01.模擬戦
初投稿になります。
自分の失敗に気付くのと、高らかな音が響いたのと、どちらが早かったのだろう。
腕に伝わる衝動。重く痺れる指先。握っていた剣が宙を舞う様を目で追いかけたのは無意識だ。そうするべきではなかったと、後悔するのはいつだって全てが終わってから。
世界が揺らぎ、息が止まる。腹部にかけられた圧力は、呆然と立っていた足を地面から剥がすのに十分すぎるものだ。
腕で庇い、背を丸め、咳き込む。込み上げる酸味をやり過ごし、滲む視界で捉えたのは突きつけられた切っ先。
剣が落ちる音を掻き消す無数の声は、まるで悲鳴のよう。
だが、そのどれもが目の前にいる男への賞賛であり、自分に向けられたものは一つもないことを青年は――ディアンは、誰よりもよく知っていた。
「勝者、ラインハルト!」
一層歓声は大きくなり、ディアンが吐いた息など微かにも聞こえない。ただの授業でここまで賑やかなら、本当の試合の時なんてどうなるか想像もつかない。
宣言を受け、丸みを帯びた先端が下ろされていく。それでも立てないのは、その腹に受けた衝撃が引ききらないからだ。
吐かなかっただけマシだと言い聞かせるのは自分への慰めか。それとも、現実逃避なのか。まだ呼吸も整わない間は、その答えも出せそうにはない。
「無様だな」
容赦のない言葉は正面から。今まさに打ち合っていた相手、自分に勝った男の口から告げられたものだ。
涙で滲む視界、逆光で読み取れない表情。それでも、輝かしい金髪から覗く碧眼の冷たさは既に知っている。もう何度と向けられてきたものだ。思い出すまでもない。
周りの歓声も、ラインハルトと呼ばれた男にとっては当然のものだ。己の名を呼ぶ乙女たちに笑いかけることもなければ、賞賛する男たちに手を振ることもない。
這いつくばったままでいる敗者を鼻で笑い、睨みつけるだけだ。
まだ無視されていないだけマシかもしれないが、無視できないほどに嫌われているとも言い換えられる。どうであれ、素直に喜ぶことはできない。
「よくも堂々としていられるものだな。お前は恥という言葉を知らないのか?」
収まりかけていた声たちが別の音へ変わる。隠しきれない嘲笑。自分を哀れみ、愚かだと蔑む無数の目。
手が強張ったのは怒りでも悲しみでもなく、まだ痺れが残っているせいだ。
一度握り、それから開く。薄れぬ違和感に疑問を抱く暇はなく、整えたはずの呼吸は乱れたまま戻らず。
「実技も座学も満足にこなせないお前では知らなくても仕方ないか」
「……今日は、随分と……饒舌、ですね」
いつもなら多くても二言ぐらいで去って行くのに、よく喋る。虫の居所が悪いのか、あるいはその逆か。
少なくとも、口に滲む酸味にしかめた顔はお気に召さなかったらしい。少し鮮明になった世界で、眉間に寄せられた皺が深くなろうと出た言葉は戻らない。
「やはり馬鹿にはわからんか……身の程を弁えろと言っているんだ。よくもその様で護衛騎士になりたいなど言えるものだ」
静かな嗤いは広まっていく。いっそ大声で笑い飛ばしてもらえれば、彼の言う恥とやらで不快感も痛みも飛んだだろうに、鼓膜を苛むそれらはディアンを痛めつけるものでしかない。
今日の彼は、相当機嫌が悪いようだ。謝っても弁解しても火種にしかならないだろう。
だからこそ口を噤み、じっと痛みに耐える。視線を逸らさなかったのは、なけなしのプライドではなく、他にどうすることもできなかったから。
それさえも。否、もはやディアンの行動全てが、ラインハルトには不快にしかならず。
「なんとか言ったらどうなんだ、『加護無し』が」
「私語はそこまで! ……お前も、いつまでそうしている」
止まらぬ怒りは、第三者の声でようやく終わりを迎えた。
結果を告げた教師が場所を譲るようにと声を投げる。怪我を気遣う様子は見られない。単純に邪魔だと、隠す気も無い口調に再び響く不快な音。
早々に戻ったラインハルトは友人に囲まれ、賞賛を笑顔で受け止めている。
去り際に忘れず睨んでいたのと同一人物とは到底思えないが、あれが本来の彼であり、ディアンに対する態度が特殊なのだ。
誰だって自分を不快にさせる相手に快く対応できるはずもない。
王族である以上、必要な相手には取り繕う必要もあるだろうが……ここは学園であり、この敷地内にいるかぎりはクラスメイトだ。そもそも平民と王族では、それ以前の話である。
土にまみれた臀部ではなく、まだ痛む腹部に手を添えて立ち上がる。その腕自体も重く、呼吸も乱れきったまま。何度息を吸っても、息苦しさから解放されない。
これで足も挫いていたなら、もはや笑うしかなかっただろう。
ディアンが離れるなり、次に控えていた者が剣を構える。その様子を見届けることなく、身を預けた壁の周りには誰もいない。
加減をされたのか、本気で蹴ったのか。痛みだけでは判別もつかず、込み上げる息を殺すのが精一杯。
拳を作り、ほどく。何度か繰り返している内に薄れていく違和感も、未だに聞こえる嘲笑も、もはやいつものことだ。いつも通り負けた。ただ、それだけのこと。
実際、ラインハルトは強者と呼ぶに相応しい人物だ。この国の第一継承者として鍛錬を怠らず、座学も首位を不動の位置としている。
魔法は不得意であると公言しているが、この学園で敵う者はほんの数人だけ。
