295.咎と祝福 ☆
少し残酷な描写があります。苦手な方は「◇」まで飛ばしてください。
まるで水に落とされた泥のように。
広がり、溢れ、されど溶け合うことは決してなく。確かな違和感は、痛みとなってアプリストスに襲いかかる。
無数の棘が胸を突き刺し、呻きは喉を埋め尽くす異物に遮られる。開いた口から溢れたのは叫びではなく、無数の花弁と己の血。
噎せるほどに刺さり、息はできず。己の身に何が起きたか理解できぬ愚か者を光が照らす。
『駄目よアプリストス。それは、駄目』
まるで子どもを諭すように柔らかく、されど悪い事なのだと伝わるように容赦なく。のたうち回ることすら許されない男へ響く言葉は、痛みの中でも紛れることなく。
絡みつく花弁と血。問いかけようとする舌を傷付けるのは、己の内から伸びた枝葉。植え付けられた花、その色は目の前を漂う光よりも濃く、禍々しく。
「げほっ! が、っ……ふ゛ぃ、り゛……!」
『私は言ったはずよ。あなたが彼を愛していたら、助けてあげられるって』
もう忘れてしまったのかと心底不思議そうに。しかし、そこに一切の慈悲は含まれない。
そう、彼女は言った。だから男はそう述べた。愛していると。欲しいのだと。手に入れたいのだと!
最初から自分のモノであるべきだったあの人間が、欲しいのだと!
『だって、あなたは彼を愛していないじゃない』
己の過ちに気付かぬアプリストスの内で、再び花が開く。突き刺さる根、その血肉を吸って開く花は美しくとも、それは男に与えられた罰の証。
『あなたは愛しているのではなく、ただ欲しがっているだけ。どうして私を騙せると思ったの?』
私が。私こそが『愛』なのに。分からないはずがないのにと。
己を否定し、貶され、怒る精霊はどこまでも優しく問いかける。
たとえその問いにアプリストスが答えられても、制裁が止まることはない。彼は一線を越えてしまったのだ。
愛し子を奪われかけたヴァールでも、己の伴侶を惑わされたアケディアでもなく。最も恐れなければならなかった存在の、触れてはならなかった禁忌を。
否定は花弁に変わり、呼吸は咳となってままならず。溢れた命の源は、締め付けられる男の足元で赤い花を咲かせる。
締め付ける精霊樹の根は、すでに喉元へ。内からも、外からも、逃げ場はなく。
『ねぇ、アプリストス。私、馬鹿にされるのも狂ってると言われるのも構わないわ。だけど、それだけは駄目。愛は沢山あってもいいけれど、偽ることだけは駄目なのよ』
それは確かに欲ではあっても愛ではない。それを愛と呼んではならない。
愛の化身である彼女にとって、それは何事にも耐えられぬ侮辱。
たとえ自身の愛し子が絡んでいなかったとしても、エルドもアケディアも止めることはなかっただろう。
それは踏み込んではならぬ領域。苦痛を与えられて然るべき所業なのだから。
『欲張りで愚かな人。愛を驕る馬鹿な人。空虚なあなたに、せめて私の花をあげましょう。眠っている間、少しでもあなたが私で満たされるように』
もはや根は深く、食い込んだ花は男を埋め尽くし、その表情が覗くことはなく。
微かな呻きは花弁の擦れる音にすら負け、巨大な花は地に沈んでいく。
『それに、こっちの方が効率的に吸い取れるし、素敵でしょう? ……ねぇ、アケディア』
「……そうね」
同意は前者に向けて。もはやモノ同然となった男を沈めながら、少女は一度瞬く。そこに感情はなく、満たすのは戻ってきた無気力感。
されど、その唇が弧を描く頃にはもう、何も残っていなかった。
◇ ◇ ◇
「……終わったら、起こして」
もはや用は済んだと、その場に横たわるアケディアを止める者はいない。
アプリストスの魔力を吸収するにしても時間はかかるし、この一連は彼女にとって負荷だったことに変わりない。
当然のようにエルドが連れて帰ってくれると疑いもせず、数秒後には安らかな寝息を立て始める少女を見たのも数秒だけ。
ふわりと浮かぶ光はエルドの前へ。向き直る薄紫に残っているのは昇華できなかった怒りと、遙かに上回る軽蔑。
睨む気力さえも尽きているのは、あまりにもアプリストスの言動が愚かすぎたからだ。
よりにもよって、フィリア相手に愛を語るなど。
少しでも冷静であったなら、間違ってもあのような発言はしなかったはずだ。
誰よりも愛という概念に溺れ、執着し、求め続ける精霊。そんな存在に必死だったとはいえ騙そうとするなど……弁護のしようもない。
いいや、元からするつもりもなく。そして、そもそも正気と言えるものがこの地に残っていただろうか。
精霊は狂っているものだ。それはエルド自身も例外ではなく……目の前に漂う彼女も、同じく。
「フィリア」
『まぁ、そんな顔をしないでヴァール。あなたの愛し子が怯えてしまうわ』
クスクスと笑うように光が揺れ、喜びを表すように明度が増す。
今のフィリアにとっては、エルドがどう反応しようと満たされてしまうのだろう。
この場に赴いたことも、アプリストスの捕獲に協力したことも、全てディアンのため。……それもまた、彼女の言う愛であることには違いない。
