閑話④見誤った代償
今回はマティアのお話になります。
長らく響いていた音が、ようやく止んだ。
鉛筆は手元から定位置へ。何度も紙面に擦れ、黒ずんだ手の淵を気にすることなく、長い指が紙を捲る。
一枚ずつ丁寧に、しかし素早く描かれた絵の全ては、マティアが考えた衣装のデザインだ。
どれを選んだとしても間違いない。そう満足したところで丸め、紐で纏めた紙束を妖精たちへと渡す。
「お願いね」
シャラシャラと羽の音を響かせ、旅立つ彼女たちを見送り、大きく背を伸ばす。
これで今できる作業は全て終わった。あとは本人たちが選んだ物を、儀式までに作り上げるだけ。
一ヶ月までには決めるよう手紙を同封したが、彼らの返事が繰り上がっても確認する術はない。
長時間丸まっていた関節が悲鳴をあげ、吐いた息は重々しい。身体は弛緩しても、心までは軽くはならない。
腕は下へ。背中は背もたれへ。頭は天井を見上げ、見慣れた風景を刻みつける。
服のデザインができあがったなら、マティアがやるべき事はあと一つ。
……これから罰を受ける、その覚悟を決めること。
懲罰の準備に時間がかかると告げられたのは、ディアンたちが人間界に戻ってすぐ後のこと。
アケディア直々に罰を与えることも、その期間が一ヶ月であることも、その時に伝えられた。
準備までおおよそ一週間。この精霊界では一瞬と変わりない時間だが、こんなにも長く感じたのは後にも先にも今だけだろう。
ディアンの婚礼服のデザインを考えるために引きこもっていたが、監視が付けられていてもおかしくはなかった。
ある意味妖精たちがそうかもしれないが、抑止力があるかといえば否。
あるいは、逃げても無駄だと示していたのかもしれない。
どちらにせよ、マティアに与えられた猶予は一週間だけで、その間にディアンの服をなんとか一段落させる必要があったのだ。
時間を気にするなんて初めてだ。それこそ、人間だった頃も気にしてなかったのに。
光源もないのに明るい世界から目を伏せる。暗い視界の中、浮かぶのは何百年も前の記憶。
物心付いた頃にはもう、マティアは孤児院で暮らしていた。
実の両親が誰かも、自分が捨てられたのか、死んだから引き取られたのかも定かではなく。
似た境遇の子どもたちと、自分たちの面倒を見てくれるシスターたちがマティアにとって家族と呼べる存在だった。
兄弟と呼ぶには数が多く、思想も合わず。だが、隣人と呼ぶのも相応しくない。
教会が運営しているだけあり、衣食住は全て揃っていた。清潔な服、相応な食料、朽ちていない家。
どれか一つだけでも恵まれている方だろう。贅沢こそできなかったが、玩具も嗜好品もあった。
自分だけの物は手に入らなかったが、保護された身としては十分過ぎる生活を送っていた。……と、そう思えるのは大人になってから。
切っ掛けは、慈善活動で孤児院を訪れた貴族たち。もう顔も姿も思い出せないが、その一人が纏っていたドレスを見た時だろう。
断言できないのは、気付いた時には既に目を奪われていたからだ。
色鮮やかな布。何層も重ねられた柔らかな生地。キラキラと輝く装飾。
シスターの纏う蒼と白以外の、それも、あんなにも美しい服が存在してたなんて。
質素な服しか目にしたことのないマティアにとって、それはあまりにも衝撃的だった。
それからのマティアは、取り憑かれたように服のデザインをするようになった。
と言っても、紙も筆記用具も潤沢とは言えず。日記用に支給された本だってあっという間に使い果たしてしまった。
紙がなければ地面に書けばいいのだと、何度も書き殴っては頭に刻みつけ、それでも満たされなければ実際に作ることもあった。
端切れをかき集めた、本物とは似ても似つかぬ物。それも、人形用の出来の悪いものばかり。
知識も技術もない子どもが見よう見まねで作ったもの。どれだけ懸命に作ろうとマティアの物にはならず、他の子どもたちに渡されるのが常であったが……それでも、想像を形にできるだけでも、マティアは満たされていた。
同じ孤児院の子の中には、男なのに針仕事をするマティアを笑う者もいた。
シスターたちこそ何も言わなかったが、変わり者だと思っていたのは向ける視線からも十分過ぎるほど。
