317.対話
声は響く。静かに、されどしっかりと。聞き逃すことのないように。
回答を待つ時間は永遠に思えて、されど一瞬のこと。
「我がアンティルダの民は、熱には強いが寒さには無縁でな。極寒に慣れぬ実の弟と忠実な部下が凍え死ぬことを望んでいると?」
「結果はともかく、あなたは一人になる必要があった。あなたの目的を果たすために」
「俺の目的?」
鼻で笑う音に鼓動が跳ね、机の下で握った手に力がこもる。
「言い切るぐらいだ、確証があるのだろう? それで、儀式以外に俺はここに何をしに来たと?」
「……分かりません」
「なら、それはただの言いがかりでしかないな」
「ですが、あなたの弟が邪魔さえしなければ、すでに終わっていたはずだった」
予測もできない狙いなど、適当に言ったところで当たるわけもない。そもそも、明確にする必要はないのだ。
この男には目的があり、妨害されたことは事実。その一連は他でもないペルデが見ていた。
そう、唯一ペルデだけが、ハッキリと。
「あなたがなぜ、危険を冒してまで前日に乗り込んだのか。あなたの弟がこの地へ来たか。どちらも、私のような一般人には計り知れないこと。ですが、弟君の起こした失態のせいで、あなたが狙いを果たせなかったことは事実」
ディアンへの危害でないことは、かの精霊の態度からも明白。聖国と因縁のあるアンティルダならば、いくらでも候補はあがるだろう。
弟と目の前にいる男の狙いが同じか、あるいはそれぞれの思惑で動いているかの確信だってない。
揺るぎないのは、愚弟と呼ぶあの男がペルデに見つかったことで、彼の計画も狂ったということだけ。
あの男が逃げなければ、彼も姿を晒すことはなかったのだから。
「儀式の間、隙を見て目的を果たそうにも、弟の存在が邪魔だった。門については想定外だとしても、あなたはこの騒動を利用し、彼らを引き剥がすことに成功した。あとは私の口さえ封じれば、あなたの狙いは達成できる」
「聖国の手違いは俺の勝手な行動で、潜り込んだという鼠も俺の弟だった、と考えているわけか。想像力豊かで何より。聖国の連中になら受けるだろう」
手すりに肘をつけ、頬杖を突き、机の下で足が組まれた気配を感じる。瞳に動揺はない。されど、不快さもない。そして言葉に肯定はなく、否定もない。
「目障りではあったが、離れる為に利用したのはお前の方だろう?」
論点をずらされる予感をしても、その話題まで見極めることはできなかった。
僅かに跳ねる心臓は心当たりがあるからこそ。動揺は目に現れ、僅かに深緋が歪む。
「何のことでしょう。いま言ったのは所詮凡人の考えで――」
「お前は父親と離れたかった」
心臓の鼓動は、踏み込まれた一歩の力強さと共鳴し、強く胸を打つ。
現実の身体は動いていない。それでも、後退る己の姿が脳裏に浮かぶのは、引き際を見誤ったせいだ。
「あれだけ嫌悪を露わにしておきながら、気付かれないとでも?」
「……そう見えましたか?」
あくまでも、冷静に。それこそ、この男が見ていたことは知っている。
儀式の最中やペルデが倒れた後の、隠しきれない態度から読み取ったに違いない。
表面上は、関係の再構築中。わだかまりがとけると信じているのはペルデ以外。
ノースディアの一件を調べたなら、ペルデとグラナートの確執も自ずと知ること。何も動じる要素はない。これはまだ、調べれば簡単にたどり着ける範囲なのだから。
「年頃と言うにはやや大きくとも、親子の間の確執など珍しいことではない。ましてや、それが義理の父であればな」
机が揺れる。中途半端に立った足が引っ掛かり、見上げる深緋に映り込むのはこれ以上ない喜びの色。
掴まれる幻覚に引き摺られ、左腕が熱を持つ。距離は取れず、追い詰められた感覚だって間違いではない。
今、ペルデの示す反応全てが、事実であると証明しているのだ。
「知っているのは教会の関係者だけとでも? 聖国に来るなら、この程度調べて当然だと思うが」
開き、閉じて。口から音は出ず、中途半端な姿勢は、再び腰を落とすことで元に戻る。
テーブルの上、握り締めた手から力を抜いて、鼻から吐いた息は動揺を隠せず。
「……一つ、訂正するなら。関係者の中でも一部の者だけです」
「ああ、義父を独占していた当の『花嫁』殿は存じ上げなかったとか」
じりじりと、炎に撫でられていく。焦げ付いた表面の痛みに、今更喘ぐことはない。
これだって調べれば分かることだ。実際にペルデが一人で真実に辿り着いたように、どれだけ隠そうとも隠しきれぬほどに。
「自分のような些細な存在の身の上など、選定者様が知る必要はありませんから」
「知られたくなかったの間違いだろう?」
「……私の情報まで集めるとは、さすが不毛の地。時間だけは有り余っているようですね」
