晒す反応が、想定外だと伝えている。
なんて分かりやすいのだろう。彼の考えが理解できないと苦悩していた日々が嘘のよう。
ああ、これは義理の子と打ち明けられる前に口を挟んだ時の記憶だったか。
本当に気付いていないと思っていたのか。少し耳を澄ませれば、ペルデの噂も入ってきただろうに。
結婚していないのに突然現れた息子。姉がいたという話。亡くなった噂。単純な足し算だ。
聞こえていてなお、騙し通せると思っていたのだろうか。そもそも騙す必要もないと思っていたのか。
あのバケモノの近況ばかりに夢中で、頭の中から抜けていたのだろうか。任務の為だと聞かぬ振りをしたのだろうか。
いいや、本当に聞こえていなかったのだろう。だって、かつて父と呼んだ男は、あんなにも驚いた顔をしていたのだから。
「いつだったか。昔すぎて覚えていません」
皮肉ではなく、事実を述べただけ。それこそ、いつ物心がついたかと同じことだ。
まだ最近であれば救いもあったのか。再び項垂れる顔は打ちひしがれて、幼い頃に見た姿と重なることはない。
方や目を逸らし、方や見つめ続けたまま。これではいつもと逆だなんて、笑う気力さえもわかなかった。
違うのは、この一連が叱咤でも躾でもないこと。
沈黙だけがいつもと同じで、何も終わらせることができないのも、また同じく。
そして、最初に口を開くのが彼であることも変わらない。そう、結局は何一つとして変わりはしないのだ。
「……ペルデ」
ペルデの本当の両親、彼の姉について語るはずだった口が、ペルデの名を呼ぶ。話が飛んだのではない。記憶が繋ぎ合わされているだけだ。
そうして、見慣れた展開はそこに。この半年、ペルデを苛み続ける悪夢は、目の前に。
「私は、それでもお前を、」
遠ざかる声。目覚めの兆しに、息を吸う。
いつも通りの終わり。いつも通りの、天井。だが、榛色に映ったのは白でも赤でもない。
浅黒い肌。骨の浮いた皮膚。落ちくぼんだ眼窩と虚ろな瞳。
記憶にないその姿は、生きているとは思えぬ程にやつれ、衰え。それでも、まだ生きていると、なぜか、ペルデは知っている。
「約束を――」
引き抜かれていく刃の音。囁く誰かの声。振り上げる剣。
そうして――ひた、と目蓋に与えられた感触に、視界は白から黒に反転する。
冷ややかなそれは、錯覚と思えるほど些細なもの。されど、二度三度と繰り返せば、無視できない違和感となる。
重い目蓋をこじ開けて、見上げた天井。昨日と変わらない景色の中、入り込むのは茶色と緑の二色。
覗き込む瞳と目が合えば、触れていた手が頬へ滑り落ちる。
小さな指先から与えられる温度は冷たくとも、ペルデの眠気を覚ますには至らない。
それでも懸命に頬を叩くのは、起こそうと躍起になっているのだろう。その努力の甲斐あって、ペルデも現実を認識していく。
……夢だ。いつもと同じ。だけど、違う夢。
グラナートとの会話を思い出すのは今に始まったことではない。だが、最後のはいったい、なんだ?
思い返した姿は、どう考えても死体だ。生きているはずがない。
だが、ペルデはそれを知っていた。行きながらにして死んでいることを、理解していた。
夢だと言われればそれまでだ。だが……あの声に聞き覚えがあるのは、本当に気のせいだったのか。
考えたくとも叩く手が邪魔でそうはいかず、渋々起き上がって見下ろした少女の背に、やはりあるべき羽はない。
話の途中で有耶無耶になってしまったが……やはり、この妖精はアンティルダから連れてきたと考えるべきだろう。
普段無視しているとはいえ、この異様な姿を女王らが見落とすとは思えないし、聖国にいる妖精がこんな短期間にこの男に懐くとも思えない。それも、羽をもいだ相手となれば余計に。
だが、アンティルダは加護のない国。魔力がなければ、妖精も存在できないはずだ。他国から捕らえたとしても、この状態で長く生きられるはずがない。
存在自体が矛盾している。いったい、この妖精は……?
「随分といい寝床になったようだ」
ベッドのすぐ傍。想定よりも近くにいたジアードに驚き、跳ねた肩を誤魔化すことはできない。
浮かべた笑みは、寝起きのペルデか。無邪気に手を伸ばす妖精に対してか。
どうであれ、彼の指はペルデではなく彼女に差し出され、彼女も躊躇いなくその手に移動する。
一連の間、見つめる深緋は柔らかく。そうして、ペルデに向けられる頃にはその色も消える。
見上げた顔に眠気はなく、隈らしきものもない。昨日の言葉は嘘ではなく、真実だったのだろう。
睡眠を求めない身体。そうであっても生きていける存在。煌めく光に軽い耳鳴りを覚えたのは、ほんの一瞬。
まるでペルデの感情を読み取ったように細められた目は、子どもを馬鹿にするかのように不躾で、どこか無邪気なもの。
「やはり添い寝が必要だったようだな」
「……俺が引き入れたわけじゃない」
「どうだか。随分と人ではないモノを惹きつけるようだ、眠りながら誘惑したとておかしくはない」
クツクツと漏れる音に耐えようとしても、僅かに寄せた眉を見逃してはくれない。
ペルデが関わりたいわけではなく、向こうから干渉してくるのだ。精霊も、それに準ずるものも、妖精も。人であるはずなのにバケモノじみた奴らだって。
寝ている間に潜り込まれたのに関しては、もはやペルデにどうしろというのか。
怒りを抱けば男を喜ばせると理解しても、抑えられない。
「さて、朝食は後だ。お前が着替え次第向かう」
その事実に対して連ねる感情も、男は分かっているのだろう。ひとしきり笑った後、投げ渡された服に今度は疑問から眉を寄せる。
「向かうって……」
「まさか、残り数日を大人しく過ごすとでも?」
この部屋から出る可能性は低いと考えていたが、目的を達成していないのなら外に出るのは必然。
そもそも、彼は監禁されているのではなく、自分の意思でこの部屋に留まっていただけだ。囚われているのは彼ではなく、ペルデ自身。態度が軟化しようと、人質は自分。
だが、出るにしても何を急いでいるのか。時間が迫るようなことはなかったはずだが……。
「言っておくが、王宮の外には……」
「そんな場所に用はない。今はな。それより、面白い催しがあるだろう?」
教会において、最も重要な宣誓式は既に終えた。
だが、五日間の内、民が選定者をより認知できるのは今日。そして、ペルデは傍にいずとも遠目に見守るはずだったもの。
……まさか。
「謁見式に参加するつもりか?」
「選定者様のお付きが忘れていなくてなにより。案ずるな、あの列に並ぶつもりはない。せいぜいお言葉を近くで聞かせていただくだけだ」
だけと言うが、それが問題であることを男も分かっているはずだ。理解してなお、ペルデを率いて向かうと言っているのだ。
より深く刻まれる皺、不躾な視線に対し、ジアードはより楽しそうに笑うのみ。
「正気か?」
「少なくとも俺自身は普通と思っているが……気が逸るあまり、お前を寝間着のまま引き摺り出すかもしれんな」
やると言ったなら、本当にそうするのだろう。この男なら全裸でも無理矢理連れ出すに違いない。
脅しに屈したくはないが、拒んだところで辿る運命は一緒。ならば、まだマシな選択をするべきだ。
元よりペルデに拒否権はなく、止めるよう説得することもできず。
強張る指で脱ぎ捨てた服の中、残っていた体温はペルデの未練ごと冷めていった。





