292.愛おしい子
張り上げた声の主を確かめる必要はなかった。
視線は地に落ちたまま。震えは止まらず、今だってその身は吐き気と重圧に侵され、息をするのでさえ苦しいだろうに。
だが、それでも言わずにはいられなかったのだ。
ディアンがエルドから離れることを恐れるのと同じように、マティアにとってそれは……あまりにも、耐えがたいこと。
そうだとディアンは知っている。だからこそ、この一連はアケディアに伝えなければならない。
「っ……全部、自分の独断です。だから、アケディア様は何も!」
「マティア」
訴えを遮ったのは、ディアンでも、彼の怒れる伴侶でもなく、二人を静観していたアピスの鋭い声。
抑揚のないそれは感情を伺わせず、そこにロディリアの鱗片を見て、改めて親子なのだと気付かされる。
「愛し子の失態は、伴侶として迎えた精霊にも咎が及ぶ。たとえどのような意図があったとしても、お前はヴァール様との盟約を背き、アケディア様への信頼を損ねた。そして、伴侶であるアケディア様も無関係ではない。……私は確かに、お前にそう伝えたはずだ」
それはきっと、ディアンが正式にこの地に迎え入れられる時にも伝えられる言葉なのだろう。
逆に言えば、それは伴侶である精霊が自分たちを守ってくれているということでもある。
だからこそ誠実に、盟約を破ることはあってはならない。それは、この地に迎え入れた精霊の信頼を落とすことと同じなのだと。
最初に迎え入れられたからこそ、その重みを誰よりも理解している彼女の言葉。それが少しでも理解できていたなら、ここまでの事態にはならなかったであろう。
「ですがっ……!」
「マティア様」
反論はアケディアに対しての焦り。されど、この場ではただの反抗にしか思われないと。再びエルドの圧が強まるのを感じ、その手を握りながらディアンが呼びかける。
「あなたの不安を煽ったことは僕らにも責任はあるでしょう。事情を説明したにも関わらず思い込み、嫉妬に駆られて癇癪を起こし、この事態を予測しないまま行動したマティア様にも責任がある。……そして、」
あの謁見も、儀式を行わずにこの地に留まっていることも、マティアにとっては理解できないことだ。否、後者に限って言えば、他の精霊も同じ。
もはや障害はなく、あとは番うだけ。一年など瞬きにも等しく、待つだけの価値はないと。
そもそも、ディアンとエルドの真意を、会って数日も経っていない彼に理解できるはずもない。理解されなくともいい。
エルドがそう望み、ディアンもまたそう望んだ。どれだけ不本意と思われようと、譲るわけにはいかなかった。
他でもなく、彼らはそう選択した。その結果ではなく、そこに至る道を。その一瞬にも等しい時を分かち合うことを。
どれだけ愚かと言われようとも、共にあることを。
それはエルドだけではなく、ディアンの我が儘でもある。それに付き合わせてしまったことは、ディアンたちも反省すべき点だ。
それでも、それはただの切っ掛け。露呈したのが、単に今この時であっただけ。
根本が改善されない限り、いつかは明らかになったこと。
そして……繰り返さないためにも必要なことなのだと。紫は強く、重ならない銀を見つめる。
「あなたを勘違いさせたアケディア様本人が、全ての元凶だ」
弾かれたように顔が上がる。それは彼女の名に反応し、無意識に反論しようとしたのだろう。
だが、声は出ず。はく、と開閉しただけ。
「あなたが僕のことを嫌おうとも、今後他の伴侶をどう思おうとも勝手だ。だが、何であれ伴侶であるアケディア様には真意を問わねば――」
「っ、だから! 伴侶じゃないって言ってんでしょ! 儀式はっ――!」
「そこからおかしいと言っている!」
反論を声量で捻じ伏せ、紫はより強く輝く。
それこそが勘違いなのだと。そもそもの間違いなのだと。まだ認めることのできないマティアに、もはや怒鳴りつけるように。
