30.襲撃
聞き覚えはなくとも、それが落ち葉を踏んだ音だと知っている。そして、それがディアンの足ではないことだって。
斜め後ろ。ディアンの死角から。振り返り身構える彼の視界に入ったのは、鈍い二つの光。
音は止むどころか増え、不快な唸り声までもが響きはじめる。木々の影から出た足は人間の物とは似つきもしない。
四本の指。角張った関節。毛に覆われた足。
徐々に露わになる姿がディアンの太ももよりも低くとも、安心できる要素は一つもなかった。
尖った耳、鋭い眼光。引き攣った口から覗く牙が涎にまみれてぬらりと光る。痩せ細った姿から伝わる気迫は弱々しさではなく、絶対に獲物を逃がさないという決意。
野犬か。犬に似た魔物か。明かりもなければ区別は付かず、ただその姿を睨みつけるだけ。
どちらでも関係ない。その牙が自分に襲いかかってこようとしていることには、変わりないのだから。
心の中で悪態付いても、この状況を変えることはできない。どうして悪いことはこうも重なるものなのか。
拳に魔力を溜めようとして止める。今周囲を照らせば、せっかく撒いた追っ手に見つかってしまう。
それに相手は獣。視覚を奪っても、臭いですぐ見つかってしまうだろう。
そもそも、足で敵わない相手に背を向けるのは得策ではない。筋力増加の魔法もあるが、これ以上魔力を消費すれば、それこそ身体がもたなくなってしまう。
逃げる選択肢はない。このまま見逃してもらえることもない。
ならば……ディアンができるのは、追い払うこと。
剣があればまだ互角に渡り合えたが、ないものを強請るより代用品を作るの方が利口だろう。
刺激を与えないよう、ゆっくりと荷物を下ろす。そのまましゃがんでも相手はまだ身をかがめていない。飛びかかられる気配がないのを確かめ、中から取り出した財布の口を開く。
鈍く光る小銭の数は少ない。故に、かき集めた石を詰め込む隙間は十分すぎるほど。
土と草ごと詰め込んだ中はすぐに満杯になり、強く口を縛れば即席の武器となる。
持ってきた財布が革袋でよかった。そうでなければ、すぐに破れて使い物にならなかっただろう。
ゆっくりと、身を起こす。まだ獣たちはディアンを威嚇し、距離を詰める段階だ。これからどう狩るか考えているのだろう。ここで先手を打つほど馬鹿ではない。
目的は勝つのではなく、追い払うことだ。この危機を乗り越え、村へ……この国を、出たいだけ。
唸り声に己の鼓動が混ざる。一挙一動を見逃さぬようにらみ合い、いつ襲いかかってもいいように構えた身体から力が抜けていく。
意識しなければ、武器を握り締めた拳さえも解けてしまいそうだ。
恐怖からではない。緊張でもない。意図せぬ反応はまるで試合の時と同じ。
息苦しさこそない。だが、腕も、足も、頭の中さえ重く。判断さえ鈍い。
首を振っても払いきれず、姿勢を低くした獣に構え直す動作さえ遅い。
ここは学園ではない。今は試合中でもなければ、魔術の実技中でもない。妨害魔法をかけてくる相手はどこにもいないのに、どうして力が抜けていくのか。
疑問を抱く余裕だってない。これは本番だ。戦わなければ死んでしまう。倒され、罵声され、馬鹿にされて終わる日常ではない。
待っているのは死だ。死んでしまうのだと、そう分かっているのにどうしてこの腕に力が入らない!
焦ってはいけないと、言い聞かせたって指先から弛緩していく。戦わなければならない。こんなところで死ぬわけにはいかない。まだ、死にたくなんてない。
なにも確かめられていない。まだなにも、なにひとつだってできていないのに!
視線は交互に。腕は構え、足は引いたまま。飛びかかってくるのは右と左、どちらが先か。
どれだけ恐怖に犯されていても、その瞬間を見逃してはいけない。だから一時たりとも逸らすことなく二匹を睨み、見つめ、警戒していた。
だからこそ――背後の草むらからの音に、反応が遅れたのだ。
揺れる音。短い声。向かってくる影。認識できたのはそこまでだった。
衝動がディアンを襲い、足が地面から離れる。容赦なく叩きつけられた肩に呻き、咄嗟に革袋を振り上げる。
当たった感触がないまま足を引き、体勢を整えようと立てた足の激痛に蹲り、歯を食いしばっても波は引かない。
三匹目が潜んでいたのだ。姿を現した二匹しか認識できていなかった。
視覚だけで判断してはいけないと、分かっていたはずなのに!
幸いにも乗り上げられていなかったが、弱った獲物を奴らが見逃すはずがない。すぐに追撃が来る!
