307.侵入者
放った魔術は掠ることもなく、壁に当たって消失する。
動揺する声。僅かに見えた顔、そこに浮かぶ焦りこそ見逃さず。
翻る影を真っ先に追いかけたのもペルデ一人。
背後で荒々しく扉が閉まる。その向こうに押し込まれたのが誰かなど、ペルデが意識することではない。
侵入者に気付いたのが自分だけという事実が全て。
そう、誰も気付いていない。廊下に待機したトゥメラ隊が、脇を走り抜ける影ではなくペルデを見て異常に気付いたのが何よりの証拠。
彼女たちには見えていない。ディアンにも、あの男にも、誰にも。
妖精の気配に慣れきってしまったかの者たちは、誰一人だってこの不快感に気付かない!
走りながら魔術を当てるなんて芸当、訓練も受けていないペルデに為せるものではない。くわえて、この半年間運動らしいこともほとんどしていない。
若さだけでは補えない距離は、されど大して引き剥がされることもない。
視界に捉えたままの影は、背丈からしても男であるのは間違いない。
だが、到底戦闘員とは思えぬ身の重さ。元より見つかるはずもないと慢心していた馬鹿の愚行だとしても、見逃せるはずがない。
あのローブを。禁忌とも呼ばれた異物を今も持っているのは、あの国だけなのだから。
いくら距離が開かずとも、意識を集中させるだけの余裕はない。
だが、自分が仕留める必要はないのだと気付けば、無数の水柱は呆気なく影を濡らし、床に波紋を描く。
――ローブで姿が見えないならば、それ以外で映すまで!
「ぎゃあっ!」
「見えた! 逃がすな!」
たとえ一部でも見えたのならば、トゥメラ隊が劣る要素はない。
伝令はすでに王宮内に巡り、多数の足音が各方向から集う。床に残る足跡は消えても、服から飛び散る水滴までは誤魔化せない。
挟み撃ちにできる手前で曲がられたが、聞こえた悪態は余裕がないことを示している。
あともう少しだと、数秒遅れて曲がった先。増えた分かれ道に舌を打ち、翻るローブの端に食らいつく。
水で濡らしたのは一時しのぎでしかない。捕らえるためには、そこにいると示さなければならないのだ。
ペルデが見失えば逃してしまう。あと少し。もう、あと僅かだというのに!
「っ、待て!」
踏み込んだ角の先、地を蹴るはずだった爪先が固まる。
見失った困惑ではない。無数に分岐した通路に戸惑ったのでもない。
それは。その影は、ペルデの目の前にあった。
炎に目を焼かれ、されど痛みはなく。それが瞳の色だと理解するまで、ほんの数秒。
背に駆け上がったのは、己の失態でも、驚きでもなく――恐怖。
血を煮詰めたように黒ずみ、されど強く輝く赤。燃えるような瞳に重ねた幻覚は、かつて自分が抱いた憧れと失望。
息が詰まり、世界が回る。それが比喩ではなく、本当に回っていると気付いたのは――それこそ、地に叩きつけられてから。
衝撃で肺の空気が押し出され、呻きとも叫びともつかぬ音が漏れる。打ちつけた頭が内側から揺さぶられ、鈍い耳鳴りに支配された世界で、それでも聞こえたのは笑う声。
「……ほう?」
鼓膜から脳へ。低い揺れの意味を理解し、心臓が音を立てる。
捻じられた腕。組み伏せられた身体。まともに藻掻けない半身で睨みつけた先、歪む深緋が絡む。
焼け焦げる幻聴は頭を打ちつけた錯覚ではなく、直視した網膜の悲鳴で。
「――ペルデッ!」
世界に音が戻る。己の名、響く甲冑の音。逸れる深緋。戻る呼吸。咳き込む音と、剥がれた手の冷たさ。
焦げるような熱に蝕まれた血がどれだけ沸き立とうと、見上げる赤に勝ることはなく。
無数の刃を向けられても怯むことなく。ペルデを解放した動きに合わせ、揺れる黒髪に重ねるのは違う恐怖。
編み込まれた一房が肩から流れ、反射する光から得るのは強い加護の気配。
精霊の祝福を受けた愛し子。その特徴を受け継ぐ外見。だが、あまりにも強すぎるそれは、もはやその範疇を超えた存在。
「怪我は!?」
「っ……問題、ありません」
「そちらの身内であったとは、知らなかったとはいえ失礼を。まさか女の園である禁地に男がいるとは思わず、貴殿らが騒ぎ立てていた不審者かと。……それとも、ガタイのいいお嬢さんだったか?」
引き剥がすようにトゥメラ隊の方へと戻され、問われた安否に対し、出た言葉に説得力はない。
解放された今も痛みが広がっている。心臓がおかしい。異常だと認識している。それは侵入者の存在ではなく、ペルデだけが分かっているもの。
彼がまだ人であるからこそ、唯一気付いているもの。
「動くな! 何者だ、貴様!」
「貴様とは随分な歓迎だ。これでも正式に招待された身であるが……」
く、と漏れる声に焦りはない。むしろ、この状況を楽しむ唇は瞳共々歪み、懐を探る仕草に動揺は見えない。
ゆっくりと、それこそ煽るように取り出したのは、一通の書簡だ。白と蒼の二色で彩られ、見慣れた封蝋の押されたそれは、ペルデも一度目を通したもの。
大聖堂にて、その瞬間を見る権利を得た、限られた者にのみ送られる招待状。
受け取ったリヴィの表情だけで、それが本物であると確認できる。
だが、それは男がここにいる免罪符にはならない。
咎める視線を受け止めながら、男は臆することなく堂々と胸を張る。
その振る舞いは、ここに居ることが当然だと主張するように。
「とはいえ、他国に姿を晒したのはこれが初めてゆえ、警戒されても仕方のないこと。本来なら正しく名乗りを上げるべきだが、禁忌に触れるため簡略化させていただく」
吊り上がる唇。深める笑み。細められた瞳の奥、煮詰まった赤が貫く。
「我が名はジアード。先王亡き後、アンティルダを統べる者なり」
隠しきれぬ熱。轟々と煮える感情は確かにそこにあると示していた。





