315.成立
「――この子は関係ない!」
その叫びが聞こえるまで、それが聞き間違いであると疑いもしていなかった。
怒りを露わにし、睨み付ける瞳は、同じ色でも異なる赤。
片や見開き、片や笑い。どこまでも想定内だと唇は歪む。
だが、ジアードが見ているのはその背後。同じく見開き、動揺するペルデのみ。
「黙りなさい、グラナート」
「女王陛下!」
「聞こえなかったか」
二度目の制止に沈黙すれば、改めて向き直る女王の感情は読めない。
淡々と響く声。その胸中に何が渦巻いているのか、ペルデに悟ることはできず。
……だが、この議論の結末は、もう分かりきったこと。
「されど、彼に関与がないのは事実。他の者であれば応じよう」
「どうやら女王陛下は発端すら忘れてしまったらしい。あの時、明確に狙われたのは私とそこの子どもだけ。真に精霊に問題があるとなれば、同室で纏まっていた方が警備もしやすいだろう? ……実際、あれに対応できたのは私と、そこにいる貴殿の部下のみ」
顎で示されるのは、ペルデを守り続けているミヒェルダだ。
思い出せない記憶。思い出してはいけない何か。それでも呼び起こされるのは、自分の名を呼び、突き飛ばされた彼女の姿。
黒いナニかに包まれたところで、せり上がってきた胃液にたまらず身体を折り曲げる。
喉を焼く酸味を押し込み、頭の中で膨張する痛みに歯を食いしばって。それでも、話を聞き漏らしてなるものかと、必死に食らいつく。
「無能で数を固めたところで意味はないが、無駄に割く必要もなかろう。なにも害を加えるつもりはない。我々が襲われた原因を判明し、帰国できるまで傍に置かせるだけのこと。我々に抱かせた疑念を払い、血の繋がった姉妹を解放したいというのなら、話し相手を寄越すぐらい容易いことだろう?」
天秤にかけるまでもない。精霊の血が流れた部下数名と、たかが人間の子が一人。数としても、価値としても、ペルデが犠牲になるのが最善だ。
目的など、それこそ二の次。狙いなど分かる必要はない。
ただ、この男がペルデを求めている、それだけは揺るぎないのだから。
「そこの子どもが私の相手を務めるのなら、使者に対し手荒な真似はしないと約束しよう」
「それをどう伝えると?」
「不毛の地であろうと、方法はいくらでもある。納得できるまでこれを貸してもかまわん」
掲げた光の中。彼女たちの姿はすでになく、残るのは数名の男たちだけ。
門が使えない以上、ジアードの手にあるものが唯一、アンティルダの動向を見張れる道具。それが虚像であっても……真実である可能性にかけるしかない。
「ああ、それと……私以外の者は愚弟を含み、貴殿らの好きにするといい」
「なっ……!?」
誰よりも強い反応を示したのは、他でもない差し出された当人だ。連れた部下も含め、全員が動揺を隠せず、己の主人を凝視する。
それはペルデを含む味方も同じ。疑いを示しながら自ら一人になるなど、それこそ何を考えているのか。
「地下に監禁するなり、野ざらしにするなり。なんなら、疑念を持った時点で処刑してもかまわん」
「ふっ……ふ、ふざけるなっ!」
響く甲高い音は、腰に携えた剣が引き抜かれたからだ。トゥメラ隊も柄に手をかけ、されど抜かないのは、剣先が己の兄を示していたから。
震え、定まらず、素人目でも酷い構えに続き、他の部下たちも構える。
「そんなことっ、俺は納得しないぞ!」
「お前が俺の忠告を聞かなかったように、俺もお前の意見など聞かん。それとも、王として命じられたいか?」
「黙れっ! 誰も貴様が王など認めていないっ!」
息は荒く、目は血走る。己の生死がかかっている状況では無理もない反応。口走った言葉に抱いた疑念は、鼻で笑う音で掻き消される。
「認めようが認めまいが、お前にこの座は務まるまい」
「黙れ黙れ黙れ! お前が――へぐぅっ!」
姿が消えたと思った瞬間には、声は呻きに変わっていた。
剣は、弛緩した手から地面へと落ちる。腹部に抉り込んだ拳が抜ければ、嘔吐きながら崩れ落ちる身体を誰も支えることはない。
見下ろした深緋から温度が消えるのは一瞬。己の部下を見渡し、顔に浮かぶのは挑発的な笑み。
「次は誰だ?」
誰も問いに答えない。揺れる瞳が合わせることもない。勢い良く抜かれたはずの剣は次々に地面に落ち、やがて誰もが項垂れる。