耳に入る情報は、その者の憧れ故に誇張されるところもあるが……ラインハルトが強者と呼び得る人物であることは、ディアンの中で揺るぐことはない。
試合でも、試験でも、彼が負けたとすれば幼少の頃に一度だけ。そう、そのたった一度だけだ。無敵のラインハルトとは誰が囁いたのか。
故に、ディアンの中にある感情は彼に負けたことに対してではない。むしろ瞬殺されなかっただけ健闘した方だ。
結果が分かっていても全力で挑んだのだ。諦めなかったという点だけはきっと褒められるだろう。たとえ誰にそう言われなくとも、誰もそれを認めなくとも。
そう、だからディアンの感情はラインハルトに負けたことではなく……今日も、ディアンが誰にも勝てなかったことに対してだ。
この学園に入学してからずっと。そう、六年もの間、明確に勝てたと言える回数は片手で数える程度しかない。その情報だけで、ディアンがいかに弱いか知るには十分だろう。
怠けているわけでもない。不真面目に取り組んでいるわけでもない。だからこそ救いようがないと指で差されようと返せる言葉はない。
どんな意図が込められていようと、ディアンにとっては受け止めるべき評価であり、事実だ。
痛みは治まらないが、腕の痺れと怠さは楽になってきた。同じ木剣とは思えない強烈な一撃。毎日鍛錬を積んでいるはずなのに、鍛え方があまりにも違いすぎる。
否、これはディアンの心境も関わっている。受け止める以前に、向かい合った時から身体は重く、鈍かった。
今に始まったことではない。ラインハルトでも、他のクラスメイトでも、誰かと対峙するだけで怯み、硬直してしまうのは致命的な弱点だ。
向けられているのは偽物の剣。命を取られるわけではない。それでも訓練なのだから傷つくことを恐れてはいけない。
そう理解しているつもりでも心が追いつかない。
分かったふりなら誰にだって。それを結果として出せないのであれば、どれだけ意気込もうと無意味だ。
ためらっているのは傷つけることか、それとも他のなにかなのか。
それが分かれば、少しはこの身体もまともに動くことができるのか。そんなことを考えている暇があれば、もっと剣を振るうべきなのか。
「さすがは王太子殿下」
「ええほんと。この国の王太子としても、英雄のご子息としても恥じないお姿だわ」
聞こえてくる囁き声を拾ってしまえば、自己分析もままならない。
まだ興奮している乙女たちの声は一層高く、聞こえているはずの雑音など容易に掻き消されていく。
「幼少の頃から剣術も魔術にも優れて、座学の成績も首位なんて……」
「それでいてあの容姿ですもの、非の打ち所がありませんわ」
「こうして一緒の学園に通えるなんて、まるで夢のよう……」
この国で暮らす女性であれば。それも麗しい淑女ならば、魅力的に映らないはずがない。
頭も良く、戦術にも秀でている。黄金の髪に王家の特徴を継いだ青の瞳。まさしく、絵画に描かれる王子そのものだ。
あまりにも完璧すぎる存在。実際に目にしなければ、作り話だとも思っただろう。
本来なら姿を拝見することもできない相手がすぐ近くにいるうえに、機会さえあれば御言葉を頂けるかもしれない。お淑やかに、と言われている彼女たちでも高揚するのは仕方のないことだ。
他者への賞賛に対し、嫉妬を抱かないほどできた人間ではない。
だが、それ以上に身構えているのは、続くであろう言葉に対して。
「それに比べてもう一人は……」
「あら、聞こえますわよ」
嘲笑う声は、再び。静かにディアンへ寄せられ、悪意を打ち付けてくる。実際に聞こえなかったものを含めれば、その数はもっと増えるだろう。
誰とも視線を合わせていないのに、誰もがこちらを見ている。被害妄想であればよかったが、残念ながらこれも現実。
「王太子殿下の仰るとおり、少しは恥を知ればいいのです。ギルド長様も自分の息子があれでは、あまりにも……」
「同じ英雄のご子息だというのに……」
「ですが、妹であるメリア様は『精霊の花嫁』に選ばれた御方」
「ええ、それがせめてもの救いでしょうね」
実際に語っているのは数名。だが、その声は全員から向けられているようだ。
否、音にされていないだけで誰もがそう思っているだろう。なぜディアンだけがこんなにも出来が悪いのかと。
「髪も目も黒なんて不吉だわ。そのうえあの目付き……」
「実力もないのにプライドだけあるなんて……」
言い返せるのであれば、黒髪も黒目も祖父と祖母からの遺伝だし、睨んでいると言っているつり目はそれこそ父親の特徴を引き継いだものだ。
ディアンが普通に見ていようと、周りからすれば睨み返すしかできない矮小な男としか取られていない。
髪でも目でも、どちらか他の色であればここまで言われなかったのか。とはいえ外見などそれこそどうしようもないし、実際に不吉なのはディアン自身も思っている。
だからこそ、せめて内側だけでも磨かなければならないと。一日も欠かさず剣を握り、どれだけ疲れていようと本を捲っている。
その努力は無駄になっていないはずだ。……それでも、その結果はまだ現れない。
一体自分になにが足りないのか。
「本当に、ああはなりたくないもんだな」
少しでも辿り着こうとするディアンを妨害したのは、そう嗤う男の声ではなく、授業の終わりを告げる鐘の音だった。
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