309.儀式初日
どれだけ不安が募ろうと、太陽が昇れば朝であり、残酷にも時間は迫る。
この日を待ち望んだ献身な信徒は王宮の門前に集まり、数百なんて単位では数えきれない民衆がその時を待っているだろう。
老若男女、真に精霊を敬う者も、ただの野次馬も隔たりなく。普通なら、大切な選定者を曝け出すには相応しくない状況だ。
だが、それを含めての儀式であり、どれだけ呆れようと準備は粛々と進む。そう、これも全て想定内のこと。
だからこそ、聖国は……否、あの精霊は万全の体制を整えたのだ。
何もかもが異例である儀式を、ディアンにとって何事もなく終えるために。
そして、かの愛し子もそうだと疑っていないことは、その表情を見れば明らかなこと。
強張る顔は緊張であり、恐怖ではない。
異例となる四度目の洗礼。成人を迎えてから受けるはずのないもの。本来であれば、幼い頃に受けていたはずの祝福。
間違えてもその紫を直視しないよう、進んでいく準備をただ見守り続ける。
光を帯びて輝く白地。躍るのはかの存在を思わせる薄紫と、光を思わせる金の刺繍。
ローブに似せた婚姻の衣装の中、教会の象徴たる蒼が含まれないのは、精霊の伴侶には不要な色だからだ。
胸元に光る橙色の首飾りに目を細める間も、制御具が取り付けられていく。
服の上、手と足の先、耳元に至るまで余すところなく。
最後に被せたヴェールに散りばめられたのは、黒を主にした様々な色の刺繍。統一されていた色の中でも調和を失わずに済んだのは、その刺繍の柄が服に合っていたからだろう。
否、ヴェールの方に服を合わせたのが正しい。選定者が巡礼の際、エヴァドマにて受け取ったそれを付けるのは、他でもない本人が望んだこと。
巡礼がまだ主に行われていた時代、どれだけの人間がその布の奥で涙を流し、絶望したのか。
真実は時代と共に薄れ、習慣だけが残り。そして、今、そのヴェールは本来の役目を果たすこととなった。
頭の先から足先まで整い、改めて見やった姿から滲む魔力は微々たるもの。馬車と大聖堂でも障壁を張るならば、人が影響を受けることはまずないだろう。
そう、これでようやく、最初と同じぐらい。長年ペルデが違和感を抱き、恐れ続けていた頃と同等。
普通の人間なら気付かない。だが、感性が強い者なら気付いてしまうだろう。
その瞳の異様さを。それは、バケモノなのだと。
紫が瞬き、そうして閉じる。深く息を整え、伸びていた背が僅かに、曲がる。
「……重い」
無理もない。魔術で温度が保たれているのをいいことに薄着で過ごしていた身体が重々しい布で固められているのだ。
全身に鉛とまでは言わないが、口に出す程度には苦痛な様子。
とはいえ、この儀式はディアンの姿を見せ、『精霊の花嫁』が実在していることを見てもらうのが目的。
見世物ならば相応の飾り立ては必要となり、本人の不満が含まれることはない。
「それだけ着込めばな」
実際に声に出したのは、見守っていた伴侶当人だ。
同じく着飾るべきエルドの姿は、お世辞にもディアンと相応とは言えない。事前に聞いていなければ目を疑っただろう。
見苦しくはないが、これが精霊と言われて信じる者はいないだろう。
だが、自分の愛し子を見つめる瞳は、やはり人ではない輝きで。忘れかけていた異様さを思い出させてくる。
迷いなく伸ばされた手はディアンの頬に触れ、慈しむ姿からそっと目を離す。それでもギラギラと輝いているのは、覗きに来た妖精たちの数が多すぎるせい。
「よく、似合ってる」
「あ……ありがとう、ございます。マティア様にもお礼を言わないといけませんね」
「そうだな。妖精たちにも手伝ってもらったんだろうが、ここまでの出来とは……」
精霊界に赴いた二週間も、その間に何があったのかも、人間であるペルデが知るべきではないこと。
だが、名前を聞いた途端に騒ぎはじめる妖精たちの姿をみれば、ある程度は想像もつく。