複雑な事情があるようだが、今はそれを追求する段階ではない。選択を迫られているのは、それこそペルデたちなのだ。
「この通り、我が部下も覚悟の上だ。命を絶ったとて咎は求めん。なんなら貴国のしきたりに乗っ取り、誓約を交わしたってかまわない。とはいえ、私に誓う精霊などいないが」
女王は答えない。まだ葛藤しているのだ。
目の前で映し出されている光景が事実か。この男の狙いが何か。憶測がつくまでは答えは出せないと。
「これ以上何を迷う事がある? これ以上、我々になにを譲歩しろと?」
条件だけを見れば、彼に利点はない。わざわざ有利な状況を手放してまで、ペルデをそばに置く理由など理解できない。
されど、天秤はすでに傾いている。聖国ではなく、ペルデ自身の天秤は、その名が呼ばれた時点で既に定まっていた。
目的などどうでもいい。これは、自分にとってのチャンスだと。
「わかりました」
だからこそ、声を張る。断られる前にその手で機会を掴むために。
振り向き、隠れていた姿が再び映る。見開き咎める赤ではなく、自分を見て細まる深緋を見据え、逸らす事なく。
「ペルデっ! 何を言っているんだ!」
「問題ありません。……本当に、彼女たちを解放するのであれば」
会話は成り立たず、止めようとする声は届かない。静寂は僅か。唇は上がり、細めた瞳は手元の光へ戻る。
「……聞こえていたな? 大切な客人だ、丁重に扱うように」
『ジアード王の仰せのままに』
映っていた男の姿が光と共に消え、石は女王へ差し出される。
「使い方の説明は?」
「不要。あの罪人が使える魔術であれば、憶測はつく」
「部屋の外に監視を置くのは構わんが、室内までは必要なかろう。門さえなければアレは出ないのだから」
「…………よかろう」
石は受け取られ、取引は成った。
ジアードの足がペルデに向けられるのを咎める者はいない。されど、遮る者は一人。
「っ、女王陛下!」
「グラナート様」
たまらず叫んだ男の名を呼べば、揺れる赤と視線が絡む。
焦りと不安に満ちた光に笑いそうになって、どう対処するのが一番的確か思い出す。
そう、感情ではない。これは任務であり、命令であると自覚させること。
「これが最善であることは、あなたも理解しているはずです」
「お前はっ……!」
身内ではなく、部下として。従事者の一人として発言したのに、振り払えないのか。
これまで散々、それを強いてきたはずなのにと、笑いそうになる感情の奥で揺らぐものに、わざわざ名を付けるまでもなく。
「どうやら、この中で最も利口なのはそこの子どもだけのようだな」
「人質が欲しいのなら私でいいだろう! この子である必要はないっ!」
「素手で魔物を殺せる英雄と二人きりなど、考えただけで恐ろしい。前線から退こうとも、一瞬で私の首をへし折ることも造作なかろう?」
自分よりも弱い存在だからこそ意味があるのだと、細められる光が強まる。強い加護を賜った者の証。脳裏に焼き付く炎。込み上げる吐き気は不快ではなく、伝わる魔力によってもたらされたもの。
脳裏によぎる薄紫が答えを示す。もはや疑いようもない。
その光は、ペルデが最も忌み嫌うものと、同じ、
「それとも、お前は命令も聞けぬ駄犬か?」
「っ……!」
骨と皮膚の軋む音。グラナートから滲む魔力が肌を掠める温度は高く、その感情に呼応するように、男が踏み出す。
ミヒェルダの視線を感じたのは一瞬。覆っていた障壁が消えれば、互いを遮るものは今度こそなくなった。
息を整える余裕もなく、ベッドから立ち上がった身体は二歩も歩かぬうちに崩れ落ちる。地面に倒れなかったのは、男に支えられたからだ。
服ごと焼けると思うほどに熱い手。触れていないはずの左腕の痛みに息を止めたのは、呻く声を聞かせたくなかったから。
少しでも弱った姿を晒したくないと睨みつけたはずの顔は、寄せられた眉からして歪な表情になっていたのだろう。
だが、凝視する光の奥。向けられるのは興味だけではなく。それが何か理解するだけの猶予は与えられず。
「眠れ」
目に手をあてがわれ、体温の高さに熱さを覚えたのは、意識が微睡むまでの僅かな一瞬。
「……悪いようにはしない」
目蓋は落ち、光は消え、何も映らない暗がりの中。囁く声に、どんな色が乗せられていたのか知ることはなく。
甘い香りに誘われるまま、ペルデの思考は閉ざされた。