マティアが令嬢たちの口調を真似する前からそうだったので、喋り方ではなくマティア自身に向けたものであったのも、彼は自覚していた。
最低限の教育は受けていたものの、特別優秀というわけではない。顔立ちだって整っていない。
時折、裕福な家庭が養子を求めてくることもあるが、選ばれるのは限られた一部の者のみ。
マティアを含めたその他多数は、成人を迎える前に職を見つけて出て行くのが通例。そして、自分が望む道を進むことがいかに厳しいことか、マティアは理解していた。
当時、まだ洗礼前の子どもだったマティアに情勢など知る由もない。針仕事は女のもの。男が自分で道具をとることはない。
田舎でも街でも、大抵の男がつける仕事は肉体労働と決まっている。マティアも、その多数の一人になることは分かっていた。
だが、それで一生を終えるつもりはない。街にさえ出れば、こんな自分にもチャンスがあるはずだ。
職人に弟子入りするなり、服飾店の下働きから始めるなり、方法はいくらだって。
簡単な道ではない。だが、マティアの熱量を満たせるだけの場所は必ずあるはずだと。
こんな狭い場所ではない、もっと広い世界なら自分を認めてくれるところもあるはずだと。
そうして、いつか。自分の作った服が周知される日も来るはずだと。
子どもらしかぬ計画と、年相応の夢。どちらも胸に抱え描いていた未来は、思わぬ形で叶ってしまったのだ。
あの日。初めての洗礼を迎えた日に。白の瞳に貫かれた、あの瞬間に。
『――汝、己が生をなんと心得る』
……ああ、今でも鮮明に覚えている。
忘れていない。忘れられるはずがない。
跪き、頭を垂れた瞬間に包み込んだ眩しい光も。周囲のどよめきも。何より、降り注いだあの声を。
誘われるように見上げた先、自分を見下ろす美しい存在の姿。頭の先から、可憐な花びらのように美しい爪先に至るまで、全て。
ウェーブのかかった髪も、長い睫毛も、見つめる瞳も。肌も、服も、何もかもが白に包まれた女性。そう、あの時のアケディアは成人した女性の姿で、小さな唇だけが桃色だったことまで、一つ残らず覚えている。
甲高い耳鳴りも。恐怖を遙かに陵駕する存在に出会えた喜びの衝撃も。震えも、緊張も。何もかも忘れていない。
人ではないと本能的に理解して、見てはいけないものと理解して。
それでも目を離せなかった。離せるはずがなかった。
それまでマティアが美しいと思っていたのは、人ではなく身に纏う服だけ。どんな美人も、愛らしい女性でも関係なく。マティアの心を奪っていたのは、煌びやかな服そのもの。
たとえ人ではなくとも、生きている存在に惹きつけられたのは、その一度限り。
理性ではなく、もっと根本から。今この瞬間を逃せば、もう二度と会えぬとマティアは分かっていたのだ。
言葉にできずとも、魅入られていると自覚できずとも。その事実だけは、間違いなく。
『あなた、これからどうしたい?』
尊い存在に見惚れていた様を、かの者は言葉が難しかったと誤解したのだろう。
表情は変わらぬまま、他者に聞こえていれば冷たく思えただろう。
だが、マティアにとって、どれだけ甘美な響きであったか。
最初で最後の、唯一の機会。この先、孤児院を出て行って、望んだ通りの道を歩めたとして。この選択に勝る未来が待っているのか。
天秤は計る前から傾き、崩壊する。
満たされるはずがない。今、この瞬間を逃して、手に入るはずがない。
こんな美しい存在を。こんなにも、綺麗な人を、この先忘れられるはずがない。
何をしていようと、何を考えようと、自分はずっとこの瞬間を悔やみ続けるだろう。
いいや、当時の自分にそんな理性さえなかった。
ただ望んだのは。そうしたいと願ったのは、たった一つ。
「あっ……あなたのための服を、作りたい!」
立ち上がり、見つめ、本気なのだと伝えたいのだと、張り上げた喉の痛みだって覚えている。
肺は押し潰されて、頭は割れそうで、怖くて。それでも、そばにいたいと思った。彼女の、彼女のためだけの服を作りたいのだと。
他の誰でもない。この存在のためだけに。彼女のそばに、ずっと!