マティア。アケディア。お家。
シャラシャラと聞こえる羽の音に紛れる声は、本当にペルデの幻聴なのか。
入室のノックが割り込めば、それもすぐに消える。
「失礼致します。全ての準備が整いました。それと……」
「……問題ない、予定通り執り行う」
きっかり時刻通り。準備は滞りなく。不穏な耳打ちに対しても、大事ではないと首を振ればそれまで。
「では、我々は先に向かいます」
頭を下げるのは、ミヒェルダと共に。見つめる紫に肩をすくめたのは、ペルデのみ。
もうできることはないと部屋から出て、違和感がないかを探すのは昨日のことがあったせいか。
見張りの前を通り、外に繋がる通路を進む。異様なまでの静けさの中、外の空気はここまで伝わってくるかのよう。
緊張と、期待と、不安。……全員が献身な信者ではなくても、多数を占めるは教会に心を砕いた者たち。
いつか見た、大量の嘆願書を思い出す。
普通の人間が精霊に関われるのは、人生の内で二度だけ。洗礼が過ぎれば、あとは実在するかもわからない存在を信じて生きていくだけ。
逆に言えば、洗礼がなければ人々は精霊の存在を忘れてしまっただろう。今だって、実際に加護を受けながら、その存在を疑う者がいないとは言いきれない。
あるいは、信じたいのか。本当に彼らはいて、自分たちを見守っているのだと。だから、報われるはずなのだと。
いつか、信じていれば。加護を授けた精霊が助けてくれるのだと。
だって、実際に見初められた者がそこにいるのだから。
「ペルデ、大丈夫?」
「……俺は、別に」
「儀式のことが心配?」
緊張をほぐそうとしているのだろう。昨日の今日だ。不慮とはいえ、ペルデが襲われたことは変わりない。
イレギュラーがあれだけとは考えていないが……だが、心配かと言われれば否定できる。
「選定者様はエルド様が直々に守るし、トゥメラ隊の皆さんの警備に不足があるとは思っていない。……アンティルダの王も、今のところ素直に指示に従っている。俺が心配したところで、何かできるわけでもないし」
無責任な発言だろうが、事実だ。
最悪を想定しようと、楽観しようと、これだけの体制で防げないのならペルデに何ができるだろう。
昨日は相手があまりに迂闊で、驕っていたから気付けただけだ。実際に追いつけたところで、ペルデでは振り払われていただろう。
そもそも、侵入者が戦闘慣れしていなかったから追いつけただけで、そうでなければ、昨日のように簡単に捻じ伏せられていた、はずで。
じくり、熱が燻る。もう痛みはないのに。そこに熱はないはずなのに、掴まれた跡が、焼けつくように。
拳を握り、振り払う。ただの違和感だ。それ以上の意味はない。自分は、何も、問題ない。
「あとは、あいつが転ばなければ大丈夫じゃないか?」
「ふふ。きっと大丈夫よ」
本当に重そうな服だったと鼻で笑っても、不敬な発言を咎められることはなく。穏やかな笑いは、外に繋がる扉に手をかけたことで途切れる。
隙間から流れ込む冷気。防寒具を着ても肌を刺す冷たさに反し、押し寄せる音は静かな熱を孕んでいた。
刻一刻と迫る時刻。その時を待ちわびる人々の気配。トゥメラ隊によって確保された裏道でさえ、伝わる気迫は凄まじいもの。
王宮でさえこれなら、街ならもっと活気づいているだろう。祭りなんて、それこそ幼い頃に行ったきりだったか。
……もはや祭りなど、自分には無縁なもの。
警備に一礼し、譲られた扉をくぐる。途端、外の喧騒は遠のき、聞こえるのは囁く声がほとんど。
教会の人間にしか許されない通路を通り、階段を抜けた先に待っていたのは、どの座席よりも高所に用意された吹き抜け。
そして、先に待っていたグラナートの姿。
視線が合い、されど言葉は交わさず。ペルデの視線はすぐに周囲へ移る。
右にはオルフェン王の石像。真下の見えない死角は自国から選ばれた者たちの席。