「あなたの言う通り、初夜以外に方法があったとしても! エルドが僕に言わないはずがない!」
「どっからその自信が来るわけ!? こっちに戻りたくないから提示されてないだけじゃっ……」
「信じているからだ!」
もはや咎められていたことすら吹っ飛んでいるのだろう。その肝の強さはマティアの強みか。
反感を抱かれる態度も、今咎められない理由もわからぬまま怒鳴り返した男に、かの愛し子が引くことはない。
銀は揺らぎ、紫はより強く。その光を増す。
「たとえ僕がそれを選ばないと知っていても、彼が意図して隠すことはない! そこには必ず理由があり、それは僕のためだと信じている!」
言う機会を失っていたのだとしても、その本質は変わらない。
精霊であったことも、加護を与えていたことも隠されていた。
だが、それはディアンの選択を阻まぬためだ。ディアン自身の意思で選べるように、ディアンのために。
今だって、まだ明かされていないことは多いだろう。それでも信じている。ディアンは、エルドを信じているのだ。
「精霊界に迎え入れられる方法が他にあるのなら、ここまでエルドが秘匿にする理由なんてない。その結果が同じだとしても、意味もなく隠すことだって――!」
「……待て、待てディアン」
冷静に、とは言えぬ静止はすぐそばから。手を握り、向き直ったエルドから耐えがたい威圧は消え、なんとも言い難い表情でディアンを見る瞳は困惑がやや強い。
熱くなりすぎたと反省し、しかし言葉は続かず。一つ、二つと瞬く間も時間ばかりが無駄に過ぎる。
「…………なんだって?」
「い、意味もなくあなたが隠すことはないと……」
「違う違う、そっちはそうなんだが。……初夜以外に方法があるって、誰が言った?」
俺が聞き間違えたのかと、そう確かめられてもマティアを示す以外に答えはなく。その頭の中に星空が広がっているように見えたのは、それだけ不可解な顔をしていたからだろう。
そして、それはこれまでを見守っていたアピスも、その隣にいるシュラハトも同じ。
「……冗談か?」
顔を逸らし、上を向き、眉を揉み。やっとの思いで振り絞ったのは、ディアンのセンスを疑う言葉。
もうこの一連だけでもディアンの予想は肯定されたも同じ。ただ、想定以上の反応に、戸惑わないと言えば嘘にはなる。
思わず確かめたくなるほどに、精霊にとってそれはあり得ないことなのだと。
「マティア、まさかお前……今までそう思っていたのか? 本気で?」
「な、なに? だって……」
沈黙こそが肯定であるが、それでも信じがたいと問い詰めるアピスに対し、マティアも返せる言葉はない。彼にとっても、この反応は想定していなかったのだろう。
「マティア。せめてもっとまともな言い訳を……」
「う、嘘じゃないわよ! 本当にしていないんだからっ!」
「いやいや、ありえないって。本当に? ……嘘だろ?」
いよいよシュラハトまで首を振り、もはや笑うしかないと顔は歪む。
マティアが本気でそう思っている事実にアピスたちはおろか、エルドの表情だって戻る気配はない。
理解したくないというより、したくてもできない、と言ったところか。
「君さぁ、逆にどうやったらそんな勘違いできるわけ?」
「――うん。私も、聞きたい」
可憐な声に全員の視線が扉へ注がれる。
そこにいた少女の姿に誰よりも驚いたのは、地に跪く男。
されど、その名を呼んだのは違う者。
「アケディア」
「聞いたし、言いたいこともある。償いはするけど、先にこっち」
食い気味の呼びかけは、彼女にしてはハッキリとした口調で止められる。
少女が見つめるのは、怯え震える己の愛し子のみ。
その視線に含まれるものは、やはり怒りではなく。
「アケディア様。マティア様との儀式は、確かに行われたのですか」
「した」
「…………え?」
あまりにもあっけない肯定。