「あなたのそばにいて、あなたがもっと綺麗になる服を作りたい! あなたのために、あなただけのために……っ……!」
もっと伝えたかった。もっと言うべきことはあった。それでも苦しくて、息ができなくて、そう叫ぶのがやっとのこと。
うずくまりそうになって、膝に手を当てる。俯いたせいで顔を見ることができなくて、その時のアケディアの表情をマティアは知らない。
『……うん、わかった』
だが、気付いた時には、彼女の素足は視界の中に。そっと顔を持ち上げられ、見つめた白は、すぐ目の前に。
僅かに笑っているように見えたのは、マティアの幻覚だったのかもしれない。
されど、告げられた言葉は間違いなく、マティアに対するもの。
『相手は、あなたにする』
◇ ◇ ◇
……そうして、聖国に引き取られた後。『選定者』の教育を経て、今に至る。
正直、今でも優秀とは言えないし、本気で取り組んだとも言えない。
イズタムや女王とも何度か衝突したこともあったが、もう数百年も前のこと。
アケディアのためだと諭されてからは比較的真面目に取り組んだが、それでも及第点といったところか。
単純に興味がなかったのもあったが、アケディアのための服を考えたり、知識を取り入れる方を重要視していたのもある。
ディアンにはああ言ったが、その点ではマティアも大差ないし、むしろ意識は低かったと言える。
そんな教育期間を終え、アケディアと再会したのは十二年後。婚礼する、まさにその当日であった。
そこから初夜に至る過程だって覚えている。
記憶に残っていた通りの姿……ではなく、幼女姿だったことに驚いたのも、アケディアのために持ち込んだ衣装が合わないという落胆も。
そして、儀式が始まったと思った瞬間に朝を迎えていたことだって。
……そう。最中のことは、やはりどうやっても思い出せなかった。
全裸で待っていたことに動揺したような、名を呼ばれていたような。真実だったと伝えられた今も、信じられずにいる。
アケディアを疑っているわけではない。ただ、あまりにも現実味がないのだ。
明確に記憶に残っているのは、差し込む太陽の光と、きっちりと服を着た自分の姿。そして、幼女姿のまま安らかに眠る憧れの存在。
倦怠感も痛みもなく、情事の後など欠片すら存在しない、穏やかな朝の光景。これでどうやって初夜が無事に済んだ後と思えるだろう。
その後もアケディアは黙々と眠り続け、確かめる方法もなく。
同意もなく寸法を測るのもはばかられるが、何も作れないのもそれは苦痛であると、消去法で妖精たちの服を作るようになり、それを精霊王に咎められ。
……と、色々あったのも相まって、確かめようとも思わなかった。
アプリストスに囁かれたことも含め、愛されていないと思い込むには十分すぎる要素が揃っていた。
だが、マティアはそれでもよかった。彼が誓ったのは彼女を美しくすることと、そばにいるということ。
伴侶と名がついても、そこに感情を含まないのは人間同士でもあること。
彼女のために尽くすことが許されるのなら、アケディアが自分を愛していなくとも構わなかったのだ。
たとえ、その姿が初めて出会った時と変わっていても。マティアは彼女を、アケディアを愛しているのだから。
そう思っていたし、今だってそれは変わらない。
だが、同時にマティアは自分の立ち位置の脆さも気付いていた。
伴侶とはいえ愛されていないし、自分を選んだのは誰でもよかったから。であれば、もし彼女の意に沿う存在が現れたら、自分なんてすぐに捨てられてしまう。
……だからこそ、あの謁見をみた時、アケディアが奪われると思ってしまったのだ。
かの精霊と似て非なる、ギラギラと輝く強い意思。己が精霊に向けられた誓いと信念。
真っ直ぐ揺らぐことのない紫に、一体どれだけの精霊が心を奪われかけたか。
まだ人間だとは到底思えぬほどの……否、既にあの身は人間ではなく。されど、まだ自分たちの域にも達していない。
不完全で、脆くて。なのに、あんなにも強くて。だからこそ惹きつけられるもの。