その対面、等間隔に仕切られた座席には、服も顔つきもそれぞれ異なる者たちの姿。彼らが各国の王、あるいはそれに連なる者たちなのだろう。
座っているのは一人か二人で、立っているのは護衛と分かる者ばかり。
その会話がここまで届くことはないが、穏やかな表情からは想像もできないほどの舌戦が繰り広げられていることだろう。
間違っても聖国で騒ぎを起こすほど愚かではないはず。
万が一を防ぐための仕切りではあるが、これではどちらが見世物か区別もつかない。
本当に精霊を敬っているのは、あのうちの何人か。
聖国に邪念を抱かない者に比べ、アンティルダと結託し、聖国の失脚を狙う者は数えられないほどいるのだろう。
そして、従っている理由が恐怖だったのは……きっと、ノースディアだけだったのだろう。
青ざめ、震え、瞳孔の開いた目でサリアナを見ていた姿が頭によぎる。
いい王であったか、と問われても、ペルデには答えられない。だが、運が悪かったことには違いない。
もしスタンピードがなければ。その勢いが、まだ人間だけで抑えられるものであれば。誰かが精霊王との謁見を望まなければ。その訴えを、女王が退けきることができたなら。
王の責務として、共に精霊界に行くことがなければ。その姿を直視することさえ、なければ。
なにか一つでもそうであったなら、あの男は知らないままでいられたのだ。触れてはならない存在を。人が人でいられるための境界を。
そうして恐れるあまり、踏み外してしまったのだ。王としてどころか、人としての在り方まで。当人がそう望んでいなかったとしても。その衝動に抗うことは、できなかったのだ。
否、まともであったとして、本当に正せただろうか。守りたかった子どものうち、一人は魅了され、一人は最初から狂っていた。
それは、ただの人間に対抗できるはずもなかった。どんなに強い意志があっても、簡単に捻じ伏せられる。
どんなに強い違和感を抱いても、信じてもらえない苦痛も、助けてもらえない悲しみも……ペルデは、理解できる。
真相を知ったバケモノは、仕方なかったと言った。父と呼んだ存在から謝罪もあった。だが、全ては終わったこと。
そう、確かに仕方がなかったのだろう。ただの無力な子どもが、精霊にも等しい力にどうやって対抗できたというのか。
その違和感を言葉にすることもできず、ただ自分の意思ではないことを繰り返すことしかできず。それを信じてもらえなかったことを、いつまでも引き摺っているだけ。
それを、あろうことか元凶であったバケモノから告げられたことだって。……全て含めて、仕方がなかったのだろう。
もうペルデは、あの時の子どもではない。自分が抱えているこの感情がいかに不毛で、どうしようもないものかも理解している。
だからこそ、今ここに立っているのだ。あと半年と己を宥め、どう生きるのかを決断するために。
きっとそれは、ペルデにとっては生死を別つ選択。生きるか、生きながらに死ぬか。
それは、愛し子でなくとも、精霊を惹きつける程には……さぞ、魅力的であったのだろう。
込み上げる衝動を喉で殺しても、口は勝手に歪み、苦笑の形を取る。結局、精霊に踊らされていたことには変わりない。
時刻は迫り、予定ではもう間も無く着くはずと、入り口に向けた視線が止まる。
視界に入った濃い黒。つまらなそうに周囲を見る姿は、アンディルダの王と名乗った男。
後ろに立つのは護衛のはずだが、そのうちの一人。金髪の男はジアードと似た服装であることに違和感を抱く。
身につけた装飾こそ多いが、正直に言えばセンスがない。隣にジアードが並んでいるからこそ、余計に際立つ悪趣味さ。
ギョロギョロと蠢く目は、まるで何かに怯えているかのよう。いや、実際に怯えているのだろう。この男もダヴィードと同じ精霊を恐れているのか。
しきりに押さえている腕から覗く包帯に気付いたところで、甲高い音が鳴り響いた。