「俺が知っているのは、お前が引き取られた経緯と今日に至るあらまし程度だ。到底褒められる程ではない」
ほぼ全てではないかと、言い返せるだけの余裕はない。
答える必要はない。分かっているのに止まらない。止めたくても会話が続く限り、この話から逃げることはできない。
抑えつけようとすればするほどに引き摺り出されていく。見えぬ壁に阻まれ、下がることはできず。男に遮られる幻覚から解放されない。
とうに胸の痛みは薄れ、思い出すこともない。殴りつけられたような衝撃だって過去のものだ。
どうしようもない喪失感の後、ペルデが得たのは理解だけ。それは今に至るまで続いている認識。
今更掘り返されたところで、何も揺らぐことはない。
「私が義理の子であったことと、今回のことに関係はないでしょう。それとも、私を選んだ理由が互いの利益が一致するからとでも仰りたいのですか?」
「理由が欲しいなら、元婚約者に実質的な死を与えた男に対する復讐……とでも言えば納得するか?」
「罰に対する裁きは精霊の手によって下されたもの。私にその権限はありません」
「あの女が命より欲したモノを知らぬと言い張るつもりか? そのせいで苦しめられてきたお前が? あの女が耐えると知って、その記憶を奪うよう進言したのは、誰だ?」
赤が光る。まるで剥き出しになった牙のように鋭く、今にも喉を噛み切らんほどに強く。
サリアナの末路について、伝えられているのは精霊によって裁きを受けた旨のみ。その詳細は、限られた者しか知らないはずだ。
内通者、裏切り、盗聴。あらゆる可能性が頭をよぎり、どこまで筒抜けなのか憶測もできない。
そう、ペルデは知っていた。あの悪魔が、それこそ己の命より欲したものが何か。
その為に何を犠牲にし、傷付け、滅茶苦茶にしてきたか。
笑う声が木霊する。ペルデと、名前を呼ぶ声が聞こえる。
『お願い』と囁くあの忌々しい響きが、耳の奥にこびり付いて剥がれない。
「……元ノースディア王女を、あなたは愛していたのですか?」
鼻で笑う気配がなかったのは、吐き気のせいで見落としたか、あるいは名前さえも言いたくないと遠回しに告げたペルデの足掻きを哀れんだか。
表情は変わらず笑みを浮かべ、瞳に宿る感情は、細まる目蓋のせいで見えず。
「短い期間とはいえ、一生を共にすると誓った相手だ。唯一、欲しいと望んでいたモノを与えてやろうと思う程度には情もあった」
足が組み直され、頭が元の位置に戻る。シャラリと聞こえる音は妖精の羽音ではなく、黒髪に編まれた飾りが擦れた音。
「権力も金銭も欲さず、物欲すらもない。それでいて多才であり、魔術に至っては天才とまで称された。そんな子どもが、たった一人の男を与えてやるだけで思いのままになるなど、まるで夢のような話じゃないか」
本当に、聞いただけなら正気を疑っただろう。
精霊から特別な加護を授かり、その力を惜しむことなく発揮する存在が。下手をすれば世界を統べるだけの脅威を秘めた存在が、それだけで思い通りになる。
そうだと知っていたなら、アンティルダでなくとも欲しただろう。そうしてこぞって、あのバケモノを与えようと躍起になったに違いない。
だって、あの女にとって、ディアンさえいればどこに嫁ごうとも関係なかった。
ただ、手に入れたディアンが精霊に奪われないようにするために、アンティルダが最も都合がよかっただけ。
「実際は?」
「単に興味が湧いただけだ。これから長い時間を共にするなら、面白い相手の方がいいに決まっている。お前についてもそうだ、ペルデ」
「であれば、残念でしたね。確かに平凡な人生とは言い難いですが、私はただの人間です。貴方様の好奇心を満たせるほどの存在ではありません」
「……ただの人間、か」
わざとらしさもなければ、怒りを煽るのでもない。自然と吐かれた息に、男の語尾が溶けていく。
より細まる瞳の真意を覗く間もなく、差し出された手はペルデを促すもの。
「さて、話に夢中になるのもいいが……そろそろ食事も取るべきでは?」
会話の終わりを示され、浮かんだのは解放された安堵と僅かな悔しさ。だが、これ以上続けていたところで、求めた情報は手に入らなかっただろう。
安心したことを悟られないよう、手はテーブルの上に。そこで、食事ができなかったそもそもの原因を思い出し、茶色い影を探したのは無意識から。
深皿の縁、乗り上げる姿。バランスを崩したと認識した時には既に手が出ていた。
あわや落ちそうになった少女を助けた代償は、スープ塗れになった袖。白い生地が色濃くなる様を、助けたペルデも助けられた妖精自身も見ることはない。
不思議そうに見上げる緑の瞳は、自分が危なかったか理解していないのだろう。その姿は、本当に小さな子どものようにあどけなく、危うい。
スープが熱くなくてよかったと安心したのは僅かな間だけ。
「――やはり、見えているな?」