精霊でこそ息を呑み、あの光景に魅入られた。ならば、耐性のない人間なら姿を見ただけで狂ってしまうだろう。
それこそ国などたやすく傾く。フィリアの愛し子など比ではない。だからこそ、選定を受けた愛し子は聖国にて匿われる。
選定されてからの十数年。人目に出られるのは婚姻の日だけ。
マティアも同じだが、あれほどの影響を与えることはなかったと断言できる。
ああ、そうだ。彼は間違いなく異質で、異常なもの。当時は嫉妬心から聞き流していたが、再び説明を受けたことで確信した。
精霊たちが求めるのも頷ける。間違いなく、彼は化け物だ。あんなにも一心に想い続ける存在を、彼らが放っておくはずがない。
だからこそマティアは焦り、奪われることを恐れ……だが、それは全て言い訳だ。
マティアが彼にしたことは明確に罪であり、裁かれるべきこと。
そもそも、アケディアへの信頼を疑ったことが原因だ。切っ掛けはともかく、ディアンにとっては巻き添えでしかない。
その上、結果としてはディアンに庇われる形ともなってしまった。彼の言葉がなければ、もっと重い罰を受けていてもおかしくなかったのに。
……それこそ、アプリストスと同じ道を辿ってもおかしくはない。
否、期間が短いだけで、自分もあんな風に苦しむのだろうか。
殺されるには至らずとも、最も辛いのはアケディアに失望されていた事実。
だが、たとえその意図がなくとも、ディアンに危害を加え、殺しかけたことは事実。
今のマティアにできるのは、全てを甘んじて受けること。
それこそ、どんな苦痛だろうと、何をされようとも、覚悟の上だ。
この罰が終わったからといって、アケディアの信頼を取り戻せるとは思っていない。ゼロどころか、マイナスからのスタートとなるだろう。
……それでも、傍にいることが許されるのなら。やはり愛されていないのだとしても、愛し続けることを許されるのなら。
彼女に尽くしてもいいのならば。やはり、マティアはそれでいいと思えてしまうのだ。
それこそがマティアの生きがい。彼の、アケディアへの誓いなのだから。
「……アンタたちは、いつも呑気ね」
マティアの心情など知らぬと、クスクスと笑う声につられて唇が上がる。
そんな自笑も、不意に聞こえた声によって強張ったものへ。
『――ティ、来て』
呼吸を一つ。それから立ち上がり、視線は背後へ向けられる。
見慣れた木目。現れたのは見慣れぬ扉。
……マティアを裁く準備が、整ったのだ。
まだその名で呼んでくれることへの喜びと、罰に対する恐怖。込み上げるなにもかもを押し殺し、足は前へと進む。
「……机の上は危ないから弄っちゃ駄目よ。暫く会えないけど、元気でね」
見送りか。ただ単に付いてきているだけか。
その判断も面倒だと別れを投げて、汗ばむ手がノブを握る。
今すぐ後退りたくなる足を叱咤し、目を伏せ。もう一度だけ、大きく息をする。
臆するな。逃げるな。そう、何があっても逃げない。逃げるわけにはいかない。
それが、それだけが、アケディア様に示せる唯一なのだから。
滑らぬよう強く手に力を入れ、目を開く。ようやく開いた扉の先、真っ先に認識できたのは美しい白だ。
世界の全てではなく、ほんの一部。マティアの正面、それは人の形に似て、
「……キャアアアアァッ!」
――否、それがアケディアの全裸であると理解した瞬間。絹を裂くような悲鳴が轟いた。
実際に見たのはほんの数秒。だが、細部を認識するよりも先に身体ごと目を背けたのは、本能からの拒絶か。
見間違いであれと願うが、露わになった胸部の膨らみも、何一つ隠されていない下腹部も、錯覚では片付けることはできない。
まだ普段通りの幼女姿なら、ここまで取り乱すこともなかっただろう。着替えの補助など日常茶飯事。裸こそ直視しないが、インナー姿など数え切れないほど。
だが、一瞬だったとしても間違いない。今のアケディアは成人した女性。最初に洗礼を受け、マティアが魅入られた時と同じ姿で、そこにいる。
なぜ、どうして。疑問と混乱が入り交じり、視界が涙で歪む。
ああ、ああ、なんてこと! まさか着替え中だったなんて、そんな!