エルドは顔を顰め、アピスとシュラハトは呆れ。問いかけたディアンは息を吐き、真実を告げられたマティアだけが声を出す。
「でも、ティは覚えてない」
「それは、気絶している間に終わらせたと言うことですか?」
勘違いする余地を与えないために問いかければ、やはり返答は頷き一つ。
「鼻血」
「……ん?」
「準備して待ってたら、鼻血出して、気絶した」
だから覚えていないという補足は、さすがにディアンの予想にはなかったこと。
「……鼻血?」
「裸見たら、すぐに倒れた。起きるまで待ってたけど、起きる度に気絶したから、待てなかった」
「え、な……え……?」
そうでしょうと、問いかけられたマティアは硬直し、その顔はみるみるうちに赤くなっていく。
されど、やはり心当たりがないのか。口走っているのは言葉にもならぬ呻きばかり。
「その割には定期的にヤってたみたいだけど? それも全部覚えてないって?」
「ヤっ……!?」
「うん。いつも気絶する。だから、まだ起きてるティとはしてない」
なぜシュラハトが知っているのか。その謎はさておき、性行為などしないと豪語していたマティアにとっては衝撃的な発言ばかり。
初夜だけではなく、他の夜の営み。自身が勘違いしていた理由も含め、本人には到底耐えられないものだったのだろう。
「だ……だって、あれ……夢じゃ……」
思わず呟いたそれは、問いかけたつもりはなかったのだろう。
だが、囁きは漏れることなくアケディアの耳に届き、微笑がその答えとなる。
一層赤くなる肌。それよりも鮮明な色は鼻から流れ落ち、咄嗟に手で押さえても遅く。
「馬鹿なティ」
慌てたのはディアンだけで、正面からそれを見ていた精霊からは無情な言葉が一つ。
されど、その響きは柔らかく。近づく一歩に躊躇いはない。
「だ、だめです、い、いま、汚れっ……!」
「馬鹿で、可愛くて……愛おしいティ」
咄嗟に逃げようとした身体が、その一言で硬直する。ゆっくりと近づいたアケディアは、そのすぐ目の前で立ち止まる。
同じ視線、絡む同じ色の瞳。微笑む顔は、間近。
「誰でもいいなら、あなたを選ばない。あなたが私を選んだから、私もあなたを選んだ。これは言っていなかった、それは反省。……でも、」
呆然と見つめる男の頬。今にも煮えたぎりそうな赤を、小さな指が包み、捉える。
逸らさぬように。逃げぬように。
「初夜してないなんて、言ってない」
ディアンからでも分かるほどに強く、輝く白が、マティアを貫く。
どんな鈍い者でも、それが怒りからであると気付くほどに。強く、強く。
「誰? そんな嘘、吹き込んだの」
「あ、アケ、あけでぃ、あ、」
「私じゃないでしょ。……いい、見るから」
話しても埒が明かぬと、吐いた息は呆れも含み。引き寄せられた顔は、そのまま額が触れ合う。
文字通り、彼の記憶を見ているのだろう。もうあと数センチでも近づけば、たやすく口が触れるほどの距離。ディアンたちにとっては数秒で、彼にとってはどれだけの時間だったのか。
……いや、たとえ何秒であったとしても。彼の精神では耐えきれなかったのは、間違いなく。
「マティア様!」
噴き出す鮮血。崩れ落ちる身体。そのまま地に倒れる姿に呼びかけたが、気を失った男が反応するはずもなく。
頭を打つ前に魔術で守ったか。中途半端に浮いた頭部は、その場に座るアケディアの膝上へと乗せられる。
厭わず血を拭う彼女の顔は、エルドが普段ディアンに向けているのと同じで……しかし、やはり歪なもの。
「あーあ、情けない」
「そこまで拗らせていたとは……」
「……アケディア」
同じ男としての嘲笑と、マティアの崇高を侮っていたことを含めての呆れと。夫婦それぞれの発言を聞き終えたところで、ようやくエルドが声をかける。
「なぜ訂正せずに放置していた」
マティアが勘違いしていたことを故意に放置していたのは間違いない。
彼女が彼を愛しているかはともかく、初夜に限って言えば、もっと早く訂正していれば今回の事態は起こらなかったはずだ。