目的は達せた。未遂であろうとも、愛し子の略奪は重罪にあたる。
サリアナに対し、新たに加護を付与したフィリアにも罰は与えられた。精霊王の沙汰を待つまでもなく、精霊樹の養分になることは妥当。
そうと理解しても熱は燻り、苛立ちは晴らせない。
『取り上げてしまってごめんなさい。だけど、アプリストスがあんなことを言うものだから……どうしても止められなかったの』
分かるでしょう? と。可憐な声が囁く。精霊王の分身、共に生まれた三体。最も近しい存在であるあなたなら、わからないはずがないと。
まるで宥めるような囁きに、感情のまま跳ね除けるほど幼稚ではなく。
彼女が関わった時点であの男への報復は叶わなかったのだと吐いた息に、再び光は揺れる。
その動作一つとっても、彼女にとっては、歓喜の一部。
「……ディアンが持っていたベールに心当たりは」
再会したディアンが被っていたのは、全ての魔力を遮断するだけの力を持ったもの。
マティアが与えた物と気にしていなかったが、それは他の精霊に与えられた物だという。
それも、ディアンの記憶に残っていない。つまり、彼の記憶を消した可能性がある。
フィリアであればディアンが覚えていないはずがないし、どちらもエルドに隠す理由はない。
それは彼女に限らず、どの精霊に何をされたか。今のディアンなら詳細に教えてくれるだろう。
些細な行動一つでも、それが己にどんな影響を及ぼすのか。その可能性を知り、脅威を正しく理解しているディアンなら、絶対に。
アプリストスが与えた線は最初から消えている。わざわざ与える必要も、記憶を消すなんて煩わしい行為もしない。
それ以外の何者かが。ディアンの意識に残らぬよう、自身の魔力を分け与えた。
そのおかげでディアンは一命を取り留めたが……問題は、その正体を隠していること。
仮にプィネマや豪腕連中なら、怒りは抱くが納得はした。精霊界の空気から守るために仕方なく、人間を守るための行為として。
そう説明されればエルドも納得もした。落ち度は自分自身にもある。感謝こそすれ、文句を言える立場ではない。
……だが、その身を隠すということは、エルドにさえ正体を明かしたくないということ。
裏を返せば、その者こそが人間界への帰還を妨げた犯人。
外部からの魔力を遮断するということは、それはディアンの魔力を辿ることもできないということ。
連れ去ることを損じたか、あるいはそれ以外の目的があったのか。見定めることは、今のエルドには不可能。
もしアケディアの提案がなければ……それこそ、覚悟を決めるしかなかっただろう。
否、最初からそうしておけば、ディアンを失いかけることはなかった。
……苦しみを共に分かち合うと言いながら、彼を苦しめているのは、結局、
『素敵ね』
囁きが男を引き戻す。見えるのは浮かぶ光のみ。
されど、その唇が美しく吊り上がる姿が脳裏によぎる。その光景は、何一つとして間違っていないのだろう。
満たされる喜びに輝く瞳。恍惚し赤く染まる頬。クスクスと零れる声。共鳴する妖精たちの音。
『お話はしたけど、何も渡していないわ。どれだけ愛おしくとも、彼はあなたの愛し子。その一線を越えることはないし、その理由だってないわ。……でも、そう思わない精霊もいる』
想定通りの、端から期待していなかった回答。
答えが得られないなら対峙する必要はもうないと、背を向ける男に投げかける声が弾む。
『ねぇ、ヴァール。私のことを、少しは理解できたかしら?』
脈略のない問いを、戯言だと吐き捨てることもできた。理解などできるはずがないと、鼻で一蹴することだって。
だが、エルドはどれもしなかった。振り向き、僅かに眉を寄せ、見つめる。
肯定はしない。されど、否定もできない。
ディアンに出会うまで知り得なかった感情。その感情を理解できず、『フィリアに狂った』と称していたエルドは今、まさに愛に囚われているも同義。
認めたくはない。だが、否定はできない。それはどれだけ隠そうとも詳らかにされるもの。
彼女に。愛の精霊に、それを隠し通すことは不可能。
『ふ……ふふ……素敵。ほんとうに、すてき』
とろり、声が揺蕩う。葛藤も、困惑も、喜びも。全てを味わい、飲み干し、わらう。
それにすら抱く感情さえも、残さず喰らいながら。
『今はその顔だけで十分だわ。また会いましょうね、ヴァール。今度はあなたの愛し子も一緒に』
「会わせるつもりはない」
『ふふ、あは、あはは。えぇ、えぇ! また会いましょう、ヴァール! 次はもっと、もっともっと素敵になるわ!』
いよいよ抑え切れぬと声をあげ、喜び笑う声に、今度こそ背を向ける。どれだけやまかしとも起きる気配のないアケディアを抱え、空間を出るその寸前。最後に、もう一度だけ呼ばれる。
『そうそう、言い忘れていたわ』
どうせ碌なことではないと、されど聞かぬ選択肢はないと。横目で見た光は輝き、眩しく。
『――選定、おめでとうヴァール』
そうして光は、彼らを祝福したのだ。