でも確かに自分は呼ばれたはずで……いいや、そんなことはどうだっていい!
出て行かなければ。今すぐに。彼女が着替え終わるまで、一刻も早く!
「ひっ、い、ぁ、もっ……申し訳ありませんっ!」
呂律も回らず、謝罪もまともに告げられず。作業場への帰還は、顔面の強打で未遂に終わる。
鼻への容赦のない一撃。骨が折れたと思うほどの激痛は、額に対しても同じく。勢いで扉を閉めてしまったのかと、強く目を閉じたまま探る手に触れる感触はない。
背を向けているのだから裸を見ることはないとようやく気付き、涙に溺れながら掴むはずだったノブは、どこにもなかった。
「え、あ、なんっ……ど、どうしてっ……」
ノブどころか、扉すら。あるのは見慣れた木目だけ。
最初からそこには何もなかったのだと、固い感触が現実を突きつける。
空間を繋げようとしても感覚が掴めず、ただ壁に縋っているだけ。
集中できないのは混乱しているせいもあるが、それだけではないことをマティアは気付いている。
ここから出ないように、何者かに阻まれている。
誰に、なんて答えは分かっているのに示せないのは、それこそ混乱しているせいなのか、あるいは認めたくないからなのか。
逃げないと固めた決意はあまりに呆気なく崩れ落ちている。
だが、それはマティアが弱いからではなく、彼の信念以上に、この状況が許容を超えていたからだ。
混乱しながらも、ここがどこかを理解する。今は壁しか見えなくとも間違いない。あんな大きなベッドが置いてあるのは、アケディアの自室だけ。
入った記憶はそれこそ数回。それも、明確に覚えているのは初夜の……と、思い出しかけたところで首を振る。
場所に間違いはない。だが、自分は罰を受けに来たはずだ。なのに、どうして彼女の部屋にいるのか。どうして、ここに呼ばれたのか。
「ティ」
聞き慣れた呼称。いつも通り気怠げに聞こえて、……だが、何かが違うもの。
それは声の低さだけではない。足元から這い上がり、首の裏を掠めるぞわぞわとした痺れ。
形容しがたい感覚に、身体が固まって動かない。返事をしたいのに、振り向きたいのに。
違う。そうしなければならないのに、したくないと思ってしまっている。
「こっちに来て、ティ」
アケディアが。マティアの精霊が呼びかける。それでも愛し子は前を向いたまま動けず、手は掴めぬノブを求めて強張ったまま。
「ふ……ふく、を、きてくだ、さい」
乾いた唇が開閉し、ようやく絞り出せたのは懇願だ。
あの美しい姿をもう一度目にするなんて、マティアには到底耐えられない。
思い出しかけるだけで目眩がして、意識が飛びそうになる。鼻に込み上げる熱さは幻覚か、鼻血の前兆なのか。確かめるまでもなく、このままでは己の血がアケディアの自室を汚すのは間違いない。
せめて服を。そうすればまだ振り返ることはできるはずだと。根拠のない理由に従い、かの愛し子はそう望んだ。
「どうして?」
だが、与えられたのは布擦れの音ではなく疑問。なぜそうする必要があるのかと、心底不思議そうに。
「ど、うして、って、」
「必要ない。そうでしょう、ティ」
理解ができない。わからない。同意を求められているのに、頷くことができない。
部屋を出なければいけないのに、彼女の元に行かなければ。
矛盾する行動に身体は強張ったまま、立ち尽くしたままのマティアは、大切なことを忘れていた。
そこに自分の意思が関係ないことを。それはお願いではなく、命令であることを。
腰に違和感を抱いた瞬間、全身が何かに絡め取られる。
腕も、足も、胴体も。それが何重にも巻き付いた蔦だと気付いた時には、既にマティアは宙の上。
悲鳴を上げる間もなく、背中に与えられた衝動はあまりに柔らかく。開いた視界に飛び込むのは、天井と覗き込むアケディアの姿。