嫉妬こそされていただろうが、多少なりとも変わっていたはず。
「可愛かったから」
やはり責任の大半はお前にあると詰め寄られ、されど少女の姿をした精霊は悪びれた様子もなく答えるだけ。
「悩んで、落ち込んで、でも私だけ見ているの、可愛かった。ティが勘違いしているのも、可愛かった。……でも、吹き込まれていたのは、想定外」
愛おしさと、苛立ち。折り重なった瞳は、唸る愛し子からエルドへと上がり、瞬く。
「でも、確かに悪かった。だから償いする。その代わり、手伝って」
「……お前、言っていることが滅茶苦茶すぎるだろ」
もはや怒りを通り越して呆れしか込み上げないらしい。頭を押さえ、息を吐き、睨み付けてもやはり少女の表情は変わることはなく。
「償いたくても力が足りない。これはあなたも関係してる。ティをたぶらかしたのも、その子を無理矢理手籠めにしようとしたのも、あの馬鹿がしたこと」
肌越しに魔力が強まるのを感じ、同時にディアンの頭にも同じ男が浮かび上がる。
マティアに自分を連れて来るよう進言し、揺さぶりをかけた男。
寸前のところで逃げられたが、助けがなければ、こうしてエルドのそばにはいられなかっただろう。
だが、どうやって助かったのか。その肝心な部分を何も思い出せず。思い出す時間さえもない。
「協力してくれるなら、人間界への道を確保してあげる」
「ですが、それは……」
「力さえ奪えば、私ならできる。ヴァールも制裁するだけの理由がある。私もティのお礼ができる。悪くない」
「確かに、不可能ではないかもしれないが……」
「時間もない」
もうアケディアの中では、エルドが協力するのは決定事項なのだろう。あとはあなたが頷くだけだと、見上げる少女の指が空に浮く。
されど差したのはエルドではなく、その腕の中。見つめる紫から、机の上に。
「あれ。ティが渡したのじゃない。フィリアからでもない。もっとタチが悪い、知らない精霊」
「……ディアン」
称されたのは、それまでディアンが身に付けていた黒いベール。畳まれ放置されたそれは、今まで存在を忘れていたもの。
言われた本人でさえ、どうやって手に入れたのか思い出せず。肩を掴まれ、呼びかけられても答えられない。
「覚えていないんです。誰かに会ったような気は、するん、ですが……」
まだ数時間も経っていないはずなのに。どれだけ考えても思い出せない。否、思い出そうとすることを、恐れている。
柔らかく、温かな。なのに、どこまでも沈みそうな。懐かしいようで、異様な感覚。
思い出さなければいけないのに、思い出してはいけないと。ディアンの何かが強く、訴えかけている。
「ほら、タチが悪い」
恐怖と、葛藤と。揺れ動き滲みだした汗は、エルドに撫でられたことで止まる。
言いたくても言えない。思い出したくとも思い出せない。
他人の愛し子にそんな術をかける精霊が、このままディアンを見過ごすとは考えられない。
このベールを送った理由がなんであれ、もはや猶予はないだろう。
……人としての時間を諦める以外には。
「しかしアケディア様。それだけでは償いとしては……」
「ヴァールも、勝手にマティアを責めた。私を待たないのは、卑怯」
「それは……」
愛し子の咎が精霊にあるならば、その精霊がいる場で咎めなければならない。
ディアンが殺されかけたことでエルドも冷静さを失っていたが、アケディアの訴えにも一理ある。
正当性があろうと、それはエルドも守らなければならなかったこと。追求されれば、返せる言葉はない。
「ティは私が叱るし、罰を与える。協力してくれるなら、人間界に戻せる。それでも足りないのは、後で考える」
それは、決して罰を受ける側の者が提示すべきではないこと。
だが、どれだけ考えてもそこに異論が見つからないのなら……エルドも、頷く以外の反応は返せなかったのだ。
 