死を直感し、腕を振り上げる。
袋を振り回すためではなく、障壁を張ろうとした手が、あるはずのない色を捉えて止まる。
――白。
それは閃光のような痛みを伴う強さではない。月明かりのように、ただ優しく包み込むものでもない。
それでも、そこにあると。存在していると。まるで自ら光り輝き、知らしめる白が、そこにあったのだ。
数拍遅れ、光っているのが毛だと気付く。そう、目の前にいるのは……同じ、獣。
理解しても呆然としていたのは、その存在が自分に背を向けていたからだ。唸ることも、威嚇することもない。
ただ目の前に立っている。それだけで、ディアンに飛びかかろうとしていた他の個体を威圧している。
他の三匹がいかに唸ろうと凛と立ったまま。あんなにも勇ましかった奴らの耳は垂れ下がり、尻尾も股の間に入っている。
……怯えている。この白い獣に。突然現れた、この存在に。
どれだけそうしていたか。やがて吠える声が一つ響き、それだけで弱々しい声を発して走り去る姿を呆然と見送る。
残ったのは、歪な姿勢のまま固まっていたディアンと、白き獣のみ。
ゆっくりと振り返った存在は、たとえるなら狼に似ている。
大きな耳と尻尾、肉付きもよく似ているが、毛並みは野生のものとは思えないほど美しい。
汚れ一つない白。明かりの下なら艶やかな光まで見えただろう。
だが、見とれたのはその毛皮ではなく、見つめる瞳だった。
ラインハルトのような海の色とも、サリアナのような空の色とも違う。どこまでも透き通った、美しい青。
不純物のない、澄み切った水を凍らせたような。冷たさよりも高潔さを感じさせるそれは……まるで、冬のような。
ああ、まさしく。もし概念が形を得たとするなら、この姿はまさしく冬と呼ぶに相応しい。
どれぐらい見つめていただろうか。ふと我に返り、周囲を確認する。
後ろから襲われたのは確かだが、倒れたのは前ではなく横だ。荷物の位置から考えると、真横から押し倒されたのは間違いない。
それが誰に、なんて。問うことはなくても、最たる疑問は拭えない。
向き合ったまま距離は詰まらない。冷たい双眸から感情は読めず、しかし敵意もない。この辺り一帯のボス……と思うには、あまりにも目立ちすぎる外見だ。
いくら家と学園の往復だけで、情報が集まりにくい状況に置かれていたとしても、こんなにも美しい獣の情報が流れないことがあるか? 噂程度でも?
最近居着いた、にしたってあまりにも綺麗すぎる。今まで全く争った形跡がないのは異常だ。
威圧感で戦わずして勝ち続けた可能性もあるが……それで通用する相手ばかりではないのは、人も獣も同じ。
考えすぎてしまうのはディアンの悪い癖だ。今必要なのは、この存在の正体を確かめることではなく……今、どうすればいいか。
革袋をポッケの中に。それから、両手を挙げて敵意がないことを示す。
「……あなたの縄張りを侵すつもりはなかった。道が分かれば、すぐに出て行く」
言葉が通じるとも思っていないが、気持ちは伝わると思いたい。立ち上がろうとして足首の痛みを思い出し、仕方なく這いながら荷物の元へ。
この足では歩くのも厳しい。夜明けまでに辿り着くのは絶望的だ。
……でも、生きている。死なず、まだここで生きている。それだけでもよかったと思わなければ。
そう、まだ見つかったわけではない。まだなんとか……なんとか、なるはず。
そう己を奮い立たせ、荷物を掴むはずだった手が物音で強張る。揺れる草むら。咄嗟に掴んだ革袋。屈んだまま立ち上がれず、睨みつけることしかできない自分。
白い獣は唸らない。なら、おそらく獣ではなく人だろう。それを良いと思える状況では、決してない。
音が近づく。瞬き一つできないまま、暗いその先を見ようと必死に目を凝らし……差し込んでいく光に、瞼を細める。
分厚かった雲が引き、隠れていた月が姿を現す。隠すことは許さないと、まるでそう囁くように。
うっすらと見え始める影は、どうみても人だ。数は一人。いや、もしかしたら他にいるのかもしれない。先ほどと同じように、奇襲をかけられる可能性はまだ残っている。
それでも他に視線を移すことはできず、革袋を握り締める。
まず見えたのは足先だ。くたびれた靴は、どこにでもある皮のもの。
ズボンも、上着も。徐々に露わになる全てに違和感はなく……最後にようやく、その顔が明らかになった。
「――おう、大丈夫か?」
そうして、かけられた声に。その気の抜けた表情に、思わず構えを解きそうになってしまった。
閲覧ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。
やっと攻めが出てきました……。