身体に感じる圧と、動かない四肢。ベッドに拘束されたことよりも、
彼女の全裸を見た衝撃の方が強く。顔を覆うはずだった腕は、ビクリともしない。
滑らかな美しい肌。覗き込む白い瞳。微笑む顔の下、見えてしまう僅かな膨らみと一部の桃色。
許容を超えてしまえば、理性など無に等しい。頭が湧き上がり、千切れる音は血管か、意識か。
だが、黒に潰されかけた視界は温もりによって遮られる。
正しくはアケディアが触れた頬から広がるように。まるで荒れた水面がスッと静まるように。
「だめ、許さない」
鮮明になった視界で、アケディアが微笑む。その裸体を見てはいけないと理解しているのに、目蓋を閉じられない。
それは見とれているのもあっただろう。だが、どれだけ力を入れようとも、瞬きどころか視線を逸らすことさえかなわないのだ。
「あ、あけ、でぃあ、さま、」
「気絶するのも、鼻血も、見ないのも、逃げるのも。全部、だめ」
ゆっくりとした口調が、混乱しているマティアに一つ一つ突きつけてくる。
魔術によって意識を繋ぎ止められている。見ることを強いられている。これこそが目的なのだと、認めたくないマティアにも分かるように、丁寧に。
ベッドの上。全裸の伴侶。どれだけ否定したくとも、条件は揃ってしまった。
そうでなくとも、小さく可憐な指がマティアの服にかけられたのなら、現実逃避などできるはずもなく。
「お、おまち、くださっ……こ、こんな、の、違っ……!」
「違わない。だって、お仕置きだもの」
違わない、わけがない。ありえない。わからない。どう考えたって、これは罪に釣り合わない。
おかしいのに伝わらない。どうして、なんで、こんな、
「今回の件は、私が勘違いさせたのが原因。いつまでも慣れないティが可愛かったから、そのままにしていた。ティが自覚していたら、ヴァールの愛し子に害を与えることはなかった」
否定できない。マティアがあんな暴挙にでたのは、アケディアを奪われるという恐怖心からきたものだ。
伴侶であるという自覚があったなら。そう思えるだけの確信があったなら、ディアンを害することはなかっただろう。
たられば、ではあっても、それは事実。
もし、儀式を無事に終えていたと知っていたら。アケディアがマティアを伴侶として認めているとわかっていたなら。誰でもいいのではなく、マティアだから選んだ事実を理解していたのなら、起こらなかった過ち。
「だから、ちゃんと教え込む。もう忘れないように、その身体に、全部」
「あ、あけ……っ……」
「気絶もさせない。鼻血を出してもやめてあげない。今の私なら、わかるまでずっとしてあげれる」
見下ろす瞳がギラギラと輝く。美しいのに、いつまでも見ていたいのに、怖い。
それまでの理想と、突きつけられる現実と。自分が抱いていたアケディアの姿と、目の前の現状。
音を立てて崩れる理想。目の当たりにする現実に耐えられないのに、意識は繋ぎ止められたまま。無理矢理引き戻されて、逃げられない。
だめだ。ダメなのに。アケディア様にこんなこと、自分が彼女を汚すなんて、そんなの……!
「アケディアさまっ――!」
「マティア」
息が止まる。慣れぬ呼び名に、その響きに。あまりにも柔らかく、優しい声に。
弛緩した腕が引き寄せられる。強張る指が触れたのは、その声以上に柔らかな膨らみ。手のひらに収まりきらぬ肉厚と、一部から与えられる硬い感触。
「見て、触れて、感じて」
その事実に滲む涙さえ許さないと、精霊は目を拭い、囁く。
お前が選んだ存在は、決して愛らしいだけではないのだと。
「私を、確かめて」
歪む唇が見えていたのは、そこまでだった。





